愛は大きさを測ることが出来ません。重さを測ることも出来ません。いかなる器具をもってしても分析することは出来ません。なのに愛は厳然として存在します。宇宙における最大の力です。大自然の法則を機能させる原動力です。愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界の間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。辿り着いた高級霊界からの遼遠の旅路の末に再び地上に舞い戻り、古くかつ新しい名言〝愛は死を乗り超える〟を改めて宣言することが出来るのも、この愛あればこそです。
あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とする為の受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。昼の後には夜が訪れるように、春の後には夏が訪れるように、種子を蒔けば芽が出るように、霊は着実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を昇ります。日常の煩瑣な雑事の渦中にあって、時には僅かの時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己の存在の原動力である霊性に発現の機会(チャンス)を与えて下さい。
心に怖れを宿してはいけません。完全に拭い去らないといけません。誕生以来今日までずっとあなたを導いて来た霊が、今になって見捨てる筈がありません。これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなることでしょう。なぜなら、あなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。霊がこの世へ携えて来た能力がこれからもその役目を果たしていきます。こちらから援助に当たる霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。それは決して裏切ることはありません。
宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落ち着きを身に付けなければなりません。
そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることが出来ます。それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるということです。受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。それだけのことです。悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。
宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全宇宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差し伸べんとする同胞愛に燃えます。愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差し伸べさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、より一層の表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。
好感を覚える人を愛するのは易しいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感のもてない人を愛する-これが魂の霊格の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人の為に手を差し伸べること、これは容易なことではありません。確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。他人に出来ないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからです。可哀相にと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。
最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これは易しいことです。しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けでは出来ません。が、それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己の為に何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己の為に何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。
願わくばあなた方の世界も是非そうあって欲しいと思うことしきりです。私達のことが理解出来ない人々は色々と勝手なことを言ってくれますが、私達自身はどう評価されたいとも思っておりません。手の届く限りの人々に手を差し伸べたいと思うだけです。その意味でも、あなた方には霊の世界の最高レベルの階層と感応するよう努力して頂きたい。あなた方は決して孤軍奮闘しているのではないこと、回りにはあなた方を愛する人々、手引きし援助し鼓舞せんとする霊が大勢取り囲んでいることを認識して頂きたい。そして又、霊的開発が進めば進む程、宇宙の大霊である神へ向けて一歩一歩近付きつつあり、より一層、その摂理と調和していきつつあることを理解して頂きたいのです。
単なる信仰、ただそう信じているというだけでは、厳しい体験の嵐が吹けばあっけなく崩れてしまいます。が知識に根ざした信仰はいかなる環境にあっても揺ぎ無い基盤を提供してくれます。霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。が証を授かり、それ一つを手掛かりとして他の多くの真理を信じることの出来る人は、それ以上に幸いです。なぜならばその人は宇宙の摂理が愛と叡智そのものであるところの霊の力によって支配されていることを悟っているからです。
人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実です。かくして人間は地上にあっても霊的存在であり物質的存在ではないこと、すなわち身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではないということを自覚することが出来ます。物質界への誕生は測り知れない価値ある遺産の一部を享けることです。霊であるからこそ物質と結合し、活動と生命を賦与することが出来るのです。その霊は宇宙の大霊の一部であり、本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。
我欲を棄て他人の為に自分を犠牲にすればする程内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。排他性の内向的愛よりも発展性の外交的愛の方が上です。いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。
家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。所謂血の繋がりによる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残である防衛本能によって支配されていることがよくあります。が、愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することが出来ることです。その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。愛は人の為に尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛は又、滅私と犠牲の行為となって表れます。
霊の世界へ来た者がなぜ地上へ舞い戻って来るかご存知ですか。大多数の人間にとって死は有り難いことであり、自由になることであり、牢からの解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよい筈です。地上の住民を脅かす老いと病と数々の煩悩に別れを告げたのです。なのに、地上との間に横たわる測り知れない困難を克服してまで自ら志願して帰って来るのは、あなた方への愛があるからです。彼等は愛の赴く所へ赴くのです。愛のある所に存在するのです。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。霊界において如何なる敵対行為が私達へ向けられても、妨げんとする邪霊集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効を奏することが出来ないのは、そうした愛に燃えた霊達の働きがあれはこそです。
これまでに得させて頂いたものを喜ぶべきです。浴し得た恩寵に感謝すべきです。愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たことを有り難く思うべきです。あなた方を包む愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるがよろしい。その愛の豊かさはとても私には表現し尽くせません。時には何とか伝えてみようと努力することもあるのですが、あなた方の心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さは到底人間の言語では表現出来ません。
あなた方はこれまで、愛に発する利他的行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚しい成果を見て参りましたが、霊界の高級霊が生命力そのものを結集してあなた方を温かく包む、その愛の底知れぬ潜在力は到底推し測ることは出来ません。もっとも、それも受け入れる器がなければ授かりません。それが摂理なのです。理屈は分かってみれば簡単です。資格ある者が授かるというだけのことです。霊力は無尽蔵です。それに制限を加えるのは人間の受容能力です。人間が少しでもその受容能力を増せば、その分だけを授ける用意がこちらにはいつでも出来ております。が、それ以上のものは絶対に授けることは出来ません。
常に上を向いて歩んで下さい。下を向いてはいけません。太陽の光は上から差します。下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修業であることを忘れぬ限り、何が起きようと意気消沈することはありません。霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。
神性こそ、その無限の愛の抱擁力によって私達を支えている力であり、その尊い遺産を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身に付けるかを知らしめんと取り計らってくれます。自分とは一体何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。ですから、私達は愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にあることを自覚しようではありませんか。
完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も恐怖心を駆逐します。恐怖は無知から生まれるものだからです。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。進歩した霊はいついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は人生のいかなる局面に遭っても克服出来ぬものはないとの信念があるからです。これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人の為に役立たんと志す人々の力となります。気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。あなたの周りに張り巡らされた防御帯であり、決して破られることはありません。神の力だからです。
私共霊界の者が是非とも提供しなければならない証は、愛が不滅であること、死は愛し合う者の仲を裂くことは出来ないこと、物的束縛から脱した霊は二度と死に囚われることがないということです。愛の真の意義を悟るのは霊の世界へ来てからです。なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結び付けるものです。宇宙の大霊の顕現なのです。互いが互いの為に尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。邪なるもの、害なるものを知りません。愛は己の為には何も求めないのです。
死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生への鍵を握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩-愚かさ、無知、依怙地(えこじ)、偏見等々を乗り越えて働きます。
二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結び付きです。神はその無限の叡智をもって、男性と女性とが互いに足らざるものを補い合う宿命を定めました。両者が完全に融合し合うことにこそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。愛は無限なる霊の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、無限の形をとります。すなわち磁気的で身体的な結び付きから精神的な結びつき、更には根源的な霊的な結びつきへと進みます。その魂と魂との結び付きが地上で実現することは極めて稀なことであり、寧ろ例外的なことに属します。が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となります。これが魂と魂との真の結婚の形態です。
これは、本来一体である親和性をもった魂が二つに分かれて地上へ顕現しているという、所謂〝同類魂(アフィニティー)〟の思想で、古来からあります。それが再び一体となるには何百万年、何千万年もの歳月を要します。それが僅か五十~七十年の短い期間に地上という小さな天体上で巡り合うということは極めて異例のことです。幸いにしてその幸運に浴した時は、それは神がそう図られたとしか考えられません。そしてそのアフィニティーの二人は死後も融合同化の過程を、人智を超えた歳月に亘って続けます。人間的個性を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、その分だけ融合の度合を深めていくことになります。
愛は血縁に勝ります。愛は死を乗り越えます。愛は永遠不易のエネルギーです。それが宇宙を支配しているのです。神の意図によって結び合った者は生涯離れることなく、死後も離れることはありません。墓には愛を切断する力はありません。愛は全てのものに勝ります。なぜなら、それは宇宙の大霊すなわち神の一表現だからです。そして神の統一体としての一部を構成するものは永遠にして不滅です。
あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とする為の受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。昼の後には夜が訪れるように、春の後には夏が訪れるように、種子を蒔けば芽が出るように、霊は着実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を昇ります。日常の煩瑣な雑事の渦中にあって、時には僅かの時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己の存在の原動力である霊性に発現の機会(チャンス)を与えて下さい。
心に怖れを宿してはいけません。完全に拭い去らないといけません。誕生以来今日までずっとあなたを導いて来た霊が、今になって見捨てる筈がありません。これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなることでしょう。なぜなら、あなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。霊がこの世へ携えて来た能力がこれからもその役目を果たしていきます。こちらから援助に当たる霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。それは決して裏切ることはありません。
宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落ち着きを身に付けなければなりません。
そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることが出来ます。それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるということです。受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。それだけのことです。悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。
宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全宇宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差し伸べんとする同胞愛に燃えます。愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差し伸べさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、より一層の表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。
好感を覚える人を愛するのは易しいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感のもてない人を愛する-これが魂の霊格の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人の為に手を差し伸べること、これは容易なことではありません。確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。他人に出来ないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからです。可哀相にと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。
最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これは易しいことです。しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けでは出来ません。が、それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己の為に何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己の為に何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。
願わくばあなた方の世界も是非そうあって欲しいと思うことしきりです。私達のことが理解出来ない人々は色々と勝手なことを言ってくれますが、私達自身はどう評価されたいとも思っておりません。手の届く限りの人々に手を差し伸べたいと思うだけです。その意味でも、あなた方には霊の世界の最高レベルの階層と感応するよう努力して頂きたい。あなた方は決して孤軍奮闘しているのではないこと、回りにはあなた方を愛する人々、手引きし援助し鼓舞せんとする霊が大勢取り囲んでいることを認識して頂きたい。そして又、霊的開発が進めば進む程、宇宙の大霊である神へ向けて一歩一歩近付きつつあり、より一層、その摂理と調和していきつつあることを理解して頂きたいのです。
単なる信仰、ただそう信じているというだけでは、厳しい体験の嵐が吹けばあっけなく崩れてしまいます。が知識に根ざした信仰はいかなる環境にあっても揺ぎ無い基盤を提供してくれます。霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。が証を授かり、それ一つを手掛かりとして他の多くの真理を信じることの出来る人は、それ以上に幸いです。なぜならばその人は宇宙の摂理が愛と叡智そのものであるところの霊の力によって支配されていることを悟っているからです。
人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実です。かくして人間は地上にあっても霊的存在であり物質的存在ではないこと、すなわち身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではないということを自覚することが出来ます。物質界への誕生は測り知れない価値ある遺産の一部を享けることです。霊であるからこそ物質と結合し、活動と生命を賦与することが出来るのです。その霊は宇宙の大霊の一部であり、本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。
我欲を棄て他人の為に自分を犠牲にすればする程内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。排他性の内向的愛よりも発展性の外交的愛の方が上です。いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。
家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。所謂血の繋がりによる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残である防衛本能によって支配されていることがよくあります。が、愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することが出来ることです。その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。愛は人の為に尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛は又、滅私と犠牲の行為となって表れます。
霊の世界へ来た者がなぜ地上へ舞い戻って来るかご存知ですか。大多数の人間にとって死は有り難いことであり、自由になることであり、牢からの解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよい筈です。地上の住民を脅かす老いと病と数々の煩悩に別れを告げたのです。なのに、地上との間に横たわる測り知れない困難を克服してまで自ら志願して帰って来るのは、あなた方への愛があるからです。彼等は愛の赴く所へ赴くのです。愛のある所に存在するのです。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。霊界において如何なる敵対行為が私達へ向けられても、妨げんとする邪霊集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効を奏することが出来ないのは、そうした愛に燃えた霊達の働きがあれはこそです。
これまでに得させて頂いたものを喜ぶべきです。浴し得た恩寵に感謝すべきです。愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たことを有り難く思うべきです。あなた方を包む愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるがよろしい。その愛の豊かさはとても私には表現し尽くせません。時には何とか伝えてみようと努力することもあるのですが、あなた方の心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さは到底人間の言語では表現出来ません。
あなた方はこれまで、愛に発する利他的行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚しい成果を見て参りましたが、霊界の高級霊が生命力そのものを結集してあなた方を温かく包む、その愛の底知れぬ潜在力は到底推し測ることは出来ません。もっとも、それも受け入れる器がなければ授かりません。それが摂理なのです。理屈は分かってみれば簡単です。資格ある者が授かるというだけのことです。霊力は無尽蔵です。それに制限を加えるのは人間の受容能力です。人間が少しでもその受容能力を増せば、その分だけを授ける用意がこちらにはいつでも出来ております。が、それ以上のものは絶対に授けることは出来ません。
常に上を向いて歩んで下さい。下を向いてはいけません。太陽の光は上から差します。下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修業であることを忘れぬ限り、何が起きようと意気消沈することはありません。霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。
神性こそ、その無限の愛の抱擁力によって私達を支えている力であり、その尊い遺産を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身に付けるかを知らしめんと取り計らってくれます。自分とは一体何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。ですから、私達は愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にあることを自覚しようではありませんか。
完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も恐怖心を駆逐します。恐怖は無知から生まれるものだからです。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。進歩した霊はいついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は人生のいかなる局面に遭っても克服出来ぬものはないとの信念があるからです。これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人の為に役立たんと志す人々の力となります。気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。あなたの周りに張り巡らされた防御帯であり、決して破られることはありません。神の力だからです。
私共霊界の者が是非とも提供しなければならない証は、愛が不滅であること、死は愛し合う者の仲を裂くことは出来ないこと、物的束縛から脱した霊は二度と死に囚われることがないということです。愛の真の意義を悟るのは霊の世界へ来てからです。なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結び付けるものです。宇宙の大霊の顕現なのです。互いが互いの為に尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。邪なるもの、害なるものを知りません。愛は己の為には何も求めないのです。
死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生への鍵を握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩-愚かさ、無知、依怙地(えこじ)、偏見等々を乗り越えて働きます。
二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結び付きです。神はその無限の叡智をもって、男性と女性とが互いに足らざるものを補い合う宿命を定めました。両者が完全に融合し合うことにこそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。愛は無限なる霊の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、無限の形をとります。すなわち磁気的で身体的な結び付きから精神的な結びつき、更には根源的な霊的な結びつきへと進みます。その魂と魂との結び付きが地上で実現することは極めて稀なことであり、寧ろ例外的なことに属します。が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となります。これが魂と魂との真の結婚の形態です。
これは、本来一体である親和性をもった魂が二つに分かれて地上へ顕現しているという、所謂〝同類魂(アフィニティー)〟の思想で、古来からあります。それが再び一体となるには何百万年、何千万年もの歳月を要します。それが僅か五十~七十年の短い期間に地上という小さな天体上で巡り合うということは極めて異例のことです。幸いにしてその幸運に浴した時は、それは神がそう図られたとしか考えられません。そしてそのアフィニティーの二人は死後も融合同化の過程を、人智を超えた歳月に亘って続けます。人間的個性を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、その分だけ融合の度合を深めていくことになります。
愛は血縁に勝ります。愛は死を乗り越えます。愛は永遠不易のエネルギーです。それが宇宙を支配しているのです。神の意図によって結び合った者は生涯離れることなく、死後も離れることはありません。墓には愛を切断する力はありません。愛は全てのものに勝ります。なぜなら、それは宇宙の大霊すなわち神の一表現だからです。そして神の統一体としての一部を構成するものは永遠にして不滅です。