以上が、極めてコンパクトな形ではあるが、近代に至って霊界から届けられた通信によって明かされた死後の世界である。これを他愛ない幻想として片付けられるであろうか。どこか自然の原理に反したところがあるであろうか。
 寧ろ、極めて自然で、その入手経路に確信が得られた以上は、人類は死後間違いなくそうした道程を辿るものと受け止めてよいのではなかろうか。自然と進化は、突然の断絶を嫌うものなのだ。
 技術・文学・音楽その他の才能は脳の産物ではなく、その人間の自我の属性であるからには、死後それを失うということは、その人物の同一性を失うことに等しく、全く別人となることになる。従って、個性が存続するということは、そうした才能も存続していることを意味する。
 が、たとえ存続しても、それを表現する器官がなくては存在の意味がない。そして表現器官はある程度の〝有形〟の媒体を必要とするであろうから、死後にもそうした意味での身体を必要とする筈である。そして、身体がある以上、文明人の慎み深さから、何等かの〝身を包むもの〟の必要性を感じるであろう。
 又自然な願望と親和力の作用によって、真に愛する者と生活を共にすることになるであろうし、そうなると、地上でいう家屋に相当するものの必要性も考えられる。更に、精神的な安らぎとプライバシーの必要性は、個別の部屋の存在を想起させる。
 かくして、死後の個性存続という事実さえ確立されれば、特に霊界からの啓示を待つまでもなく、純粋理性と推理とによっておよその生活の構図を描くことが出来よう。
 この〝幸せの国〟の存在に関する限り、我々が知る世界のどの宗教の来世観よりも、十二分な証明がなされたと考えてよいように思う。
 そう言うと、読者の中には、右に述べたような細々とした死後の世界の事情の内で、どの辺りまでが私自身の想像なのだろうか、又、その概念は、同じように霊界通信に関心を持つ知識人によってどの程度まで真実として受け入れられているのだろうか、といった疑問を抱く方がおられるであろう。
 お答えしよう。右に述べたことは私が入手した厖大な資料を基に、私自身が結論付けたものであると同時に、その基本路線において、世界各地で地道に、しかし厳格な態度で、宗教的偏見を交えずに調査・研究した人達によって、長年に亘って受け入れられて来たものである。証拠資料に関する限り、私はこれで必要かつ十分であると考えている。