もっとも、人間の心理を突き止めると、やれば出来るのに努力しようとしない面、知っていながら実行出来ない意志の弱さ、他人の立派な行いは賞賛しながら自分はだらしない態度を取り続ける性格に起因する面が多分にあることは事実である。が、その反面、生まれついた環境という不可抗力の産物、遺伝ないしは生まれながらの生涯に起因するもの、更には、明らかに身体的性向による罪悪を斟酌した時、積極的な意味での罪は大幅に少なくなる。
 考えてもみるがよい。全知全能にして慈悲深き大神が、生まれながらにして障害をもつ哀れな人間が罪なことを心に抱いたからといって、これを罰するということが有り得ようか。熟練した医師によると、頭の形を見れば、罪悪を犯すタイプかどうかが分かるという。歴史に記録を留めている身の毛もよだつ罪悪の数々-暴君ネロから殺人鬼切り裂きジャックに至るまで-皆精神の疾患の産物であり、戦争という国家的罪悪も、集団的狂気というものの存在を示しているようにさえ思える。
 となると、地上でそうした不利な条件の下に苦しい生活を強いられた者を、死後、更に地獄へ落として苦しめる必要はないではないかという観測も出来る。霊界通信でよくあるのが、意外に平凡な人物が、死後、大変な栄誉に浴しているのを知って驚くことがあるという話である。そこには人間的価値観と霊的価値観との違いがあることを物語っている。となると、身体的特質が不可抗力となって罪深いことをしてしまった場合は、当然、そこに酌量の余地があってしかるべきであって、それは罪を見逃すというのとは別問題である。寧ろ善人として生まれ、これといった善悪の意識もないまま、漫然とした人生を送った人間の方が、問題が大きいことも考えられる。