(シルバーバーチの霊訓第六巻・巻末付録・訳者近藤千雄解説)

 四章の「ジョン少年との対話」に出ている〝霊〟と〝幽霊〟はどう違うかという質問は、シルバーバーチも〝中々いい質問ですよ〟と言っているように、西洋でもとかく誤解されがちな問題であるが、現下の日本の心霊事情を見てもその誤解ないしは認識不足によってとんでもない概念が広がっているので、ここでシルバーバーチの答えを敷延する形で解説を施しておきたい。
 誤解には二通りある。〝霊〟を〝幽霊〟と思っている場合と、〝幽霊〟を〝霊〟と思っている場合である。
 日本人は、何かにつけてそうであるが、霊についても極めて曖昧な概念を抱いている。次に紹介する話はそれを典型的に示しているように思う。
 私も時たま墓地の清掃に行くが、同じ墓園に殆ど毎日墓参りをする人がいる。その人は先祖は家の根であり、根を培わずして子孫の繁栄はないという信仰から供養を欠かさないのだという話を聞かされたことがあるが、その後又一緒になった時にその信仰心をほじくってやろうというイタズラ心から「やはり霊というのが存在していて、どこかに霊の世界というのがあるのでしょうね」と聞いてみた。すると案の定、言下にこう言い放った。
 「何を仰るんです。人間のこの肉体が滅びたらもうおしまいですよ。私はその霊を供養しているだけですよ」
 一体その霊とは何なのであろう。何かしら得体の知れない、実体の無いものを漠然と思い浮かべているらしいのであるが、そんなものを供養してそれが子孫の繁栄になぜ繋がるのか-そんな理屈っぽいことは微塵も考えないところが、いかにも日本人らしいのである。
 が、先日のテレビで〝心霊相談〟に乗っている自称霊能者(女性)が古い先祖霊の供養に言及して「霊の中には一千年でも生きている場合がありますから」うんぬんと述べているのを聞いて私は自分の耳を疑った。どの程度の霊能があるのか知らないが、今紹介したような信心深い平凡人ならまだしも、心霊相談に乗る為にテレビに出る程の専門家(プロ)がこの程度の理解しかしていないことに私は啞然とした。この自称霊能者にとっては相も変わらず肉体が実在であって、霊は一種の〝名残り〟のようなものとしてどこかにふわっと残っていて、やがて消滅していくものらしいのである。そして多分、大方の日本人が大体そんな風に漠然とした認識しか抱いていないのではなかろうか。
 では一体霊とは何なのか-これはシルバーバーチが繰り返し説いていることなので、ここで改めて私から説くことは控えたい。ただ一言だけ述べておきたいのは、知識をもつことと、それを実感をもって認識することとの間にはかなりの距離があるということである。霊には、実体があるのです、と言われても、それを成る程と実感するには、その知識を片時も忘れずに念頭において生活しながら、その実生活の中で霊的意識を高めていく他はない。その内、ふとしたこと-大自然の驚異を見たり何でもない日常の出来事を体験して-あ、そうか、という悟りを得るようになる。それが本当に分かったということであろう。シルバーバーチが単純素朴な真理を繰り返し繰り返し説くのも、そうした霊的意識の深まりを期待しているからであることを銘記して頂きたい。
 次に〝幽霊〟を〝霊〟と勘違いしている場合であるが、これはシルバーバーチの答えの通りであるが、それに付け加えて言えば、所謂心霊写真の大半がその類だということである。
 その説明に先立って認識しておいて頂きたいのは、人間の想念というものはその人の人相と同じ形体を取る傾向があるということである。次の例からそれを理解して頂きたい。
 私の家によく来て頂いている僧侶-非常に霊感の鋭い方である-が仏壇の前でいつものようにお経を上げている最中に、その僧侶には珍しく途中で詰まってお経が乱れ、ややあってからどうにか普通の調子に戻ったことがあった。
 終わってからその僧が私に、今読経している最中にかくかくしかじかの人相の人が目の前に現れたと言って、その人相を説明した。更に仰るには、その霊は死者の霊ではなく、まだ生きている人だという。所謂生霊である。「何か怨みか嫉妬でも買うようなことをされましたか」と僧侶が私に聞いた。
 私には直ぐにピンと来た。確かに思い当たる人がいて、私に嫉妬心を抱いてもやむを得ない事情があった。そのせいか、その頃家族中で何となく不調を訴えることが多かったが、その僧の処置ですっかり良くなった。
 恩師の間部詮敦氏は「念は生物です」というセリフをよく口にされ、従って自分から出た念は必ず自分に戻って来るから、いつも良い念を出すように心掛けなさいという論法で説教しておられた。
 私がここでそれに付け加えて言いたいのは、その念はその人の人相、時には姿格好までそっくりの形体を取る傾向があるということである。これは謎の一つで、なぜだか分からない。
 よく肉親や知人が枕元に立った夢を見て目を覚まし、後で分かってみると、丁度その人が死亡した時刻と一致したという話が語られる。この場合直ぐに、その死者の霊が自分の死を知らせに来たのだとか別れを言いに来たのだと解釈され、それがいかにもドラマチックなのでそう思い込まれがちであるが、実際問題として、よほどの霊格者でない限り、死んで直ぐに意識的に自分で姿を見せるような芸当の出来る者はいない。
 これには二つのケースが考えられる。一つはその死者の背後霊が本人を装って姿を見せた場合で、これは意外に多いようである。もう一つはその死者の念が最も親和性の強い人の所へ届き、それがその人の姿形を取った場合で、私はこのケースが遙かに多いとみている。
 心霊写真の中で生気が感じられないものは大半が浮遊している念が感応したか、又は地上に残された幽質の殻が当人の働きを受けて感応したかである。勿論実際にその場に居合わせた霊-大抵は自分で拵えた磁場から脱け出られなくてその辺りをうろついている、所謂地縛霊であるが-が親和力の作用で近付いたのがたまたま霊能のある人の写真に写ったという場合もあることはあるであろう。
 反対に生気ハツラツとして、まるで地上の人間と変わらないような雰囲気で写っている場合は、霊界の写真技術師の指図を受けてエクトプラズムを纏って出た場合であり、A・R・ウォーレスの『心霊と進化と』にはその詳しい説明が出ている。
 幽霊話に出て来るのは大抵地上に残した殻-蝉の脱け殻と全く同じと思えばよい-が何かの弾みで動き出した場合で、不気味ではあっても少しも恐ろしいものではない。
 よく怪談ものを映画や芝居で演じる場合に奇怪な出来事が相次ぎ、話が話だけにいやが上にも恐怖心が煽られるが、それを、たとえば四谷怪談であればお岩の亡霊がやっていると考えるのは間違いで、単なるイタズラ霊の仕業、西洋でいうポルターガイストに過ぎない。スタッフの中に霊格の高い人がいたらそういう奇怪な現象は起こらない。その人の守護霊がイタズラ霊を抑えてしまうからである。
 こうした解説を施しながら私はいつも、スピリチュアリズム的霊魂観の普及の必要性を痛感せずにはいられない。
 (1986年)