1875年のキリスト昇天祭におけるインペレーターの霊言。
 「以前この席でも何度か語ったことのある祝祭日(後注①)の一つであるこの日に、我々霊団の者も集会を催すことを、よもやお忘れではありますまい。この祝祭日は〝人の子〟イエスの昇天を象徴するものです。宗教問題を考究している学者の大多数がキリストがこの日に肉体を携えたまま天国へ移り住んだとの信仰に同意しております。しかるに皆さんの先達の一人は、血と肉では神の御国を継ぐことは出来ないと説いております。
 今世界各地において行われつつある物理的心霊現象がこの問題に大きな光を投げかけております。すなわちイエス・キリスト程の霊力を具えた霊が一時的に物質を纏って姿を見せることが出来て何の不思議もないということです。キリストの生涯は尋常なるものではありませんでした。霊の世界と交わる者の生涯は得てしてそうなるものです。ただキリストに比べて他の霊覚者の生涯はさほど知られておりません。そして華々しい脚光を浴びることもありません。しかし、だからといって、何時の時代にも霊の世界と交信出来る者がそこここに存在している事実を疑ってはなりません。
 キリスト教では主イエスは神人であり、人類とは異質のものであり、奇跡的な死を遂げ、死後更に奇跡的な生命を得たと説いておりますが、真実の主はそのようなものではありません。死して後に弟子達に姿を見せたことは事実です。が、弟子達と共に過ごした時のあの生身の肉体のまま現れたのではありません。又同じ日、弟子達に優しく別れを告げた後一瞬にして姿を消し本来の天界へと帰って行ったことも事実です。
 人間はイエスが物的身体を持って現れたことに困惑し、その解釈に頭を痛めていますが、その例証となるものを皆さんは(この交霊会で)既に見ておられます。残酷な死を遂げた後に見せたキリストの身体は物質化した霊体だったわけです。物質化に必要な条件が整った時に弟子達に見せたのでした。
 大気中には地上の物的存在物を形成する基本的成分が存在します。そして又、霊体にはその被いとなる原子を吸着する性質が具わっています。かくして生成された物質に霊力が形体を与え、人間の目に、或いは感光板にも、印象を与えることが可能となります。磁気的な作用によって霊体の回りにその霊的生成物が保持されるのです。
 以上の説明に科学的用語は用いておりませんが、その意味するところをよく理解して欲しく思います。一つのエネルギー(生命エネルギーと呼んでもよいでしょう)がその瞬間に出席者を一つに融合させ、連結し、そして調和状態を作り出します。そのエネルギーの源は皆さんの上方に位置し、そこから生み出されます。
 かくして調和よく形成されたサークルにおいて所謂心霊現象が発生します。それなくしては何一つ現象は起きません。そのエネルギーの発生には人間も様々な方法で援助することが出来ます。例えば手と手をすり合わせるのもよいし、歌を歌うのもよろしい。霊の側においても、楽音やそよ風を発生させたり芳香を漂わせたりして、心地よい雰囲気を醸し出し、そのエネルギーの活動を助けます。それなくしては物体を操ることは出来ないのです。
 イエスの十二人の弟子は皆霊媒的素質を具えており、何よりその素質故に選ばれたのであり、イエスとの交わりの中でそれがますます発達して行きました。中でもペテロとヤコブとヨハネが特にイエスとの共鳴度において高いものを有しておりました。同じ意味においてモーセは霊媒的素質をもった七十人の長老を選ぶようにとの霊示を受けておりました。(後注②)
 イエスは画期的な霊的新時代の端緒を開く為に地上へ派遣され、一度も地上へ生を享けたことのない高級霊団によってその生涯を指導されておりました。神が直接霊媒に働きかけることは絶対にありません。いかなる人間といえども神と直接交信することは出来ません。それは人間が足元の草の葉と交信出来ないのと同じ程度において不可能なことです。
 イエスの任務と使命について地上の人間がこれ程までに誤解するに至ったことは、我々にとって驚くべき事実です。もっとも、その事実から幾つかの学ぶべきことも見出すことは出来ます。例えば同じく真理にも深遠な霊的真理と、人間の精神に受け入れられる範囲での真理とがあり、その間に大きな隔たりがあることが人間には洞察出来ないことです。真理とは霊的栄養であり、精神の体質とその時々の状態に合わせて摂取されるべきものです。それは丁度肉体の体質のその時々の状態に合わせて食事を取らねばならないのと同じです。忘れてならないことは、人間の精神は地上への誕生時の条件によって支配され、霊覚が開かれるまでは、その受け入れる真理はごく限られていることです。
 イエスの再臨とは霊的な意味での再臨のことです。しかし物的偏重の時代はそれを物的再臨と考え、イエスは肉体のまま一旦天国と呼ばれる所へ運ばれた後、同じ肉体を纏って地上へ戻り、生者と死者共々に最後の審判を下すものと想像しました。
 今日我々が人間に祝って欲しく思うのは、イエスの純粋な霊的身体の荘厳な昇天です。これは今人間を取り囲み神の真理の光が魂を照らすことを妨げている物的環境からの、人間の霊の絶縁の模範なのです」

 (注)①-キリスト教で祝う祭日の霊的な意味について『霊訓』に次のような説明がある。通信霊はインペレーターではない。

○クリスマス(キリスト降誕祭)-これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿として、人類愛から己を犠牲にする。我々にとってクリスマスは無私の祭日である。
○エピファニー(救世主顕現祭)-これはその新しい光の地上への顕現を祝う祭日であり、我々にとって霊的啓発の祭日である。すなわち地上へ生まれて来る全ての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人一人に持ち運んで与えるのではなく、光明に目覚めたものがそれを求めに訪れるように、高揚するのである。
○レント(受難節)-これは我々にとっては、真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は、絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤の為の精進潔斎の日であり、悪との闘いの為の精進日であり、地上的勢力を克服する為の精進日である。
○グッドフライデー(聖金曜日)-これは我々にとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤に訪れる目的成就、すなわち〝死〟を象徴する。但し新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生命の認識と達成の祝日である。我々にとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。
○イースター(復活祭)-これは復活を祝う日であるが、我々にとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克った霊、そして又、打ち克つべき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた、蘇れる生命の祭りである。
○ペンテコステ(聖霊降臨祭)-キリスト教ではこれも霊の洗礼と結び付けているが、我々にとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生命の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさ故に自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏み躙られた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を受ける。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日である。
○アセンション(昇天祭)-これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生命の終焉である。使命の完遂の祭りである。

 (注)②-同じ『霊訓』でインペレーターがこう述べている。
 《今日なお存続している「十戒」は変転極まりない時代の為に説かれた真理の一端に過ぎない。もとよりそこに説かれている人間の行為の規範は、その精神においては真理である。が、既にその段階を通り過ぎた者に字句通りに適用すべきものではない。「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ地上的煩悩の影響に超然としたシナイ山の頂上においてモーセの背後霊団によって授けられた。背後霊団は今日の人間が忘却しているもの、つまり完全な交霊の為には完全な隔離が必要であること、純粋無垢な霊訓を授かる為には低次元の煩雑な外的影響、懸念、取り越し苦労、嫉妬、論争等から隔絶した人物を必要とすることを認識していたのである。これだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることが出来るのである。
 モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として七十人もの長老-高き霊性を具えた者-を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高い者が役職を与えられたのである。モーセはその為の律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となった後も、人類の恩人として末永くその名を地上に留めているのである》