イエスの生涯の内記録にない青年時代について-
 「イエスの若き時代は一貫して準備期でした。聖書にある悪魔による誘惑の話は、他の多くの記録と同じく、ただの作り話に過ぎません。〝神の声〟として受け取られている出所不明の記録の中の出来事を辿って行けば、そこに幾つかの矛盾撞着が見られます。その一つが荒野の誘惑の話(マタイ4)です。悪魔がイエスを荒野へおびき出し、断食によって体力を衰えさせておいて、自分の前にひれ伏せば天国を与えその主としてやると申し出たというのですが、実はこうした作り話が、向上しようとする魂の足枷となって人類を永い間拘束してきました。全て作り話であり、ただの想像の産物であり、光明へ向かわんとする魂を引き止めております。真の向上を得る為には、啓発の拠り所としているバイブルの中からそうした夾雑物を末梢しなければなりません。バイブルにも多くの真理の宝物が蔵されております。が、それを啓発の拠り所とする者は、真偽を見分ける判断力を身に付けなければいけません。
 主イエスは、かつて一度も地上へ生を享けたことのない霊によって指導され鼓舞されておりました。(後注①)。霊の影響力が今地上界へ浸透しております。その霊力は全て主に発し、一大連動装置を形成する無数の霊を通じて地上へと届けられております。
 高級霊が今我々がこの霊媒を支配している如くに直接的に支配することは極めて稀なことです。もしあるとすれば、霊媒はよほど発達した者でなければならず、そのような霊媒は稀にしか存在しません。もっとも、直接的には支配せずとも、幾つかの連鎖関係を通じて支配することは出来ます。しかし、霊媒が(たとえ霊媒能力はあっても)精神的に未熟である場合は、高級霊はあえて努力して使用してみることはしません。
 イエス程の進化せる霊となれば、直接的に地上の霊媒を支配することは不可能です。イエスは神の意志の直接的表現が肉体を纏ったのです。後継者は残しませんでした。これから以後も出現しないでしょう。今その全霊力がこの地球の啓蒙の為に向けられております。天体の一つ一つにそれぞれの霊的光明の淵源が割り当てられているのです(後注②)」

 (注)①-本来の所属界においてはイエスが〝主〟でその霊団が〝従〟の関係にあり、イエス自身もそのことを知っていたという。

 (注)②-各天体の守護神のことで、イエスは地球の守護神の直属の大天使の一人と考えられる。

 「イエス・キリストのことを一般には全能なる神の命令を受けて、その神の化神として人類救済の為に降誕し、かの磔刑をもってその人類救済が成就されたと考えられておりますが、何というお粗末な思想でしょう。
 しかし実はこの身代わりの贖罪の概念は大切な真実に基づいているのです。と申しますのは、キリスト教原理と称しているものは全ての人間の霊的救済にあるのであり、各自の霊性が呼び覚まされる程に霊界からの導きを受け向上していくものだからです。人間キリストにおいてその霊的原理が最高に発揮され、まさしく〝神の子〟と呼ばれるに相応しい人物でした。すなわち地上に生を享けた人間の中でもっとも神の如き人間という意味において〝神の子〟でした。
 仏陀の場合と同じように(後注①)イエスが神であるとの概念が生まれたのは死後かなりの年数が経ってからのことでした。そしてそのことはイエス自身にとっては迷惑千万なことでした。イエスを慕う者達が祭り上げてしまった神の座を、本人は一度も口にしたことはなかったのです。イエスは真の意味での神と人間との間の仲立ちでした。神の真理をその時代に、更にその時代を通して後世にまで啓示したのです。
 その生涯を通じてイエスは当時支配的だった思想と真っ向から対立する教えを説き、そうした者が必ず遭遇する運命を辿りました。まず貶され、続いて見当違いの告発を受け、有罪を宣告され、そして最後に死刑を執行されました。(後注②)
 伝説は排除してもよろしいが、イエスの徳に満ちた生活、並びにイエスが説いた福音は排除してはなりません。イエスの訓えの根底にある原理は神の父性とそれへの讃仰、全人類の同胞性と共同社会を構成する霊的な絆、祈願の法則と自己犠牲の法則、すなわち他人からしてもらいたいと思う通りのことを他人にしてあげなさいということ(黄金律)です」

 (注)①-『ベールの彼方の生活』から。
 《ガリラヤのイエスとして顕現したキリストが仏陀を通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。又キリストが数多く存在する(何度も生まれ変わった)というのも真実ではありません。イエス・キリストは父なる神の一つの側面の顕現であり、仏陀・キリストは又別の側面の顕現です。
 人間も一人一人が造物主(父なる神)の異なれる側面の顕現です。が、全ての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストと仏陀・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。しかし顕現の大きさからいうとイエス・キリストの方が優ります。が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この二つの名前を持ち出したのはたまたまそうしたまでのことで、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、その全てに右に述べたことが当てはまります》

 (注)②-『霊訓』から。
 《イエスに向けられた批難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解極まる神学を打ち立てた者達-(中略)彼等は後生大事にその古い訓えを微に入り細を穿(うが)って分析し、遂に単なる儀式の寄せ集めとしてしまった。魂なき身体、さよう、生命なき死体同然のものにしてしまったのです。そしてそれを盾に彼等の神の冒涜者(イエス)はモーセの律法を破壊し神の名誉を奪うものであると絶叫しました。律法学者とパリサイ人、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを批難しました。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号を真っ先に浴びせたのが彼等だったのです》

 イエス・キリストを祈願の対象としてよいかとの問いに-
 「父なる神、純粋無垢の光の中におわす永遠なる大霊の概念が理解出来ない内は、イエスに祈るのも何等差し支えはありません。その神の概念が理解出来た者なら直接神に祈ることです。が、それが出来ないのであれば、自分にとって最も身近な信仰の対象を仲立ちとして祈るがよろしい。その仲立ちによって祈りが大神へ届けられます」

 (注)-シルバーバーチは〝霊界側は祈りをどう見ておられるのでしょうか〟との問いにこう答えている。
 《祈りとは何かを理解する為には、その目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願い事を口にしたり決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける者はいませんし、訴える力を持った波動を起すことも出来ません。私達は型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意が籠もっておらず、それを口にする人自ら、内容に無頓着であるのが普通です。永い間それをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかしいかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなりません。
 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責任を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果関係を微塵も変えることは出来ません。人の為という動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りを全て無視されるがよろしい。その後に残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)な行為であるが故に自動的に反応の帰って来る祈りです。その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。
 あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取り組んだ時-解決の為にありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何等かの力、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決の為の光を求めて祈る、完全な権利があるといえましょう。そして、きっとその導き、その光を手にされる筈です。なぜなら、あなたの周りにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。例えば、あなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。
 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求める為の祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜなら、その魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです》