「宇宙の大霊すなわち神は無限の存在です。そしてあなた方もその大霊の一分子です。不動の信念をもって正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することが出来ます。このことに例外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信仰に間違いがなければ、必ずやそれを手にすることが出来ます。
 それが神の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、必ずや良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているに過ぎません。地上の歴史を紐解けば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい者でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られることのなかった人々が大勢いることが分ります。忠実に生きずして摂理に文句を言う人間を引き合いに出してはいけません。
 時として酷(きび)しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服出来ないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、その内きっと全障害を乗り越えることが出来ます。そんな時は神の象徴であるところの太陽に向かってこう述べるのです-自分は神の一部なのだ。不滅なのだ。永遠の存在なのだ。無限の可能性を宿しているのだ。その自分が限りある物質界のことで挫けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることはありません。
 多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのだろうかと訝(いぶか)ります。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。〝完(まった)き愛は怖れを払う〟(ヨハネ①4・18)〝まず神の御国と義を求めよ。さらば全てが汝のものとならん〟(ルカ12・31)
 これは遠い昔神の摂理を理解した者(イエス)によって説かれました。勇気をもって実践すれば必ず成就されることを身をもって示しました。あなたもその摂理が働くような心構えが出来れば、何事も望み通りの結果が得られます。
 もう一つ別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることは出来ないということです。よい霊媒現象を得たいと思えばそれなりの感受性を磨かなくてはなりません。又、この世的な富を蓄積しているとそれなりの代価を支払わされます。つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされることになります。
 人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方一人ひとりが神の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産もその霊の宝に優るものはありません。私共はあなた方に内在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土塊の中に埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。
 出来るだけ高い界のバイブレーションに感応するようになって頂きたい。自分が決して宇宙で一人ぼっちでないこと、いつも周りに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚して頂きたい。そして霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となって行くことを知って頂きたい。そう願っているのです。
 人間は同胞の為に自分を役立てることによって神に仕えることになります。その関係を維持している限りその人は神の懐に抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。
 単なる信仰、盲目的信仰は烈しい嵐にひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし立証された知識の土台の上に築かれた信仰はいかなる嵐にもびくともしません。
 未だ証を見ずして死後の生命を信じることの出来る人は幸せです。が、証を手にしてそれを基に宇宙の摂理が愛と叡智によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることの出来る人はその三倍も幸せです。(訳者注-死後にも生命があることは証明出来たが、それが永遠に続くものであるかどうかは、証明の問題ではなく信仰の問題である。それは高級霊にとっても同じで、だから究極のことは知らない、とシルバーバーチは明言するのである)
 ここにお集まりの皆さんは完璧な信仰を持っていなければなりません。なぜならば皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊力の証を手にしておられるからです。そこまで来れば、更に、今度は万事が良きに計らわれていること、神の摂理に調和しさえすれば幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。無明から生まれるもの-あなた方のいう〝悪〟の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはいけません。自分は神の摂理による保護の下に生き、活動しているのだという信念です。
 心に邪なものさえなければ善なるものしか近付きません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界からも神の使徒しか近付きません。あなた方には何一つ恐れるものはありません。あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹き込まんとする力は、宇宙の大霊から来る力に他ならないのです。
 その力はいかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。
 完き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。恐れは無知から生まれるものだからです。進化せる魂はいついかなる時も恐れることを知りません。なぜならば自分に神が宿るからには人生のいかなる出来事も克服出来ないものは有り得ないことを悟っているからです。
 恐怖心は自ら魂の牢獄を拵えます。皆さんはその恐怖心を達観しそのバイブレーションによって心を乱されることなく、完璧な信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えでこう宣言出来るようでなければなりません-自分は神なのだ。足下の事情などには迷わされない。いかなる困難も内部の無限の霊力できっと克服してみせる、と。その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを何を好んで(恐怖心などで)縮こませるのでしょう。
 神は物的なものも霊的なものも支配しております。神の目からすれば両者に区別はありません。ですから物の生命を霊の生命から切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者共一大生命体を構成する不可分の要素であり、物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。
 ですから、あなた方のように霊力の恵みを受けておられる方にとっては、いついかなる場においても神の存在を意識した生き方をしている限り、克服出来ない困難は絶対に降りかからないという信念に燃えなくてはなりません。
 世の中のいかなる障害も、神の目から見てそれが取り除かれるべきものであれば、きっと取り除かれます。万が一にもあなたの苦難があまりに大きくて耐え切れそうになく思えた時はこう理解してください-私の方でも向上進化の足を止めてあなたの為に精一杯のことをして差し上げますが、今はじっとその苦難に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合がある、ということです。
 地上の人間の全てが自分が人間的煩悩と同時に神的属性も具えていることを自覚するようになれば、地上生活がどれだけ生き易くなることでしょう。トラブルは直ぐに解決され、障害は直ぐに取り除かれることでしょう。しかし人間は心の奥に潜在する霊力をあまり信じようとしません。人間的煩悩はあくまでも地上だけのものです。神的属性は宇宙の大霊のものです。
 その昔〝この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ〟という訓え(注)が説かれましたが、死後の生命への信仰心に欠ける地上の人間にはそれを実践する勇気がありません。金持ちを羨ましがり金持ちの生活には悩みが無いかのような口を利きます。金持ちには金持ちとしての悩みがあることを知らないからです。神の摂理は財産の多い少ないで誤魔化されるものではありません。(注-この世にありながら、この世的な俗人となるなというイエスの訓えで、確かに聖書にそういう意味のことを説いている箇所があるが、そっくりそのままの言葉は見当たらない。モーゼスの『霊訓』の中でも引用されているところをみると、地上の記録に残っていないだけで霊界の記録には記されているのであろう。オーエンの『ベールの彼方の生活』の通信霊の一人が〝我々がキリストの地上での行状を語る時は霊界の記録簿を参照している〟と述べている。訳者)
 人間が地上にあるのは人格を形成する為です。降りかかる問題をどう処理していくかがその人の性格を決定付けます。が、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものであり、一方あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているからには、あなたにとって克服出来ない程大きな問題は絶対に生じません。
 心の平和は一つしかありません。神と一体となった者にのみ訪れる平和、神の御心と一つになり、神の大いなる意志と一つになった人に訪れる平和、魂も精神も心も神と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ真の平和です。神の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。
 私に出来ることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。有為転変の物質の世界に神の国がある筈はありません。魂の中に存在するのです。
 神の摂理は精細を極めて完璧ですから、一切の誤魔化しは利きません。悪の報いを免れることは絶対に出来ませんし、善が報われずに終わることもありません。ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものをご覧にならずに小さいものを判断してはいけません。
 地上の束の間の喜びを永遠なる霊的なものと混同してはいけません。地上の喜びは安ピカであり気まぐれです。あなた方は地上の感覚で物事を考え、私共は霊の目で見ます。摂理を曲げてまで人間の喜びそうなことを説くのは私にはとても出来ません。
 私共の世界から戻って来る霊にお聞きになれば、皆口を揃えて摂理の完璧さを口にする筈です。そのスピリット達は二度と物質の世界へ誕生したいとは思いません。ところが人間はその面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこで私が、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。
 どこまで向上しても尚自分に満足出来ない人がいます。そういうタイプの人は霊の世界へ来ても満足しません。不完全な自分に不満を覚えるのです。神の道具として十分でないことを自覚するのです。艱難辛苦を通してまだまだ魂に磨きをかけ神性を発揮しなければならないことを認識するのです。
 しなければならないことがあるのを自覚しながら心の安らぎが得られるでしょうか。地上の同胞が、知っておくべき真理も知らされず、神の名の下に誤った教えを聞かされている事実を前にして、私共が安閑としておれると思われますか。
 光があるべき所に闇があり、自由であるべき魂が煩悶に負けて牢獄に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目の当たりにして、私共が平気な顔をしていられると思われますか。
 私共がじっとしていられなくなるのは哀れみの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に何とかして神の愛を行き渡らせたいと願うからです。神は人間に必要不可欠なものは全て用意してくださっています。それが平等に行き渡っていないだけです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に自分だけが豊富な知識を持って平気な顔をしていられない筈です。
 私達が地上の人間を指導するに当たって一番辛く思うのは、時としてあなた方が苦しむのを敢えて傍観しなければならないことがあることです。本人自らが闘い抜くべき試練であるということが判っているだけに、側から手出しをしてはならないことがあるのです。首尾よく本人が勝利を収めれば、それは私達の勝利でもあります。挫折すれば私達の敗北でもあります。いついかなる時も私達にとっての闘いでもあるのです。それでいて指一本援助してはならないことがあるのです。
 私も、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度があります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならないと自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。その時の辛さは苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし本人自らの力で解決すべき問題を私か代わって解決してあげることは許されないのです。もしも私が指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。もしも私がこの霊媒(バーバネル)に為すべきこと、為すべきでないことを一々指示し始めたら、一人間としての自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としてはイザ知らず)人間としての進歩が阻害され始めます。
 霊性の発達は各自が抱える問題をどう処理して行くかに掛かっています。物事が楽に順調に捗るから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。が、そうした中にあって私達にも干渉を許される場合が生じます。
 万一私達スピリットとしての大義名分が損なわれ兼ねない事態に立ち至った時は干渉します。例えばこの霊媒を通じての仕事が阻害される可能性生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。しかしそれが霊媒個人の霊的進化に関わる問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません」

 ある日の交霊会でサークルのメンバーの間で植物の栽培が話題となった時、それを取り上げてシルバーバーチがこう語った。
 「種蒔きと収穫の摂理は大自然の法則の中でも、もっともっと多くの人に理解して頂きたいと思っているものです。大地が〝実り〟を生み出して行く自然の営みの中に、神の摂理がいかに不変絶対であるかの教訓を読み取るべきです。大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、大自然の仕組みの素晴らしさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、その全てを計画した宇宙の大精神すなわち神の御心をいくばくかでも悟られる筈です。
 蒔いた種が実りをもたらすのです。種は正直です。トマトの種を蒔いてレタスが出来ることはありません。蒔かれた原因(タネ)は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの結果(実り)をもたらします。自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。
 利己主義の種を蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑なな人、利己的な人は不寛容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる賛美歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉し都合の良いように変えることは出来ません。
 発生した原因は数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することは出来ません。霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をする他はありません。
 その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言い換えれば内部の神性が日常生活において発揮されて初めて成長するのです。邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。
 いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しています。その一つひとつが神の計画に沿って調和して働いています。この事実を推し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁出来るかのように教える誤った神学を一刻も早く棄て去るべきであることになります。
 人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡智と崇高さと美しさを増して行く上で必要なものは神が全部用意してくださっております。材料は揃っています。後は各自がそれをいかに有効に使用するかに掛かっております」