ある日、交霊会が始まる前に、メンバーの間でキリスト教についての議論があり、その中でキリスト教の牧師には神とは何かの説明を出来る人がいないことが指摘された。やがて出現したシルバーバーチは冒頭の祈りの中で神の説明をした。それは明らかにメンバーの議論を踏まえたものだった。(訳者注-シルバーバーチには冒頭の祈り Invocation と終結の祈り Benediction とがある。前者は会の成功の為の神の御加護を求めるものであり、後者は感謝と讃仰の祈りてある)

 「神よ、あなたは一体どなたに御(おわ)し、いかなるお方に御(おわ)すのでしょうか。いかなる属性をお具えなのでしょうか。
 私達(霊界の者)はあなたを完璧なる摂理の働きであると説いております。例えば宇宙に目を向けさせ、その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘致します。そしてその完璧な宇宙の姿こそあなたの御業の鑑であり、あなたこそ宇宙の全生命を創造し給いし無限の心であると説いております。
 私達には自然界の一つ一つの相、一つ一つの生命、一つ一つの草花、一つ一つのせせらぎ、小川、海、大洋、一つ一つの丘そして山、一つ一つの恒星と惑星、一つ一つの動物、一人一人の人間の目に向けさせ、その全てがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。
 私達は宇宙間の全ての現象がその根源的摂理から派生した様々な次元での一連の法則によって支配され、かくしてその働きの完璧性が保たれているのであると認識している者でございます。
 そのあなたには特別の寵愛者など一人もいないことを信じます。不偏不党であられると信じます。あなたのことを独裁者的で嫉妬心をもつ残忍なる暴君の如く画いて来たこれまでの概念は誤りであると信じます。なぜなら、そのような人間的属性は無限なる神の概念にそぐわぬからでございます。
 これまで私達は地上とは別個の世界においても同じあなたの摂理の働きを見出し、そしてそれがいついかなる時も寸分の狂いもないことを確認したが故にこそ、その摂理とそれを生み出された心に満腔の敬意を捧げ、その働きの全て-物的、精神的、そして霊的な働きの全てを説き明かさんと努めております。なかんずく霊的なものを最も重要なものとして説くものです。なぜなら、全ての実在、全ての生命の根源は霊的世界にあるからでございます。
 あなたの子等の全てがあなたの摂理を理解し、その摂理に従って生活を営むようになれば、全ての悲劇、全ての暗黒、全ての苦悩、全ての残虐行為、全ての憎悪、全ての戦争、全ての流血行為が地上から駆逐され、人間は平和と親善と愛の中で暮らすことになるものと信じます。
 ここに、ひたすらに人の為に役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを-無意味な文句の繰り返しでなく、真理と叡智と光と理解力と寛容の心を広げる手段(人間)を一人でも多く見出したいとの願いとして-捧げ奉ります」

 この祈りの後、シルバーバーチ自らその内容について次のように説明した。
 「この祈りには宇宙についての、地上の人間に理解出来る限りの理性的かつ合理的説明が含まれております。人類が暗闇の生活を余儀なくさせられているのは、一方には自ら真理に対して目を閉じたがる者が多く、又一方には既得の特権を死守せんとする者が多いからです。全ての戦争は人間が摂理に背いた生き方をすること-一個の人間、一つの団体、一つの国家が過った思想から、貪欲から、或いは権勢欲から、支配欲から、神の摂理を無視した行為に出ることから生じるのです。直接の原因が何であれ、全ては宇宙の霊的法則についての無知に帰着します。全ての者が霊的知識を具えた世界に独裁的支配は有り得ません。一人の人間が一国を支配することが不可能な組織となるからです。全ての者が霊的知識を具えた世界に流血は有り得ません。争いの起こり得ない体制となるからです。
 我々の仕事はその霊的知識を広めることです。真実の意味での伝道者なのです。伝道の意味が今日の世の中では歪められてしまいましたが、真実の意味は真理又は知識を広めることです。私達霊団は今あなた方の世界で仕事をしておりますが、本来は別の世界の者です。あなた方よりは一歩、二歩、もしかしたら、三歩程先を歩んでいるかも知れません。これまで幾つかの大自然の摂理を学んで来ました。そうして知ったことは、この世に奇跡はなく、神の特別の寵愛者もなく、選ばれし民もなく、唯一の神の子もいないということです。あるのはただ法則のみだということです。
 宇宙がいかに巨大にして荘厳であるとは言え、全てが絶対的法則によって支配されていることを知ったからこそ、こうしてその法則をお教えしようと努力しているわけです。その法則とは、原因には必ずそれ相当の結果が伴うということです。自分が蒔いた種は自分で刈り取るということです。所詮は誤魔化すことが出来ない-なぜなら自分の言動がその性格と成長具合に消そうにも消せない印象を刻み込むからです。こうした真理を土台として真の宗教を築かねばなりません。大主教の宮殿で何を説こうと、大聖堂で何を説こうと、寺院、教会堂、礼拝堂、その他、世界中いかなる所で何を説こうと、それが今述べた単純な基本的真理と矛盾したものであれば、それは誤りです。極めて簡単な真理なのです。人生を霊的摂理が支配していること、お互いが助け合うことが一番大切であること、それが霊を成長させ、性格を形成し、死後に待ち受ける新しい生活に霊的な備えを与えることになる-ただそれだけなのです。
 何も知らない人達を光明から顔を背けさせ、カビの生えたドグマを信じさせ、今日の世でも受けられる霊的啓示(インスピレーション)を無視させ、遠い薄暗い過去のインスピレーションの残骸に目を向けさせようとする既成組織を私達が非難するのは、そうした本来私達と手を取り合うべき人達、本来宗教を説くべき立場にある人々が私達の敵の側に回っているからです。人間として非難するつもりはありません。彼等の多くは彼等なりに正しいと思うことに携わっているのです。真面目な徒であり、困難な状況の中で最善を尽くしております。私達が非難するのはその組織です。真理を知る可能性がありながら虚偽に縛り付け、光明を見出すチャンスがありながら暗闇の中に閉じ込めておこうとする組織です。
 これ以上簡単な教えが一体どこにあるでしょうか。地上は今まさに大戦の真っ只中にあります。世界中に悲劇と苦悩が満ち、数知れぬ人が慰めを求め、すがるべき杖を探し、神が存在すること、我が子の苦しみに無関心ではいられない筈の親が存在するその証を求めております。牧師の下へ行っても相も変わらず古い教説に少しばかり現代風な味を加えて説くばかりです。そして直ぐに〝聖なる書〟を引用します。国によって大小様々な体裁をしていても、中身は同じ古い言葉ばかりです。うんざりするようなお決まりの教説を聞かされるだけです。霊的実在が存在することを証するものは何一つ持ち合わせていません。
 彼等が説く信仰は彼等自らが心の奥では信じ切れなくなっているものです。自分が自信を持たないでいて、どうして他人に確信が与えられましょう。人類の歩むべき道を自分が知らないでいて、どうして他人に慰安が与えられましょう。所謂〝あの世〟について自ら疑問符を付けている者が、どうして肉親に先立たれた人達を慰めてあげられましょう。先のことを何も知らない者が、どうして魂の飢えた、心の満たされない、さ迷える人々を導くことが出来るでしょう。
 ところが真理は直ぐ目の前にあるのです。求めさえすれば知識の宝、叡智の泉、真理の光が直ぐ身の回りで待ち受けているのです。宗教が無力なのではないことを彼等は理解していないのです。無力なのは宗教の名を借りた漫画なのです。三位一体説が宗教と何の関係があるのでしょう。無原罪懐胎(聖母マリアはその懐胎の瞬間から原罪を免れていたこと)が宗教と何の関係があるのでしょう。処女降誕が宗教と何の関係があるのでしょう。贖罪説(イエスが全ての罪を背負ってくれているということ)が宗教と何の関係があるのでしょう。こうした説を信じた者は信じない者より少しでも宗教的な人間になるというのでしょうか。
 地上の人間は肩書やラベルや名称を崇めるのがお好きです。が、クリスチャンを名乗ろうと無神論者を名乗ろうと、何の違いもありません。大切なのは実生活において何をするかです。仮にここに宗教など自分には無縁だと言う人がいるとしましょう。神の名を唱えても頭を下げようとしません。しかし性格は正直で、人の為になることを進んで行い、弱い者に味方し、足の不自由な犬か柵を越えるのさえ手助けしてやり、打ちひしがれた人々の身になって考え、困った人を援助しようと心掛けます。もう一人は見たところ実に信心深い人です。あらゆる教義、あらゆる教説を受け入れ、信仰上の礼儀作法には口やかましく気を使います。しかし心の奥に慈悲心は無く、生活の中において何等人の為になることをしません。前者の方が後者より遙かに宗教的人物と言えます」

-神は完全無欠ですか。

 「あなたの仰る神が何を意味するかが問題です。私にとって神々は永遠不変にして全知全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。この複雑を極めた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行き渡っております。例えば極大から極微までの無数の形と色と組織をもつ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けて頂けば、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識される筈です。私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなた方は不完全な物質の世界に生活しておられるということです。
 物質の世界に生きておられる皆さんは、今のところはその物質界すら五つの物的感覚でしか理解出来ない限られた条件下で限りある精神を通して自我を表現しておられるわけです。物的身体に宿っている限りは、その五感が周りの出来事を認識する範囲を決定付けます。それ故あなた方は完全無欠というものを理解すること自体が不可能なのです。五感に束縛されている限りは神の存在、言い換えれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界故に法則の働きが不完全に思えることがあるかも知れませんが、知識と理解力が増し、より深い叡智をもって同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気付き始めます。物質の世界は進化の途上にあります。その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、様々な発展的現象があります。それは地球を形成していく為の絶え間ない自然力の作用と反作用の現れです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していく為の手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です」

-神は完全だと仰いましたが、我々人間が不完全であれば神も不完全ということになりませんか。

 「そうではありません。あなた方は完全性を具えた種子を宿しているということです。その完全性を発揮する為の完全な表現器官を具えるまでは完全にはなり得ないということです。現在のところではその表現器官が極めて不完全です。進化して完全な表現器官、すなわち完全な霊体を具えるに至れば完全性を発揮出来るようになりますが、それには無限の時を要します」

-ということは神の全ての部分が完全の段階に至るのにも無限の時を要するということでしょうか。

 「違います。神は常に完全です。ただ現在物質の世界に人間という形態で顕現されている部分の表現が不完全だということです。それが完全な表現を求めて努力しているということです」

-それを譬えて言えば、ある正しい概念があって、それが人によって間違って理解され使用されているようなものでしょうか。

 「その通りです。しかし、それも一歩ずつではあっても絶えず理想へ近付いて行かねばなりません。完全は存在します。それを私は、あなた方は本当の自分のほんの一欠片程しか表現していないと申し上げているのです。もしも現在のその身体を通して表現されている一欠片だけであなたを判断したら、極めて不当な結論しか出て来ないでしょう。が、それは本当のあなたの一部分に過ぎません。もっと大きなあなた、もっと大きな意識が存在し、それが今もあなたと繋がっているのです。ただそれは、それに相応しい表現器官が与えられないと発揮されないということです」

-お聞きしていると神が一個の存在でなくなっていくように思えます。独立した存在としての神はいるのでしょうか。

 「真っ白な豪華な玉座に腰掛けた人間の姿をした神はいません。神とは一個の身体を具えた存在ではありません。法則です」

-それに心が具わっているわけですか。(ここでは〝心〟を〝精神〟と置き換えて考えてもよい-訳者)

 「心というものは、あなた方のような身体だけに限られたものではありません。法則を通して働いているのです。心を脳味噌と切り離して考えないといけません。意識というものはそのお粗末な脳細胞だけを焦点としているのではありません。意識は脳とは完全に独立した形でも存在します。その小さな脳という器との関連で心の働きを考えるのは止めないといけません。心はそれ自体で存在します。しかし、それを自覚するには何等かの表現器官が必要です。その為に人間に幾つかの身体が具わっているわけです(注)。身体を具えない状態を想像することは可能であり、その状態でもあなたは厳として存在しますが、あなたを表現する手段がないことになります。(注-シルバーバーチは身体のことを Bodies という複数形で用いることがあるが、それが幾つあってどういうものであるという細かい説明はしていない。巻末〝解説〟参照-訳者)
 神という存在を人間に説明するのはとても困難です。人間には独立した形態を具えた存在としてしか想像出来ないからです。言語や記号を超越したものを地上の言語で説明しようとするのが、そもそも無理な話です。創造の本質に関わることなのです。神という存在をどこかのある一点に焦点をもつ力であるとは言えません。そんなものではないのです。神とは完全な心-初めも終わりもなく、永遠に働き続ける完璧な摂理です。真っ暗だったところへある日突然光が射し込んだというものではありません。生命は円運動です。始まりも終わりもありません」

-宇宙の隅々まで神が存在するのと同じように、我々一人一人にも神が宿っていると仰るわけですか。

 「私の言う神は、全創造物に顕現されている霊の総体と離れて存在することは出来ません。残念ながら西洋世界の人は今もって人類の創造をエデンの園(アダムとイブの物語)と似たような概念で想像します。実際はそれとは全く異なるのです。宇宙の進化は無窮の過去から無窮の未来へ向けて延々と続いております。かつて何も無かったところへ突如として宇宙が出現したのではありません。宇宙は常にどこかに存在します。生命は何等かの形態で常に顕現して来ました。そしてこれからも何等かの形で永遠に存在し続けます」

-子供には神のことをどう説いて聞かせたらよいでしょうか。

 「説く人自らが全生命の背後で働いている力について明確な認識をもっていれば、それは別に難しいことではありません。私だったら大自然の仕組みの美事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドの如き夜空の星の数々に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝き、名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。あたかも囁きかけるようなそよ風、そしてそれを受けて揺れる松の林に目を向けさせます。さらさらと流れるせせらぎと、怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの動きが確固とした目的をもち、法則によって支配されていることを指摘致します。そして更に人間がこれまで自然界で発見したものは全て法則の枠内に収まること、自然界の生成発展も法則によって支配され規制されていること、その全体に、人間の想像を絶した広大にして入り組んだ、それでいて調和した一つのパターンがあること、全大宇宙の隅々に至るまで秩序が行き渡っており、惑星も昆虫も嵐もそよ風も、その他あらゆる生命活動が-いかに現象が複雑を極めていても-その秩序によって経綸されていることを説いて聞かせます。
 そう説いてから私は、その背後の力、全てを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、人間にはまだ知られていない見えざる世界までも支配している奇(くしび)な力、それを神と呼ぶのだと結びます」