はじめに
ステイントン・モーゼスによる自動書記は1883年にモーゼス自身によって『霊訓』 Spirit Teachings と題する一巻の書に纏められている。その多くは既に心霊誌〝ライト〟に掲載されたものであるが、それについてインペレーターはモーゼスに(自動書記で)こう述べている。
「あれは、受け入れる用意の出来た者の為に独立した一個の霊が貴殿の精神に働きかけることが可能であることを証明したものである。あの中に述べられていることを検証し得心しようとする意欲と、それとは全く別個の知的存在とが交信している事実が明らかであろう。その事実は又新たな立証を得ることになろう」
又1874年4月10日の発行の心霊誌〝スピリチュアリスト〟には次のような一節が見える。
「霊的教訓が授けられる通路となっている人物(モーゼス)は書物を読みその内容に注意を向けていても、霊側はその人物の手を借りて、それとは全く異なる問題について書くことが出来る。かくして死後存続についての驚異的な証拠が彼の霊媒能力を通して次々と提供されつつあります」
その『霊訓』についてモーゼス自身は1874年9月にこう書いている。
「この一年と半年の間に明らかに私以外の始源から届けられており、その筆跡は整然として乱れることがなかった。通信霊の一人ひとりが、機械的正確さをもって、文体と筆跡を維持し続けている。全く乱れが見られないのである。書いている手にハンカチを被せたり、書きながら書物を読んだりしても、少しも変化が生じない。どんな場所で書いても、纏まったことを最後まで述べる。これは明らかに私以外の存在が書いている証拠である」
霊団側の話によると、通信を受けながら別の用事が出来るということは、モーゼスの稀にみる霊媒的素質を示しており、あれだけの通信が得られるのは精神と肉体と霊的素質とが稀にみる一体関係にあったからだという。
-構成者
(注)-特に指摘がない限り通信霊はインペレーターで質問者はモーゼスである。霊言と異なり自動書記は古い文語体で書かれている。『霊訓』(完訳)ではそれを訳文に反映させる必要があったが、本書は断片の寄せ集めで構成されており前後の繋がりが途切れるところが多いので、それぞれの内容によって現代的な文語体と口語体とを織り交ぜた文に訳した。
「我々は霊力と才能と発達の程度を異にする知的存在-様々な影響力と感化力をもつ霊の集団である。それ故、割り当てられる仕事は各自の能力に応じたものとなっている。命令を下す者がおり、それに従う者がいる。各分野に監督がおり、その指令に従って担当者が仕事に当たります。
全てにおいて忠実さと正確さを旨としています。我々は神の福音を説く者の集団です。計画遂行の為に構成された四十九名の霊団の組織については既に述べてある。(通信の末尾に記される)署名(サイン)は一人であっても、その通信の中身については、多くの場合、複数の霊が関与している。その教説は従来の神学上の誤謬の修正と同時に、新たな真理の啓示も目的としており、真理の特殊な入手方法に心得のある者がその啓示に関わることになろう」
「本日の到着が遅れたのは私の出席を必要とする霊の集会があった為です。全能なる大神への讃仰の祈りを捧げる為によく開かれる集会の一つです。霊団同士の協力を必要とする時、及び我々より更に高級にして賢明なる霊からの力を授かる必要のある時に、そうした集会をもつのである」
「我々は今、聖なる天使と霊の大集会に出席して来たばかりです。その集会において(地上での大事業の進展具合について)協議し、大神へ厳かなる讃仰の祈りを捧げてまいりました。我々の声が一体となって讃仰の聖歌へと高まり、それに応えて大神が聖なる霊力をお授け下さり、それが(地上での大事業における)闘争の支えとなるのである」
-具体的なことを教えて頂けませんか。
「地上各地での使命に携わっている霊団の指導霊が一堂に召集され、最高神への讃仰の大集会が催されます。時折そうした集会をもって全能なる大神を讃美するのが、我々の習わしなのです。それが、とかく過ちを犯しがちな魂を導く労多き仕事で疲弊し切った我々自身の元気回復にもなります。エネルギーを一新し、神の恵み多き霊力を蓄えるのです。
その荘厳な讃仰と讃美の儀式には、第三界以下(幽界)の霊は参列を許されません。又、我々と同じ界の者でも、さしあたって他の存在の為の仕事に携わっていない者は参列しません。
その使命は地上だけとは限らない。既に肉体を棄てていながら、地上的な情愛や、かつて宿っていた肉体の欲情による地縛的状態から脱け切れずにいる霊、或いは又、天寿を全うせずして未熟な状態で霊界へ送り込まれ、看護と指導を必要とする霊の救済に当たることを使命としている者もいる。
地上時代ずっと指導に当たった霊が死後も引き続き指導霊として、地上時代に始まった教育を霊界においても担当することは、よくあることである」
-あなたはイエス・キリストの直接の影響力の下に行動しておられると理解してよろしいか。
「よろしい。私は以前、私自身が試練の境涯を通過して超越界へと入って行かれた霊の影響下にあると述べたことがある。その霊こそ、かつて地上でイエスと名乗った霊です。その方が今(超越界より再度降下されて)地上人類の霊的救済、新たな真理の啓示、そして積年の誤謬の一掃の為の計画を用意されつつあります。その為の特使を神界にて選ばれ、その霊に地上の霊媒の選定を一任される。イエスこそ、この度の大事業の最高指揮者であらせられる」
「地上の人間は内在する霊的資質の開発の必要性を常に自覚していなければなりません。この度の我々の(心霊現象演出の)活動も霊的啓示を授けることを目的としたものであって、単に人間を面白がらせたり驚かせたりする為のものではない。教えを受けようとする心構えのない者には、我々の教えも通じないものです。
その高等な霊的真理への関心の乏しさが、高級霊が地上と交信しようとしても満足のいく結果が得られない原因です。人間側に学ぼうとする姿勢が乏しいからです。好奇心の満足しか求めないからです。我々としては、一方において邪霊集団による絶え間ない策謀によって不利な条件を強いられ、他方において人間の冷え切った信仰心、或いは未熟な受容性に乏しい霊性に手こずりつつも、我々として出来うる限りの努力をしているところである」
「我々としては、せめて我々の影響下に置かれた同志だけでも、魂の憧憬の崇高さに応じてそこに訪れる霊の霊格の程度が決まることを、実感として体験させてあげられればという気持です」
「純真無垢な人間が邪霊集団からの攻撃を受けることは有りうることです。が、その際は背後霊団の守護を得て首尾よく撃退せしめるでしょう。そうした場合は別として、親和力の法則に例外はありません。類は類を呼ぶ、ということです」
-必ずしもそうとばかりも言えないのではないでしょうか。
「絶対不変というわけではないが、それが通則です。悪は悪を引き寄せる。好奇心ばかり旺盛で見栄っ張りで軽薄な人間の回りには同じように軽薄で未発達な霊が寄って来ます。しかし、純心無垢な善人には必ずしもその通則が当てはまらないことがある。時として未発達霊からの攻撃に晒されることがあります。試練である場合もあり、邪霊集団の策謀である場合もある」
「高級霊による働きかけは声もなく音もなく、又往々にして何の兆候も見られないものです。結果を見て漸く知られるのみで、途中の過程にはそれが見られません。インスピレーションは人間が〝神〟と呼んでいるもの、すなわち宇宙にあまねく内在する大霊から流れてくるものです。
我々と同じく人間も霊の大海の中に生きているのであり、全ての知識と叡智はそこから魂へと注ぎ込まれている。これが所謂聖霊の内在、すなわち神は人間と共にあり、人間の心の中に宿り給う(ヨハネ伝14・17)ということです。以前我々が皆さんも神である-一人一人が内部に普遍的大霊の一部を宿しているという意味において、人間は全て絶対神の顕現である、と述べたのも、それと同じ真理を述べたのでした。
霊的身体はその霊の大海から養分を摂取し、存在を維持している。物的身体が呼吸によって大気中から生命素を摂取して存在を維持しているのと同じで、霊的大気と霊体との関係はまさに空気と肉体との関係と同じです。人間界の叡智も又その霊的大気圏から得られる。主として霊による中継によって行なわれます。受容性の高い者、霊性の高い者程多くを摂取する。
所謂天才もその類に入ります。有用な発見、人類の役に立つ発明をする者も皆、そのインスピレーションを霊の世界から得ています。その発明品は人間が思いつく以前から霊界に存在していたのである。天才の閃きも、その根源的アイディアが芽生える霊界から放たれる光の反射に過ぎません」
ステイントン・モーゼスによる自動書記は1883年にモーゼス自身によって『霊訓』 Spirit Teachings と題する一巻の書に纏められている。その多くは既に心霊誌〝ライト〟に掲載されたものであるが、それについてインペレーターはモーゼスに(自動書記で)こう述べている。
「あれは、受け入れる用意の出来た者の為に独立した一個の霊が貴殿の精神に働きかけることが可能であることを証明したものである。あの中に述べられていることを検証し得心しようとする意欲と、それとは全く別個の知的存在とが交信している事実が明らかであろう。その事実は又新たな立証を得ることになろう」
又1874年4月10日の発行の心霊誌〝スピリチュアリスト〟には次のような一節が見える。
「霊的教訓が授けられる通路となっている人物(モーゼス)は書物を読みその内容に注意を向けていても、霊側はその人物の手を借りて、それとは全く異なる問題について書くことが出来る。かくして死後存続についての驚異的な証拠が彼の霊媒能力を通して次々と提供されつつあります」
その『霊訓』についてモーゼス自身は1874年9月にこう書いている。
「この一年と半年の間に明らかに私以外の始源から届けられており、その筆跡は整然として乱れることがなかった。通信霊の一人ひとりが、機械的正確さをもって、文体と筆跡を維持し続けている。全く乱れが見られないのである。書いている手にハンカチを被せたり、書きながら書物を読んだりしても、少しも変化が生じない。どんな場所で書いても、纏まったことを最後まで述べる。これは明らかに私以外の存在が書いている証拠である」
霊団側の話によると、通信を受けながら別の用事が出来るということは、モーゼスの稀にみる霊媒的素質を示しており、あれだけの通信が得られるのは精神と肉体と霊的素質とが稀にみる一体関係にあったからだという。
-構成者
(注)-特に指摘がない限り通信霊はインペレーターで質問者はモーゼスである。霊言と異なり自動書記は古い文語体で書かれている。『霊訓』(完訳)ではそれを訳文に反映させる必要があったが、本書は断片の寄せ集めで構成されており前後の繋がりが途切れるところが多いので、それぞれの内容によって現代的な文語体と口語体とを織り交ぜた文に訳した。
「我々は霊力と才能と発達の程度を異にする知的存在-様々な影響力と感化力をもつ霊の集団である。それ故、割り当てられる仕事は各自の能力に応じたものとなっている。命令を下す者がおり、それに従う者がいる。各分野に監督がおり、その指令に従って担当者が仕事に当たります。
全てにおいて忠実さと正確さを旨としています。我々は神の福音を説く者の集団です。計画遂行の為に構成された四十九名の霊団の組織については既に述べてある。(通信の末尾に記される)署名(サイン)は一人であっても、その通信の中身については、多くの場合、複数の霊が関与している。その教説は従来の神学上の誤謬の修正と同時に、新たな真理の啓示も目的としており、真理の特殊な入手方法に心得のある者がその啓示に関わることになろう」
「本日の到着が遅れたのは私の出席を必要とする霊の集会があった為です。全能なる大神への讃仰の祈りを捧げる為によく開かれる集会の一つです。霊団同士の協力を必要とする時、及び我々より更に高級にして賢明なる霊からの力を授かる必要のある時に、そうした集会をもつのである」
「我々は今、聖なる天使と霊の大集会に出席して来たばかりです。その集会において(地上での大事業の進展具合について)協議し、大神へ厳かなる讃仰の祈りを捧げてまいりました。我々の声が一体となって讃仰の聖歌へと高まり、それに応えて大神が聖なる霊力をお授け下さり、それが(地上での大事業における)闘争の支えとなるのである」
-具体的なことを教えて頂けませんか。
「地上各地での使命に携わっている霊団の指導霊が一堂に召集され、最高神への讃仰の大集会が催されます。時折そうした集会をもって全能なる大神を讃美するのが、我々の習わしなのです。それが、とかく過ちを犯しがちな魂を導く労多き仕事で疲弊し切った我々自身の元気回復にもなります。エネルギーを一新し、神の恵み多き霊力を蓄えるのです。
その荘厳な讃仰と讃美の儀式には、第三界以下(幽界)の霊は参列を許されません。又、我々と同じ界の者でも、さしあたって他の存在の為の仕事に携わっていない者は参列しません。
その使命は地上だけとは限らない。既に肉体を棄てていながら、地上的な情愛や、かつて宿っていた肉体の欲情による地縛的状態から脱け切れずにいる霊、或いは又、天寿を全うせずして未熟な状態で霊界へ送り込まれ、看護と指導を必要とする霊の救済に当たることを使命としている者もいる。
地上時代ずっと指導に当たった霊が死後も引き続き指導霊として、地上時代に始まった教育を霊界においても担当することは、よくあることである」
-あなたはイエス・キリストの直接の影響力の下に行動しておられると理解してよろしいか。
「よろしい。私は以前、私自身が試練の境涯を通過して超越界へと入って行かれた霊の影響下にあると述べたことがある。その霊こそ、かつて地上でイエスと名乗った霊です。その方が今(超越界より再度降下されて)地上人類の霊的救済、新たな真理の啓示、そして積年の誤謬の一掃の為の計画を用意されつつあります。その為の特使を神界にて選ばれ、その霊に地上の霊媒の選定を一任される。イエスこそ、この度の大事業の最高指揮者であらせられる」
「地上の人間は内在する霊的資質の開発の必要性を常に自覚していなければなりません。この度の我々の(心霊現象演出の)活動も霊的啓示を授けることを目的としたものであって、単に人間を面白がらせたり驚かせたりする為のものではない。教えを受けようとする心構えのない者には、我々の教えも通じないものです。
その高等な霊的真理への関心の乏しさが、高級霊が地上と交信しようとしても満足のいく結果が得られない原因です。人間側に学ぼうとする姿勢が乏しいからです。好奇心の満足しか求めないからです。我々としては、一方において邪霊集団による絶え間ない策謀によって不利な条件を強いられ、他方において人間の冷え切った信仰心、或いは未熟な受容性に乏しい霊性に手こずりつつも、我々として出来うる限りの努力をしているところである」
「我々としては、せめて我々の影響下に置かれた同志だけでも、魂の憧憬の崇高さに応じてそこに訪れる霊の霊格の程度が決まることを、実感として体験させてあげられればという気持です」
「純真無垢な人間が邪霊集団からの攻撃を受けることは有りうることです。が、その際は背後霊団の守護を得て首尾よく撃退せしめるでしょう。そうした場合は別として、親和力の法則に例外はありません。類は類を呼ぶ、ということです」
-必ずしもそうとばかりも言えないのではないでしょうか。
「絶対不変というわけではないが、それが通則です。悪は悪を引き寄せる。好奇心ばかり旺盛で見栄っ張りで軽薄な人間の回りには同じように軽薄で未発達な霊が寄って来ます。しかし、純心無垢な善人には必ずしもその通則が当てはまらないことがある。時として未発達霊からの攻撃に晒されることがあります。試練である場合もあり、邪霊集団の策謀である場合もある」
「高級霊による働きかけは声もなく音もなく、又往々にして何の兆候も見られないものです。結果を見て漸く知られるのみで、途中の過程にはそれが見られません。インスピレーションは人間が〝神〟と呼んでいるもの、すなわち宇宙にあまねく内在する大霊から流れてくるものです。
我々と同じく人間も霊の大海の中に生きているのであり、全ての知識と叡智はそこから魂へと注ぎ込まれている。これが所謂聖霊の内在、すなわち神は人間と共にあり、人間の心の中に宿り給う(ヨハネ伝14・17)ということです。以前我々が皆さんも神である-一人一人が内部に普遍的大霊の一部を宿しているという意味において、人間は全て絶対神の顕現である、と述べたのも、それと同じ真理を述べたのでした。
霊的身体はその霊の大海から養分を摂取し、存在を維持している。物的身体が呼吸によって大気中から生命素を摂取して存在を維持しているのと同じで、霊的大気と霊体との関係はまさに空気と肉体との関係と同じです。人間界の叡智も又その霊的大気圏から得られる。主として霊による中継によって行なわれます。受容性の高い者、霊性の高い者程多くを摂取する。
所謂天才もその類に入ります。有用な発見、人類の役に立つ発明をする者も皆、そのインスピレーションを霊の世界から得ています。その発明品は人間が思いつく以前から霊界に存在していたのである。天才の閃きも、その根源的アイディアが芽生える霊界から放たれる光の反射に過ぎません」