主イエスを信じるか否かによって霊の識別をしてよいかとの質問に-
 「いかなる信仰の告白も、その真実性を保証することにはなりません。霊が地上を離れれば、地上時代の教義など雲散霧消してしまいます。ただ、中には地上時代から纏わり付いている神学的モヤの中から脱し切れず、それを真実を思い込んで、とんでもない間違った教説を大真面目に通信する霊がよくいます。
 又一方には、自分ではそうと気付かずに邪霊集団の手先となって通信している霊もいます。彼等は、我々が全勢力を結集してその誤りを指摘せんとしている教義をわざと存続させようと企みます。我々がこうして地上に降りて来たそもそもの目的は、真実の霊的真理を人間に啓示することにあります」

 「もしも通信霊の述べることに気高さを感じ、知的に、道徳的に、或いは霊的に高い次元へと昂揚してくれるものを感じ、意気盛んにしてくれるものがあれば、それを受け入れるがよろしい。反対に、低劣なものを感じ俗悪なものを指向していると思った時は、それは無視なさることです。その種のものは邪霊集団からのものだからです。交霊会をもっともらしく演出しながら、適当に茶化しては軽蔑と嘲笑の的とするのです」

 (注)-『霊訓』の中で同じインペレーターが次のように述べている。
 《邪霊集団の暗躍と案じられる危険性については既に述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはり我等にとって面倒を及ぼす存在がいます。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体から離れていく人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもないものです。そして、地上に近い界層を一気に突き抜けて行く程進化せる霊は、特別の使命でもない限り地上へは戻って来ないものです。地縛霊の存在については既に述べた通りである。
 言い残したもう一種類の霊団があります。それは悪ふざけ、茶目っ気、或いは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せ掛けの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊という程のものではないが、良識に欠ける霊達であり、霊媒と列席者を煙に巻いて、いかにも勿体ぶった雰囲気の中で通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取って面白がっているに過ぎません。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると貴殿に言わしめる要因がそこにあります。
 茶目っ気やイタズラ半分の気持から、いかにも真面目くさった演出をしては、それを信じる人間の気持を弄ぶ霊の仕業がその原因となっています。列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく応対するのも彼等である。誰にでも出席出来る交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼等の存在が原因である。(中略)彼等は真の道徳的意識は持ち合わせません。求められれば、いつでも、いかなることでも、ふざけ半分、イタズラ半分にやってみせます。その時々の面白さ以上のものは何も求めません。人間を傷付ける意図は持ちません。ただ面白がるのみです。
 人の道を誤らせ、邪な欲望や想念を抱かせるのも彼等である。密かに霊媒を操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼等には我慢ならず、俗悪な目的を示唆する。要するにその障害物、妨害となろうとするのです。関わるのは主として物理現象です。通例その種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって混乱を引き起こす現象を演出する。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによって引き起こされる当惑の様子を見て、ほくそ笑むのです。
 憑依現象をはじめとする数々の心霊的障害は彼等の仕業に起因する。一旦付け入れば、いかようにでも心理操作が出来るのです。個人的に霊を呼び出して慰安を求める者達を愚弄するのも彼等です。いかにもそれらしく応対し、嬉しがらせるような言葉を述べて欺く。
 間違いなく本人が出て、しっかりとした意志の疎通が行なわれることはあります。が、次の会では巧みに本人を出し抜いてイタズラ霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わない話を織り混ぜたり、全くの作り話を語ったりする。そうした霊に付け入られない為にも、一身上の話題はなるべく避けるが賢明である》

 〝永遠の刑罰〟について問われて-
 「永遠の刑罰の教義を立論の典拠とすることは神を冒涜するものであると同時に、恐ろしい思想と言わねばなりません。ほんの僅かばかりの真理は含んでいても、それが大きく曲解され歪められております。地上には善良な人間もいれば邪悪な人間もいますが、身代わりの贖罪を信じた者、或いは洗礼を受けた者は善悪の区別なく祝福されて神のもとにはべり、それ以外の者は呪われた者として悪魔のもとにはべらされるというのは、人間の創作に過ぎません。魂は常に進化の状態にあり、善でも悪でもないのですから、そのような尺度で人間を善と悪とに分けることは出来ません。
 宇宙の大神がこの地上という低き界層から御子イエスの血によって贖われた霊だけを救い出して側にはべらせるわけはありませんし、又、(宗教の違い等の)不可抗力の巡り合わせから生じたに過ぎないことを最大の言いがかりにして地獄へ蹴落とすようなこともなさるわけがありません。地上を去る者は、それぞれ誰も知らない条件の下で地上へ誕生しております。不可抗力だった悪徳の犠牲となっている場合もあります。
 地上を去った後一気に向上して行く優秀な霊がいると申し上げましたが、そうした霊も、直ぐに最高神のもとにはべるようになるなどということは人間的精神による空想に過ぎないと言うことでしょう。地獄はあります。が、それは、為すべきことを為さなかった悔恨の念に苦しめられる状態のことです。火炎地獄など、肉体を持たない霊の世界では何の効力もありません」

 「霊そのものは無始無終の存在です。その霊が地上に生を享ける前のことからお話しましょう。霊そのものは、この地上世界の基盤として、これを取り巻くように存在し支配している霊的界層に前もって存在しております。いかなる霊も、肉体を身に付けるまでは空間を宿として存在しています。そして肉体に宿って誕生する時期に至るまでは、様々な過程を経ながら成長してまいります。その段階でミクロコズム、すなわち火花の形で宿した神性の具現体となり、かくして物質を支配する力を獲得します。物質の特質の一つは不活性です。自らは何も出来ません。霊によって支配され活性を与えられ、一方、霊の方は人体を纏った段階で個別性を持つことになります。
 このように、地球を包み込むように霊的界層があって、全ての霊はそこからやって来ては、又そこへ帰って行くわけです。それとは別に仕事の界層(動の世界)と瞑想の界層(静の世界)が地球を取り巻いており、個霊は全てその一つ一つを通過しながら向上してまいります。地球全体を霊の大気が包み込んでおり、それが霊界です。皆さんは、その存在に気付いていなくてもその中で生きておられるわけです。地球とよく似た(主観と客観)世界です。ただ、遙かに美しく、そして純化されていると言うだけの違いです。
 霊界においても、自己を表現する為には何等かの媒体が必要であり、形体が必要です。但し、霊質のものです。霊界にも地上と同じように植物、鉱物、動物、といった種別があります。ですから、そちらの世界からこちらの世界へ来ることは〝環境条件〟が変わるに過ぎません。
 生まれつき目の不自由な人には光とは何かが分かりません。その人が仮に視力を得て光が見えるようになったとすれば、それは〝状態〟が変わったのであって〝場所〟が変わったのではありません。それと同じで、その肉体を脱ぎ棄てて霊界入りしても、それは場所が変わったのではありません。状態が変わったに過ぎません」

 インペレーターによれば瞑想的〝静〟の世界は七つあり、その下に七つの進歩的〝動〟の世界があり、更に下に七つの〝試練〟の世界があり、地球はその最上階に属するという。

 (注)-ここでいう界層とは霊的進化がほぼ同程度の者が集まって生じる〝状態〟のことであって、各界がどこかで仕切られていて、それに通路や階段が付いているわけではない。強いて言えば小学校や中学校を知能の発達程度に応じて大雑把に六学年とか三学年に分けているのと同じで、学年が上がれば教室は変わるが、更に上ると又同じ教室を使用することもある。要は〝知能〟の問題であって、霊的界層の問題もそれを〝霊格〟に置き換えて考えればよい。インペレーターが〝上〟とか〝下〟とかの用語を用いているのは、地上の言語で表現しようとすればそうせざるを得ないからであって、現実に同じ一点に全界層が存在していると考えるべきである。