霊界の通信者の伝えたいことが百パーセント伝わることは滅多にありません。あることはあるのですが、余程の例外に属します。あなた方が電話で話を交わすような平面上の交信とは違うのです。その電話でさえ聞き取り難いことがあります。混線したり故障したりして全く通じなくなることもあります。地上という平面上の場合でもそうしたトラブルが生じるのですから、全く次元の異なる二つの世界の間の交信がいかに困難なものであるかは容易に理解して頂けると思います。
 霊媒に乗り移った霊は意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変えなくてはなりません。それは完全入神の場合でも百パーセント上手くいくとは限りません。霊媒も人間です。その霊媒のオーラと霊のオーラとがどこまで融合するか-完全か、部分的か、それとも全く融合しないか-によって支配の度合が決まります。支配霊は霊媒の潜在意識を占領し、そうすることによって潜在意識に繋がった肉体機能を支配します。その状態の中で通信霊から送られるイメージ、思想、絵画、或いはアイデアを言葉に変えて伝えるわけですが、霊媒も人間ですから疲れていることもあるでしょうし、気分の悪い時、気嫌の悪い時、空腹又は満腹の度が過ぎる時、アルコールの飲み過ぎ、たばこの吸い過ぎ等々、それはもう色々とあるものです。そうしたことの一つ一つが支配霊と霊媒の融合の度合に影響を及ぼします。
 これとは別に、霊媒の精神をしつこく支配している潜在的観念があって、それが強く表現を求めていることがあります。そんな時はとりあえずその観念を吐き出させて大人しくさせるしかないことがよくあります。時として支配霊が霊媒の潜在的観念を述べているに過ぎないことがあるのはその為です。ひどい時は支配霊の方がその観念の洪水に押し流されて我を失うことさえあります。霧の深い日はいけません。温度の高過ぎるのもいけません。冷んやりとして身の引き締まるような雰囲気が一番宜しい。
 とにかく容易なことではないのです。ですから地上世界へ戻って来るのは大変な努力が要ります。あえてその大変な努力をしようとする霊があなた方に対する愛念を抱く者に限られているというのも、そこに理由があるのです。愛念こそが自然に、そして気持ちよく結ばれている地上の縁者を慰め、導き、手助けしようと思わせる駆動力なのです。地上を去り、全く次元の異なる世界へ行っても、地上に残した者に対する愛念がある限りは、いかなる障壁をも突き破り、あらゆる障害を克服して愛する者との繋がりを求めます。私共の世界からの地上への働きかけの原動力の一つにそれがあるのです。
 ですから、あまり無理なことを要求しないで頂きたいのです。霊媒を責めないで頂きたいのです。又必ずしも支配霊の責任があるとも限らないことを知って欲しいのです。私共は許される限りの手段を尽くしています。今こうして私が行っている入神談話も、一種の変圧器にも似たものを使用した波長の下降操作を要します。その為に、私なら私の本来の個性が大幅に制限されます。その辺のところはお分かりでしょう。これをもっと物的要素の濃い現象にしようとすると、更に波長を下げなくてはなりません。物質化して出る時などは本来の霊妙で迅速でデリケートな波長から一気に地上の鈍重で鈍速で重苦しい波長へと戻さなくてはなりません。これも一種の犠牲、完全な個性の犠牲を強いられる仕事です。
 その他にも霊媒の精神ないし霊的体質によるエクトプラズムの微妙な個体変差があります。エクトプラズムは決して一様のものではありません。一番元になるものが霊媒から抽出されるからです。霊媒の体質が粗野であればエクトプラズムも精神的ないし霊的に程度が低く、精妙度が劣ります。精神的に霊的に垢抜けした霊媒であれば、その性質がエクトプラズムにも反映します。(元になるものをエクトプラズミック・フォースと言い、これに霊界の技術者が特殊な成分を混ぜ合わせてエクトプラズムを拵える-訳者)
 こちらの世界の霊が地上と交信したいと思えば誰にでも叶えられるかといえば、必ずしもそうではありません。折角そのチャンスを与えられても、思うことの全てが伝えられるとも限りません。その霊次第です。しっかりとして積極性のある霊は全ての障害を克服するでしょう。が、引っ込み思案で積極性に欠ける霊は得てしてそれに必要なだけの努力をしたがらないものです。
 霊の世界では言語は使用しません。従って思念なり映像なりシンボルなりを霊媒に憑依している霊を通じて、或いは直接霊媒へ伝える操作が又大変です。これを霊視力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。私がこうして楽に喋っているからといって、それが楽に出来ると思ってはいけません。こうして喋っている間、私は霊媒との連係を保つ為に数え切れない程の〝糸〟を操っているのです。その内の一本がいつ切れるとも限りません。切れたが最後、そこで私の支配力はおしまいです。
 このように霊界と地上との交信を理解して頂く上で説明しなくてはならないことが沢山あります。簡単に出来ることのようにだけは決して想像しないで下さい。必要条件が全部揃えば簡単に出来ることは、一応理屈では言えます。しかし実際にはそこに色々と邪魔が入るのです。その邪魔の為に上手く行かなくて、それを私共のせいにされてしまいます。実にデリケートでいわく言い難い条件を上手く運用する必要があります。ベテランの霊媒でも同じです。しくじらせる要素が幾らでもあるのです。
 これで、私が毎度行っている波長の転換操作つまり波長を下げる作業によって、美しさと光彩と輝きが随分失われることがお分かりでしょう。しかし交信が霊と霊、心と心、魂と魂の直接的なものであれば、つまりインスピレーション式のものであれば、そういった複雑な裏面操作抜きの、霊界からの印象の受信という単純直截なものとなります。その成功不成功は背後霊との合体の確信に基づく静寂と受容性と自信にかかっていますから、不安の念に動かされる程結果は良くないということになります。一旦精神的動揺をきたすと、その不安の念の本質的性格の為に霊的通信網が塞がれてしまいます。
 人間の心に浮かぶ思念が全て霊界からのものであるとは申しません。それは明らかに言い過ぎでしょう。しかしその多くが、背後霊が何とかして精神と霊とを豊かにしてあげようとする努力の反映であって、少なくとも単なる心像として見過ごしてはいけないことだけは真実です。
 その思念の伝達が地上における平面上の横の繋がり、つまり同じ意識の次元での交信でないことを忘れてはいけません。霊的なものを物的なものへと、二つの全く異なる意識の次元での表現操作を要するのです。その上から下への次元の転換の際に色々と混乱が生じます。混乱なく運ぶようになる時代はまだまだ先のことです。こちらの世界では精神的レベル、物的レベル、治病レベル等々、ありとあらゆる交霊関係での実験と研究がなされております。よりよい成果を挙げる為の努力が常に為されているのです。
 何年か後に振り返ると結構進歩しているのに気付かれるのはその為です。今こうして行っているようなサークル活動の裏側にはそうした目的も目論まれております。私達霊があなた方の能力を開発しそれを大いに活用に供する為には、こうしたサークルによって活動の場を提供して頂く以外に方法がありません。その効果を高めるには第一に協調性が必要です。通信網が敷かれ、霊媒というチャンネルが開かれ、そこへ私達が通信を送り届ける、という具合になることが肝心です。かつては通信網もなければチャンネルが一つもないという時代がありました。
 私が理解に苦しむのは、地上の人間はなぜ無知という名の暗闇を好み、真理という名の光を嫌うのかということです。私達はその真理の光を広げ、人に役立てる為の手段となるべき人をいつも探し求めております。そういう人が一人でも増えることは、地上人類の進歩と向上へ向けて叡智と霊力を広げる手段が一つ増えることを意味します。これは重大なことです。私達の携わる使命全体の背後には重大な目的が託されています。私はその使命達成を託された大勢の使者の一人に過ぎません。物的世界の背後の霊的世界において目論まれた遠大な計画の推進者の一人であり、霊的悟りを開く用意の出来た者へ真理を送り届けることを仕事としているのです。
 ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚まさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私達の仕事です。言ってみれば霊への賜物を届けてあげることです。それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを自覚させることになります。その折角の贈物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります。
 私達からお贈り出来るものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。そこが私には分からないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えの他にも真理があることに得心がいかないのです。どうやらそういう人々は、神がもし自分達の宗教的組織以外に啓示を垂れたとしたら、それは神の一大失態であるとでも考えるに相違ないと思うことが時折あります。神の取る手段は人智の及ぶところではありません。大丈夫です。神が失態を演じることは絶対にありません。
 キリスト教会との関係となると、これは厄介です。自分達の教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこの上なく大事なものとして死守せんとしています。実際には元々霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経る内に人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気付いてくれないのです。中身と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。こうした偏向した信仰が精神的にも霊的にも硬直化してくると、最早外部から手を施す術がありません。神は時として精神的ないし霊的大変動の体験を与えて一気に真理に目覚めさせるという荒治療をすることがありますが、それも必ずしも思う通りにいかないものです。もしも困難や悲哀、病苦等が魂の琴線に触れて何かに目覚めたとしたら、その苦い体験も価値があったことになります。
 霊の世界からこうして地上へ戻って来るそもそもの目的は、人間の注意を霊的実在へと向けさせることにあります。ただそれだけのことです。地上世界の出来事に知らぬ振りをしようと思えば出来ないことはありません。別段地上との関わりを強制されるいわれはないのです。又人間側には我々に対して援助を強要する手段は何もない筈です。ですから私達の尽力は全て自発的なものです。それは人類愛ともいうべきものに発し、援助の手を差し伸べたいという願望があるからこそです。それも一種の利己主義だと言われれば、確かにそうかも知れません。愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。身を霊界に置いて、次から次へと地上生活の落伍者ともいうべき人間が何の備えも無いまま送り込まれて来るのを見ているわけですから・・・。その人達が、こちらへ来る前に、つまり教訓を学ぶ為に赴いた地上という学校でちゃんと学ぶべきものを学んで来てくれれば、どんなにか楽になるのですが・・・。
 そこで私達は何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとするわけです。すなわち人間は誕生という過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだということを教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。それが肉体と共に生長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的生長に関心を抱く者も幾らかおります。が、霊的生長に関心を抱く者は極めて少数に限られます。永続性のある実在は霊のみです。もしも私達の尽力によって人間を霊的本性を自覚させることに成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。自分という存在の拠って来る原因を知ります。これから辿る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送るようになります。至って簡単なことなのですが、それが私達の活動の背後に目論まれた計画です。
 霊的真理は、これを日常生活に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立することでしょう。霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からエネルギーを受け易い体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆なのです。
 地上との繋がりをもつ為には、それなりの道具が要ります。つまり霊力を送り込む為の回路が必要です。心霊能力の開発や霊的発達は、一つにはその能力の受容力を増すということでもあります。魂の本性がそれぞれの背後霊と上手く調和するということが、イザという重大事、困難、危険に際して霊力を授け易くします。その霊力とは何かとなると、これは中々説明が困難です。物質的観点から見る限り手に触れたり目で確かめることの出来ないものだからです。しかし、あくまで実体のあるものです。生命力そのものであり、神の一部であり、宇宙の全生命活動に意識と存在を賦与しているものと本質的に同一のものです。種子の芽を出させ、花を咲かせ、実をつけさせ、樹木を太らせ、人間の魂を開発させる力と同じものです。
 その顕現の仕方は無限です。生気を取り戻させるのもそうですし、蘇生させるのもそうですし、活気を与えるのもそうですし、再充電するのもそうですし、再興させるのもそうです。霊感の形を取ることもあれば病を治すこともします。条件さえ整えば物的現象を演出してお目にかけることも出来ます。人を治す仕事の為に治療所の奥に閉じこもる時、それは一方では霊力を受ける為に霊的回路を開いていることでもあります。二つの仕事は常に相携えて進行します。霊能開発の為のサークル活動に参加し、いつになっても何の変化もないと思っている時でも、実際には霊と物質との間の繋がりを強化し一体化する作用が着々となされていることがあります。霊力の伝道はそれはそれは複雑で微妙な過程なのです。
 現今のように物質性が勝り霊性が劣る状態から、逆に霊性が物質性を凌ぐまでに発達してくれば、霊界からの指導も随分楽になることでしょう。それは、間を繋ぐものが霊と霊との関係になるからです。しかし残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押し込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これでは余程の努力をしない限り覚醒は得られません。物質性にすっかり浸り切り、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、まだ辺りを照らす程の光をもたぬ人がいます。それでも、霊であることに変わりはありません。酷い辛酸を嘗め、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を醒まし、自我に目覚め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目覚め、神を意識し、同胞と自然界との霊的繋がりを知り、宇宙の大原理であるところの霊的一体性を悟ることが出来るようになります。
 一旦ある方向への悟りの道が開かれたら、その道を閉ざすことなくいつまでも歩み続ける努力をしなくてはなりません。地上生活では完全に得られないでしょう。でも精神的に霊的に少しでも完全へ向けて努力することは出来ます。
 世の中には、ここに集える私達に較べて精神的・霊的な豊かさに欠ける人がいます。そういう人々に愛の手を差し伸べる仕事は、あなた方の霊性が向上する程大きくなっていきます。絶望の淵に落ち込んだ人を励まし、病める人にはいかなる病にも必ず治す方法があることを教え、或いは地上を美しく栄光ある世界にする為に、霊力の流れを阻害している誤謬と迷信、腐敗した体制を打破していく、その基本的足場としての永遠の霊的真理を説くことが必要です。
 肉眼で見ることが出来ず、手で触れてみることも出来ない私達霊界の者が物質の世界と接触をもつことは容易なことではありません。人間側が善良な心と自発的協調性と受容的態度と不動の信念を保持してくれている限り、両者を結ぶ霊的回路が開かれた状態にあり、その人はあらゆる面において、つまり霊的に精神的に物質的に、より良い方向へと自動的に進んで参ります。多くの人に中々分かって頂けないのは、そして又人間が望むように事が運ばないのは、その援助を届ける為の回路が開かれていないということです。本人自らが回路を開いてくれない限り他に手段がないのです。霊力が物質に働きかける為には、それが感応して物質界に顕現する為の何等かの連鎖関係がなくてはなりません。分かってみれば何でもない当たり前のことです。そごて是非ともあなた方には、今あなた方を支え援助している力が霊的なものであり、それには成就出来ないものは何一つないことを知って頂きたいのです。
 暗闇にいる人に光を見出させてあげ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を治し、無力な動物への虐待行為を阻止することが出来れば、それがたった一人の人間、一匹の動物であっても、その人の地上生活は十分価値があったことになります。価値あるものを求める闘いに嫌気が差すようではいけません。これはあらゆる闘いの中でも特に偉大な闘いです。唯物主義と利己主義-地上世界を蝕み、何の為に生まれて来たかを自覚せぬ大勢の人々を暗闇へと堕落させている、この二つのガンに対する永遠の闘いです。
 善の為の努力が徒労に終わることは決してありません。人の為になろうとする試みが無駄に終ることはありません。善行に嫌気が差すようなことがあってはなりません。成果が表れないことに失望してはなりません。人の為に役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人で足掻いているのではありません。いかなる情況の下であろうと、周りには光輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。裏切ることのないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りとすることです。物質の世界にはこれだけは安全というものは何一つありません。真の安全は人間の目に映じぬ世界-地上のいかなる器具をもってしても測ることの出来ない永遠の実在の世界にしかありません。
 人間にとっての真の安全は霊の力であり、神が宇宙に顕現していく手段であるところの荘厳なるエネルギーです。他の全ての存在が形を変え、あるものは灰に帰し、又あるものは塵と砕けても、霊的存在のみは不変・不易であり、不動の基盤として存在し続けます。全てを物的感覚によって推し量る世界に生きているあなた方にとって、その霊的実在の本質を理解することが極めて困難であることは私もよく承知しております。捉えようとしても中々捉えられないものです。ですが、私のこうした説教によって、たとえ不十分ながらも、霊こそが永遠の実在でありそれ以外は重要でないことをお伝えすることが出来、流砂のような移り変わりの激しい物的存在ではなく、不変の霊的真理を心の支えとして生きようとする志を抱いて下さることになれば、及ばずながら私なりの使命を達成しつつあることになりましょう。