スピリチュアリズム思想の根幹である個性の死後存続を具体的に理解する上で基本となるのは、死後も肉体に相当する何等かの身体を具えているという事実である。材質は肉体より遙かに柔軟であるが、細かい部分まで肉体と同じものを具えているという。
 無論それは地上時代から肉体と共に成長していたもので、肉眼には見えないが、肉体と同じ形体をし、肉体と完全に融合して存在している。死に際して-条件次第では生きている間でも-両者は離れ離れになり、両者を同時に見ることが出来る。生前と死後の違いは、死後は両者を結び付けている生命の糸が切れて、それ以後は霊的身体のみで生活することになるという点である。肉体は、蛹が出て行った後の脱け殻のように、やがて分解して塵と消える。これまでの人類は、その脱け殻を手厚く葬ることに不必要な程厳粛さを求め、肝心の〝成虫〟のその後の事情については、実にいい加減な関心しか示さなかった。
 そのことの責任を科学の怠慢と決め付けてみても致し方のないことで、肉体の死をもって生命の終わりとする唯物的生命観は、宗教以上に無謀な独断(ドグマ)だった。決して少ないとはいえない不思議な現象を真面目に調査しようとしない科学が、死後の存続の事実を認めようとしないのは当然のこととしても、それに代わって科学が主張する説は、お粗末極まるものばかりである。
 その科学界にあって思い切って調査と研究に手を染めた学者達は、事実上、全員一致で霊魂説を主張している。その一人であるウィリアム・クルックス博士は、王立協会(英国学士院)の事務局長のジョージ・ストークス卿が博士の研究報告書を協会の機関誌に掲載することを拒否したことから、是非一度自分の実験室へ来てよく見て頂きたいと要望したが、それに応じることなく、拒否の態度を固持した。
 私もある科学界の大御所に検証をお願いしたことがあるが、応じてくれなかった。こうした態度を取る科学界にどれ程の存在価値があるのであろうか。丁度ガリレオの時代のローマ・カトリック教会が、ガリレオが差し出した望遠鏡を覗くのを拒否し続けたのと同列である。そこにあるのは、まさしく〝偏見〟である。
 私がざっと調べただけでも、真面目に心霊現象を検証して、その実在を是認した学者は五十名を超える。その中には時代を代表する顔が少なくない。カミーユ・フラマリオン、チェザーレ・ロンブローゾ、シャルル・リシュ、アルフレッド・ウォーレス、ウィリー・ライケル、フレデリック・マイヤース、ヨハン・ツェルナー、ウィリアム・ジェームズ、オリバー・ロッジ、ウィリアム・クルックス等々・・・・
 調査結果を公表する権利を堂々と行使した学者によって、心霊現象の真実性は完全に実証されたと断言して差し支えない。しかも、過去三十年に亘る私自身のスピリチュアリズム研究で確認した限りで言えば、正面からこの分野の研究に取り組んで最終的に霊魂説を受け入れなかった学者は、一人もいないのである。無論、もしかしたらどこかにいたかも知れない。が、繰り返して言うが、私はそういう人の話題を、ついぞ耳にしたことがないのである。
 こうした事実を背景として、私はこれから自信を持って、パウロのいう〝霊的身体(スピリチュアル・ボディ(注))〟に関する最新の通信を分析してみようと思う。バイブルを読んだ限りでは、パウロは中々の霊的知識を持っていたようである。その一つがこの霊的身体を物的身体(ナチュラル・ボディ)と区別していることである。彼は〝肉体の霊〟という言い方はしていない。物的身体と霊的身体とがあり、それに霊が宿っていると考えていたことは明らかである。これはまさに現代の心霊科学が突き止めたことと同じである。

 (注)-Spiritual Body 〝霊体〟と訳されることが多いが、パウロが言っているのは Natural Body すなわち物的身体(肉体)とは別個の霊的な身体という意味である。かつては〝霊体〟と呼んでも差し支えなかったが、その後の心霊学の発達でその霊的な身体にも、三種類があることが判明し、更にそれが日本の古神道と一致していることから、浅野和三郎が幽体・霊体・神体(本体)という用語で呼称した為に、使い分けの必要が生じた。