そこで、そうした比較検討の末に得られた死後の世界に関する情報を纏めてみると、大体次のようなことになる。
 まず完全に一致しているのは、死後の世界は幸せに満ちているということである。二度と地上へ戻りたいとは思わない、というのが一般的である。先に死んで行った肉親や知人が出迎えてくれて、以後ずっと生活を共にしていることが多い。といって遊び暮らしているわけではなく、性格と能力に合った仕事に従事している。
 生活環境は地上とよく似ているが、全てが一定の高い波動(オクターブ)に統一されており、リズムが同じなので、違和感というものを感じないが、全体として地上環境とはまるで違っている。地上に存在するものは何でも存在する。アルコールやタバコまであるというと嘲笑する人がいるが、何でも複製出来ると言っておきながら、アルコールやタバコは作れないというのは不自然であろう。
 もっとも、地上でもそうであるように、たしなむといっても程度の問題である。『レーモンド』の中にその話が出ていて、それが物議を醸したことがあるが、お読みになれば分かるように、レーモンドはそれを極めて特殊なこととしてユーモアを交えて語っている。
 キリスト教の牧師の中には、そのことを笑止千万の話として、その一事をもって他の全ての通信もみな戯言と決め付けている人が多いが、私からその人達に指摘したいのは、私の知る限り、死後の世界でアルコールをたしなむ話を述べている人がこのレーモンド以外にもう一人いる-他ならぬイエス・キリストであるという事実である。マタイ伝26章29節でイエスはこう述べている-〝私の父の国であなた方と共に新たに飲むその日まで、私は今後けっしてぶどうの実からこしらえたものを飲むことはしない〟と。
 もっとも、この話は些細なことの内に入る。そして、こうした途方もなく大きな問題、それも全体として曖昧さを拭い切れない問題を扱う中で、些細なことに拘るのは危険である。私の知っているある女性がこんなことを言ったことがある-〝来世のことが不思議に思えるのは当たり前ですよ。私達だって、もしも生まれる前にこの世の事情を語って聞かされていたら、さぞかし不思議に思えて、信じられなかったでしょうよ〟と。中々うがった見方である。

 (訳者解説)
 レーモンドの通信の話の箇所は、多分、次の箇所のことであろう。
 「ボク(レーモンド)はもう食べたいとは思いませんよ。でも、食べている人を見かけることはあります。地上の食べ物に似たものを食べてないと気が済まないみたいです。
 こちらでは欲しいものは何でも手に入ります。先日地上からやってきたばかりの人はタバコを欲しがってました。こちらには何でもこしらえる製造工場のような所があって、何でも好きなものがこしらえられるんです。もっとも、地上の物質のようなものでこしらえられるのではありません。エッセンスというかエーテルというか気体というか、とにかく同じものではないけど、タバコに似たようなものがあります。ボクは吸いたいとは思わないので吸わなかったけど、そいつはそれに飛びついて、四本ばかり吸ってました。今はもう見るのもイヤだと言っています。地上とは全く味が違うらしいのです。それで次第に欲しくなくなるのです。
 こちらへ来たての頃は、色々と欲しがるのです。肉を欲しがる人がいますし、強いアルコール類を飲みたがる人もいます。ウィスキーソーダなんかをねだる人もいます。嘘じゃありません。ほんとにこしらえることが出来るのです。でも、一、二杯飲んだら、もうそれ以上欲しがらなくなるみたいです。いつまでも飲んべえのままの人がいる話は聞いていますが、ボクはまだ見たことはありません・・・・」
 この後オリバー・ロッジの脚注として、〝とてもユーモラスに述べている〟とある。