が、過去の血生臭い人類の所業への反省から霊的覚醒と真剣さが促進されて、理性的に納得のいくもの、真実なるものが選り分けられるようになっていけば、例えば旧約聖書について言えば、丁度動物の退化器官が進化の過程の低い段階を物語るものとして残っているように、既に存在価値を失った文献であるとの認識が行き渡ることであろう。そうなった時、それは人類が二度と踏んではならない轍という形での教訓として以外には、人類の行為への影響力は失っているであろう。
 キリストの教訓についても同じことが言える。永遠の刑罰などというおどろおどろしい説が遠からず影を潜めるにつれて、キリストに関する謎めいた部分が消え、今日の異端の説が明白なる常識となっていくであろう。時が至れば、そうしたことが全て調整されていくことであろう。
 それは時の流れに任せることにして、我々は既に新しい重大なメッセージを手にしていることを次章で説き明かすことにしたい。その中には骨と皮に痩せこけた生命に肉付けし、ミイラに生命の息吹を吹き込むものが秘められている。個性の死後存続が確実に裏付けられ、自分の行為には最後まで自分が責任を持ち、いかに権威あるものであろうと、それに責任を転嫁することは出来ないという倫理観が確立されれば、人類は、かつてない強固な道徳的規範を手にすることになるであろう。我々は今まさに、その重大な局面に立っているのである。
 忌々しい近代の世界史は、ローマ帝国に始まった西洋の知的暗黒時代-神への信仰を忘れ、束の間の物的快楽に自我の霊性を忘れた、愚かしい人類の所業のクライマックスだったのだ。