「我々は人間に対して、自分をおいて他にいかなる救い主も説きません。胸を抉られる思いの後悔の念と深甚なる償い-罪の結果はそれしかありません。悪いと知りつつ犯した罪が生み出すその結果から逃れられる者はいません。誰一人いません。お慈悲を求めていかに大袈裟に泣き叫んでみても、それだけで即座に神の御前にはべらせて頂けるようなことは断じてありません。又底無しの地獄絵図など、我々は説きません。肉体的に、精神的に、そして霊的に、地上の人間としての義務を果たすことによって徐々に幸せに、少しずつ神らしく成長していきます。人間の勝手なドグマなどは肉体の死と共に死滅し、昇り行く太陽によって雲散霧消します」
スピーア博士「十字架上での盗人の懺悔の教訓は人を誤らせるものということになるわけですね」
「そうです。涙も絶叫も魂を清めることにはなりません。矯正の為の永い過程を経なければなりません」
スピーア博士「御子イエスの血が全ての罪を清める、という聖書の文句を解説してください」
「その中身を汲み取ることです。人間はこれを神がその御子を地上へと身を落とさせ、その御子の血のほとばしりが、それによる贖いへの信仰を告白した者のみを永遠の火炎地獄から救い出すと解釈しています。一体その御子が何者であるかについて知らないままそう解釈しておりますが、そのような冷酷にして無情、邪険極まる言説は打ち棄て、キリストの生涯と教えの底流にある霊的な意義を読み取ることです。その人生は人間にとって模範とすべきものであり、至純にして至聖、苦難によって崇高さを増し、慈悲によって高揚された生涯でした。皆さんも是非その生活を見習って頂きたい。そうした生活こそ罪より救い、気高いものへと導いてくれることでしょう。誤ることを免れない人間の言葉を字句通りに受け取り、更にその誤った土台の上に教理の体系という上部構造を築くという間違いを犯しております」
「ここで、神についての真実の概念を申し述べたいと思います。人間的属性を具えた人格神としてではありません。神々しい人間神としてでもありません。全宇宙に瀰漫し、普及する普遍的大霊としてです。今や人類は神についてより大きな概念を受け入れる用意が出来ました。我々は〝愛〟として顕現している神を説きます。愛-いかなる限界内にも閉じ込められない愛としてです。人間神の概念はかつての人類全体に行き渡っていた偶像崇拝の産物です。これを改めることも我々の使命の一つです。神は一個の人格を具えた存在などではありません。どこかの一地点に鎮座ましますのではありません。全てに浸透し、無始無終に存在し、全てを導き、全てを愛されるのです。
肉体に宿る人間はどうしても限りある形体を具えた神を想像します。我々が知り得た限りでは、神は限りある人格者ではなく、ましてや一個の人間となって誕生したこともなく、人間的影響力によって動かされることなど断じてありません。神は普遍的法則として働いています。祈ることは結構です。祈りは波動の原理で天上界へと送られ、神が直接働きかけられる天使の下に届けられます。人間はすべからく祈ることです。祈ることを知らない頑なな魂は天使も近付くことが出来ません。祈る魂には、いついかなる時でも、天上界の使者が惹き付けられます。
一方において我々は神を一種のエネルギーとして片付けんとする致命的な誤りを避けねばなりませんが、他方、神を人間的煩悩と必需品と権力欲とを具えた人間的存在とする擬人説の迷妄にも陥らぬよう注意しなければなりません。原初、人間は自分で勝手な神を作り上げました。暴君の如き神、いえ、人間にも真似の出来ない程極悪非道の神でした。本当の神とは、生命の本質として、全存在に活力を与える〝霊〟です。全存在を美化する光と愛とを供給する始源です。その神の御心に適った生活はキリストの生涯の中に体現されています。神は単なるエネルギーではありません。さりとて人間が大自然と呼んでいる非人格的存在でもありません。
神のことを宇宙に瀰漫する根源的大霊と心得るがよろしい。〝父なる存在〟という言葉がその正しい概念を伝えております。大自然そのものは神ではありません。その大霊が顕現した相(すがた)に過ぎません。手がすなわち身体とは言えません。身体を構成するものの一顕現に過ぎないのと同様です。
これまで〝父なる神〟についてあまりに誤った概念が蔓延っていました。遠い昔にあっては、それは怒れる神であり、人間はお慈悲を求めて泣き叫ぶことによってその怒りを鎮めることを要しました。我が子を永遠の地獄へ放り込むことを愉快に思う神でした。
我々が認識している神(想像する神ではありません)は、完全にして永遠なる愛の神、過ちを犯した人間も善良な人間も共にその御胸に抱かれる神-我が子全てを等しく哀れみをもって見つめ、民族や土地によって区別することなく、神の御名を唱える者全てに等しく優しさと愛の念をもって応えてくださいます。
もしも人間が、いかに身分の低い者をも、世間でいかに軽蔑されている者をも慈しみ慰め給う間断なき愛の証-天使の軍勢が神の子等を取り囲んでいる姿を我々と同じようにご覧になることか出来れば-たとえ一瞬でもその目で光り輝く存在の大軍勢を垣間見ることが出来れば、誰しもきっと感動を覚え、鑚仰の声を発するに違いないのですが・・・・。願わくば右の如く冷ややかな人間の心、高級界からの働きかけに何の反応も示さない心が神の御光に感動し、全てを与えたもう神、普遍的愛の神へ向けて鑚仰の声を発することになってくれればと祈らずにはいられません。
我々はその天界の政庁の代表として参っている者です。父なる大神は、子等の望みに応えるべく、慰安と導きと愛を携えた天使団を送られます。輝ける永遠の光明界より我々は人類の経綸の為に参っているのです。天使の群、霊の群、他界せる知友の群が、後に残れる者の経綸に当たっているのです」
「各時代の人間の中から啓示の受信者が選ばれます。その者は言うなれば霊的影響力の預かり人であり、現在と未来とを繋ぐ連結の輪の一つです。後続の者に引き継ぐべき真理がその者に預けられます。そして、その者には大神の特命を受けた高級霊が指導に当たります。大神がその万能の叡智をもって立てた計画の遂行に当たるべく、厳粛な意図をもって抜擢された霊達です。
やがてその受信者達が使命に目覚めます。神の使者が天と地とを急がしく往来します。閉ざされていた扉が再び開かれる時が到来したのです。エゼキエル(紀元前六世紀のヘブライの予言者)、パプテスマのヨハネ(イエスの洗礼者)、そして霊覚者ヨハネ(イエスの使徒)の耳に囁いた声が再び聞かれる時が到来したのです。霊界がかつてない規模をもって連絡を密にし、全知全能の神の声が中継の天使群を通じて届けられる時が到来したのです。
では、人間は素直にその声に耳を傾けてくれるか-否!かつてと同じく今日の時代においてもそれは同じことです。この度も又人間側の不信が、神の愛の意図を踏み躙っているのです。人間の頑迷さが神の計画の妨げとなっているのです」
(注)-五十年に亘ってモーリス・バーバネルの口を使って語り続けたシルバーバーチの霊言の中には、ここでインペレーターが述べているのと同じことに言及しているものが何度も出て来るが、その中の一つに次のような箇所がある。
質問「今はスピリチュアリズムという形で霊界と地上界との間にコミュニケーションが開かれていますが、それ以前にも立派なコミュニケーションの時代があったのでしょうか」
シルバーバーチ「一時的にインスピレーションが溢れ出たことはありますが、長続きしていません。この度のコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理・監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一環として行われており、その計画の推進は皆さん方の想像も及ばない程の協調体勢で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かい所まで見事な配慮がなされております。全てに計画性があるのです。そうした計画の下に(十九世紀半ばに)霊界の扉が開かれたのです。この度開かれた扉は二度と閉ざされることはありません」
訳者は『霊訓』と『シルバーバーチの霊訓』と、もう一つオーテンの『ベールの彼方の生活』を英国の三大霊訓と呼んでいるが、このオーエンの霊訓全四巻の最終巻では通信霊のアーネルが右のインペレーターとシルバーバーチが指摘している〝神の計画〟について、その発端から推進の過程までの全貌を雄大なタッチで描写している。
そのリーダーをキリストという名で表現している。その点はインペレーターもシルバーバーチも同じであるが、これは霊媒のモーゼスとオーエンが共にキリスト教の牧師であったこと、それからバーバネルの場合は本人は無宗教であっても交霊会のメンバーがかつてのクリスチャン、或いは牧師だった人達で構成されていたことから当然そうならざるを得なかったまでのことで、要するに地球神界の政庁から派遣された最高級の霊と考えればよい。アーネルが〝各天体にキリストがいる〟と言っていることからも、そう理解してよいであろう。
地球神界の上には太陽神界があり、更にその上に銀河系神界があり、その銀河系が幾つか集まった規模の神界が又存在し、多分中間に幾つかの段階、現在の天文学では知られていない規模の組織があって、最後に漸く〝造化の神界〟がある。そこを始源として全大宇宙のシルバーバーチのいう〝大霊〟が瀰漫している、ということなのであろう。もっともシルバーバーチはその〝最後〟というのは無いと言うのであるが、ここまで来るともう人間の脳を通しての知性では理解出来なくなる。
それは別の問題として、こう観て来ると地球などは宇宙の塵程の存在に過ぎないが、もったいないことに、その地球の浄化の為に、地上の全人口を遙かに超えた数の霊の大軍が組織され、本格的な活動を行なっていることは、以上の三大霊訓の支配霊が異口同音に語っていることで、どうやら間違いない事実のようである。
スピーア博士「十字架上での盗人の懺悔の教訓は人を誤らせるものということになるわけですね」
「そうです。涙も絶叫も魂を清めることにはなりません。矯正の為の永い過程を経なければなりません」
スピーア博士「御子イエスの血が全ての罪を清める、という聖書の文句を解説してください」
「その中身を汲み取ることです。人間はこれを神がその御子を地上へと身を落とさせ、その御子の血のほとばしりが、それによる贖いへの信仰を告白した者のみを永遠の火炎地獄から救い出すと解釈しています。一体その御子が何者であるかについて知らないままそう解釈しておりますが、そのような冷酷にして無情、邪険極まる言説は打ち棄て、キリストの生涯と教えの底流にある霊的な意義を読み取ることです。その人生は人間にとって模範とすべきものであり、至純にして至聖、苦難によって崇高さを増し、慈悲によって高揚された生涯でした。皆さんも是非その生活を見習って頂きたい。そうした生活こそ罪より救い、気高いものへと導いてくれることでしょう。誤ることを免れない人間の言葉を字句通りに受け取り、更にその誤った土台の上に教理の体系という上部構造を築くという間違いを犯しております」
「ここで、神についての真実の概念を申し述べたいと思います。人間的属性を具えた人格神としてではありません。神々しい人間神としてでもありません。全宇宙に瀰漫し、普及する普遍的大霊としてです。今や人類は神についてより大きな概念を受け入れる用意が出来ました。我々は〝愛〟として顕現している神を説きます。愛-いかなる限界内にも閉じ込められない愛としてです。人間神の概念はかつての人類全体に行き渡っていた偶像崇拝の産物です。これを改めることも我々の使命の一つです。神は一個の人格を具えた存在などではありません。どこかの一地点に鎮座ましますのではありません。全てに浸透し、無始無終に存在し、全てを導き、全てを愛されるのです。
肉体に宿る人間はどうしても限りある形体を具えた神を想像します。我々が知り得た限りでは、神は限りある人格者ではなく、ましてや一個の人間となって誕生したこともなく、人間的影響力によって動かされることなど断じてありません。神は普遍的法則として働いています。祈ることは結構です。祈りは波動の原理で天上界へと送られ、神が直接働きかけられる天使の下に届けられます。人間はすべからく祈ることです。祈ることを知らない頑なな魂は天使も近付くことが出来ません。祈る魂には、いついかなる時でも、天上界の使者が惹き付けられます。
一方において我々は神を一種のエネルギーとして片付けんとする致命的な誤りを避けねばなりませんが、他方、神を人間的煩悩と必需品と権力欲とを具えた人間的存在とする擬人説の迷妄にも陥らぬよう注意しなければなりません。原初、人間は自分で勝手な神を作り上げました。暴君の如き神、いえ、人間にも真似の出来ない程極悪非道の神でした。本当の神とは、生命の本質として、全存在に活力を与える〝霊〟です。全存在を美化する光と愛とを供給する始源です。その神の御心に適った生活はキリストの生涯の中に体現されています。神は単なるエネルギーではありません。さりとて人間が大自然と呼んでいる非人格的存在でもありません。
神のことを宇宙に瀰漫する根源的大霊と心得るがよろしい。〝父なる存在〟という言葉がその正しい概念を伝えております。大自然そのものは神ではありません。その大霊が顕現した相(すがた)に過ぎません。手がすなわち身体とは言えません。身体を構成するものの一顕現に過ぎないのと同様です。
これまで〝父なる神〟についてあまりに誤った概念が蔓延っていました。遠い昔にあっては、それは怒れる神であり、人間はお慈悲を求めて泣き叫ぶことによってその怒りを鎮めることを要しました。我が子を永遠の地獄へ放り込むことを愉快に思う神でした。
我々が認識している神(想像する神ではありません)は、完全にして永遠なる愛の神、過ちを犯した人間も善良な人間も共にその御胸に抱かれる神-我が子全てを等しく哀れみをもって見つめ、民族や土地によって区別することなく、神の御名を唱える者全てに等しく優しさと愛の念をもって応えてくださいます。
もしも人間が、いかに身分の低い者をも、世間でいかに軽蔑されている者をも慈しみ慰め給う間断なき愛の証-天使の軍勢が神の子等を取り囲んでいる姿を我々と同じようにご覧になることか出来れば-たとえ一瞬でもその目で光り輝く存在の大軍勢を垣間見ることが出来れば、誰しもきっと感動を覚え、鑚仰の声を発するに違いないのですが・・・・。願わくば右の如く冷ややかな人間の心、高級界からの働きかけに何の反応も示さない心が神の御光に感動し、全てを与えたもう神、普遍的愛の神へ向けて鑚仰の声を発することになってくれればと祈らずにはいられません。
我々はその天界の政庁の代表として参っている者です。父なる大神は、子等の望みに応えるべく、慰安と導きと愛を携えた天使団を送られます。輝ける永遠の光明界より我々は人類の経綸の為に参っているのです。天使の群、霊の群、他界せる知友の群が、後に残れる者の経綸に当たっているのです」
「各時代の人間の中から啓示の受信者が選ばれます。その者は言うなれば霊的影響力の預かり人であり、現在と未来とを繋ぐ連結の輪の一つです。後続の者に引き継ぐべき真理がその者に預けられます。そして、その者には大神の特命を受けた高級霊が指導に当たります。大神がその万能の叡智をもって立てた計画の遂行に当たるべく、厳粛な意図をもって抜擢された霊達です。
やがてその受信者達が使命に目覚めます。神の使者が天と地とを急がしく往来します。閉ざされていた扉が再び開かれる時が到来したのです。エゼキエル(紀元前六世紀のヘブライの予言者)、パプテスマのヨハネ(イエスの洗礼者)、そして霊覚者ヨハネ(イエスの使徒)の耳に囁いた声が再び聞かれる時が到来したのです。霊界がかつてない規模をもって連絡を密にし、全知全能の神の声が中継の天使群を通じて届けられる時が到来したのです。
では、人間は素直にその声に耳を傾けてくれるか-否!かつてと同じく今日の時代においてもそれは同じことです。この度も又人間側の不信が、神の愛の意図を踏み躙っているのです。人間の頑迷さが神の計画の妨げとなっているのです」
(注)-五十年に亘ってモーリス・バーバネルの口を使って語り続けたシルバーバーチの霊言の中には、ここでインペレーターが述べているのと同じことに言及しているものが何度も出て来るが、その中の一つに次のような箇所がある。
質問「今はスピリチュアリズムという形で霊界と地上界との間にコミュニケーションが開かれていますが、それ以前にも立派なコミュニケーションの時代があったのでしょうか」
シルバーバーチ「一時的にインスピレーションが溢れ出たことはありますが、長続きしていません。この度のコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理・監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一環として行われており、その計画の推進は皆さん方の想像も及ばない程の協調体勢で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かい所まで見事な配慮がなされております。全てに計画性があるのです。そうした計画の下に(十九世紀半ばに)霊界の扉が開かれたのです。この度開かれた扉は二度と閉ざされることはありません」
訳者は『霊訓』と『シルバーバーチの霊訓』と、もう一つオーテンの『ベールの彼方の生活』を英国の三大霊訓と呼んでいるが、このオーエンの霊訓全四巻の最終巻では通信霊のアーネルが右のインペレーターとシルバーバーチが指摘している〝神の計画〟について、その発端から推進の過程までの全貌を雄大なタッチで描写している。
そのリーダーをキリストという名で表現している。その点はインペレーターもシルバーバーチも同じであるが、これは霊媒のモーゼスとオーエンが共にキリスト教の牧師であったこと、それからバーバネルの場合は本人は無宗教であっても交霊会のメンバーがかつてのクリスチャン、或いは牧師だった人達で構成されていたことから当然そうならざるを得なかったまでのことで、要するに地球神界の政庁から派遣された最高級の霊と考えればよい。アーネルが〝各天体にキリストがいる〟と言っていることからも、そう理解してよいであろう。
地球神界の上には太陽神界があり、更にその上に銀河系神界があり、その銀河系が幾つか集まった規模の神界が又存在し、多分中間に幾つかの段階、現在の天文学では知られていない規模の組織があって、最後に漸く〝造化の神界〟がある。そこを始源として全大宇宙のシルバーバーチのいう〝大霊〟が瀰漫している、ということなのであろう。もっともシルバーバーチはその〝最後〟というのは無いと言うのであるが、ここまで来るともう人間の脳を通しての知性では理解出来なくなる。
それは別の問題として、こう観て来ると地球などは宇宙の塵程の存在に過ぎないが、もったいないことに、その地球の浄化の為に、地上の全人口を遙かに超えた数の霊の大軍が組織され、本格的な活動を行なっていることは、以上の三大霊訓の支配霊が異口同音に語っていることで、どうやら間違いない事実のようである。