〝再生〟-生まれ変わり-はスピリチュアリストの間でも議論の的となっている問題で、とかく意見が食い違うことがある。シルバーバーチはこれを全面的に肯定するスピリットの一人であるが、ただ従来の輪廻転生説に見られる機械的な生の繰り返しではなく、進化の為の埋め合わせを目的とし、しかも生まれ変わるのは同一霊の別の意識層であるとする。次がそれについての問答である。

-意識が部分的に分かれて機能することが可能なのでしょうか。

 「今のあなたという意識とは別に、同じくあなたと言える大きな意識体があります。それのホンの一部(分霊)が今地上という物質界でそのあなたを通じて表現されているわけです。そして、あなたの他にも同じ意識体を構成する分霊が別の世界で表現されております」(訳者注-ここでいう〝意識体〟は次の質問に対する答えの中に出て来る〝内奥の霊的実在〟と同じで、これを私は浅野和三郎氏に倣って〝中心霊〟と訳しておく)

-個々が独立しているのでしょうか。

 「いいえ、独立はしていません。あなたも他の分霊も一個の中心霊の側面です。つまり全体を構成する一部であり、それぞれが様々な媒体を通して自我を表現しており、時折その分霊同士が合体することもあります。ですから、分霊同士が霊的に無縁というわけではありませんが、互いに意識するのは何等かの媒体を通して自己表現し始めてからのことです。その内合流点に辿り着いて、最終的には全体として一つに再統一されます」(マイヤースはその部分的存在を〝類魂〟と呼んでいる-訳者)

-その分霊同士が地上で会っていながらそうと気付かないことがあるのでしょうか。

 「中心霊を一つの大きな円として想像してください。その円を構成する分霊が離れ離れになって中心核の周りを回転しています。時折分霊同士が会ってお互いが共通の円の中にいることを認識し合います。その内回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て再び元の円が完成されます」

-二つの分霊が連絡し合うことが出来ますか。

「必要があれば出来ます」

-二つの分霊が同時に地上に誕生することがありますか。

 「ありません。全体の目的に反することだからです。個々の意識であらゆる界層での体験を得るということが本来の目的です。同じ界層へもう一度戻ることがあるのは、それなりに成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られます」

-個々の意識は自らの進化に自らが責任を負い、他の分霊の体験による恩恵は受けないというのは本当でしょうか。

 「その通りです。個々の霊は一つの中心霊の構成分子であり、様々な形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて小我が大我を意識していきます」(訳者注-マイヤースは〝類魂〟の説明の中で他の仲間の体験を自分のものとすることが出来ると述べている。ここでシルバーバーチはそれを否定するかのようなことを述べているが、マイヤースが喜怒哀楽を中心とした体験を言っているのに対して、シルバーバーチは例によって因果律の観点から述べているのであって、たとえ同じ類魂同士とはいえ、他の仲間の苦難の体験によって罪業が中和されたりすることはないという意味に解釈すべきである)

-そうして進化のある一点においてそれらの小我が一体となるわけですね。

 「(理屈では)そうです。無限の時を経てのことですが・・・」

-個々の小我の地上への誕生は一回きり、つまり大我としては再生の概念は当てはまっても小我には再生はないという考えは正しいでしょうか。

 「それは成就すべき目的いかんに関わる問題です。同じ小我が二度も三度も再生することがあります。但しそれは特殊な使命のある場合に限られます」

-一つの意識体の個々の部分、というのはどういうものでしょうか。

 「これは説明の難しい問題です。あなた方には〝生きている〟ということの本当の意味が理解出来ないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的には最も下等な形態で顕現しているのです。そのあなた方には生命の実体、あなた方に思いつくことの出来る全てを超越した意識をもって生きる、その言語を絶した生命の実情はとても想像出来ないでしょう。
 宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私達霊界の者から見れば、それは実在の幽かな影を見たに過ぎません。鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解出来ない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識出来るのか、といった問にどうして答えられましょう。
 私の労苦を察してください。譬えるものがちゃんとあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれが無い。あなた方にはせいぜい光と影、日向と日陰の比較位しか出来ません。虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明出来ない程の美しい霊界の色彩を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです」

-再生は自発的なものでしょうか、それとも果たすべき目的があってやむを得ず再生するのでしょうか。

 「そのいずれの場合もあります」

-ということは、つまりは強制的ということですね。

 「強制的という言葉の意味が問題です。誰かに再生しろと命令されるのであれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下るわけではありません。ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世での過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に自覚するようになり、今こそ実行するのが自分にとって最良の道だと判断するのです」

-死後は愛の絆のある者同士が生活を共にすると聞いておりますが、愛する者が再生して行ったら残った者との間はどうなるのでしょうか。

 「別に問題はありません。物的な尺度で物事を考えるからそれが問題であるかに思えて来るのです。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分に過ぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、その内の幾つかが地上に誕生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁が出来て一時的な分離状態になることは確かです。が、愛の絆のある所にそんな別れは問題ではありません」

-霊魂は一体どこから来るのですか。どこかに魂の貯蔵庫のようなものがあるのでしょうか。地上では近頃産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供は幾らでも作れます。でもその場合、魂はどこから来るのでしょうか。

 「あなたのご質問には誤解があるようです。あなた方人間が霊魂を拵えるのではありません。人間がすることは霊魂が自我を表現する為の器官を提供することだけです。生命の根源である〝霊〟は無限です。無限なるものに個性はありません。その一部が個体としての表現器官を得て地上に現れる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。霊は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。しかし個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。霊界には既に地上生活を体験した人間が大勢います。その中にはもう一度地上へ行って果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が沢山います。そして、その目的の為のチャンスを与えてくれる最適の身体を求めているのです」

-人間の霊も原始的段階から徐々に進化して来たものと思っていましたが・・・・。

 「そうではありません。それは身体については言えますが霊は無始無終です」

-古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いはどこにありますか。

 「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上ということです」

-類魂の一つひとつを中心霊の徳性の表現とみてもいいでしょうか。

 「それは全く違います。どうも、こうした問にお答するのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄み切った空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります」

-それはマイヤースの言う類魂と同じものですか。

 「全く同じものです。但し、単なる霊魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化の為に各自が体験を求めて物質界にやって来るのです」

-その意識の本体に戻った時各霊は個性を失ってしまうのではなかろうかと思われるのですが・・・

 「川が大海へ注ぎ込んだ時、その川の水は存在が消えてしまうのでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、例えばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」

-なぜ霊界の方から再生の決定的な証拠を提供してくれないのでしょうか。

 「霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などが有り得るでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になって初めて事実として認識されるのです。再生はないと言う者が私の世界にもいるのはその為です。まだその事実を悟れる段階にまで達していないからそう言うに過ぎません。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしょうがないでしょう。芸術家がインスピレーションの体験話を芸術的センスのない人に聞かせてどうなります。意識の段階が違うのです」

-再生するということが自分で分かるのでしょうか。

 「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとは限りません。神の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現してもその分量は僅かであり、表現されない部分が大半を占めています」

-では無意識のまま再生するのでしょうか。

 「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂が自覚していても、知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘に触れた問題で、とてもあなた方の言語では説明しかねます」

-生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか」

 「愛は必ず成就します。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は必ず愛する者を引き寄せ、又愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂くことは出来ません」

-でも再生を繰り返せば互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが。

 「一致しないのはあなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神が拵えたのであって、その子供であるあなた方が拵えるのではありません。賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させる為に事実を曲げようとしてみても所詮は徒労に終わることを知っているからです」

-これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはマシな人間であってもいいと思うのですが・・・・。

 「物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間はいつまでも最下等のままです。体験を積めば即成長というわけには行きません。要は魂の進化の問題です」

-これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか。

 「そうです。無限に続きます。なんとなれば苦難の試練を経て初めて神性が開発されるからです。丁度金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて初めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて初めて強く逞しい輝きを見せるのです」

-そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか。

 「今日あなたには天国のように思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」

-再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に。

 「そうとは限りません。目指している目的の為に最も適当と思われる国、民族を選びます」

-男性か女性かの選択も同じですか。

 「同じです。必ずしも前生と同じ性に生まれるとは限りません」

-死後、霊界に行ってから地上生活の償いをさせられますが、更に地上に再生してから又同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか。

 「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。生まれ変わるということは必ずしも罪の償いの為とは限りません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。勿論償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。ましてや二度も罰せられるということは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚かされる筈です。決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」

-自分は地上生活を何回経験している、ということをはっきりと知っている霊がいますか。

 「います。それが分かるようになる段階まで成長すれば自然に分かるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることが出来ないのと同じです。名前を幾つか挙げても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言って来ましたように、再生の事実は〝説く〟だけで十分な筈です。私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向に構いません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。人が受け入れないからといって、別に構いません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」

-再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的を絞るという考えは如何でしょう。

 「闇の中にいるよりは光の中にいる方がよろしい。無知のままでいるよりは摂理を少しでも多く知った方がよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探求に励む方がよろしい。向上を目指して奮闘するのが良いに決まっています。死後存続の事実は真理探求の終着駅ではありません。そこから始まるのです。自分が神の分霊であること、それ故に何の苦もなく、何の変化もなく〝死〟の関門を通過出来るという事実を理解した時、それで全てがお終いになるのではありません。そこから本当の意味で〝生きる〟ということが始まるのです」

-新しい霊魂はどこから来るのですか。

 「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。聖書でも〝神は霊なり〟と言っております。ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答しましょう」

-ということは、我々は神という全体の一部だということですか。

 「その通りです。だからこそあなた方は常に神と繋がっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることは有り得ないし、消されることも有り得ないし、破門されるなどということも有り得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります」

-でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう。

 「これ又用語の意味が厄介です。あなたの仰るのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。その意味でしたら、それはよくあることです。但し、それは今地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します」