「能力を物的レベルから(精神的レベルへ)引き上げること、知覚力を鋭敏にすること、内部の霊的能力を開発すること、我々の存在の身近さを(現象という形でなしに)ごく自然に感識出来るようになること、入神という危険性のある状態にならずに我々を認識し交信出来るようになること、以上のことを心掛けてくれれば、我々としては申し分ないところである。これが人間として可能な最高の生活形態の手始めである。
貴殿がそろそろ現象的なものから手を引いて霊的なより高度なものに発展させようと考えていることを、我々は嬉しく思っている。既に述べたように、成長過程の一つとして、我々も一時的に貴殿を物的現象の為に利用されるのを許さざるを得なかった。その段階をストップさせてもよい時機を見計らって、我々は今度は貴殿の存在そのものである霊の本質について学ばせる為に、他の霊との接触を許したのである」
(注)-《解説》で概略が述べられていることであるが、モーゼスは当初は霊の存在に懐疑的だったが、多くの交霊会に出席する内に次第に信じるようになり、その内自分の身辺でも各種の心霊現象が発生するようになって、漸く確信を得るに至った。その間もずっと自動書記は続けられていたのであるが、背後霊団の身元について確信を得たのは、自動書記を綴ったノートが十四冊になった頃からだという(全部で二十四冊)。〝他の霊との接触を許した〟というのは、それまでプライベートな身近な話題ばかりだったのが、今度は霊団の中でも高級な霊が入れ代わり立ち代り名乗って出て高等な内容の通信を送り始めたことを言っている。
「我々の教えの中に新たな要素が見られるようになったことに貴殿も気付いている。これまで貴殿を取り巻いていたドグマの垣根が少しずつ取り壊され、かつては理解出来なかった真理が把握出来るようになった。神聖であると思い込んでいたものの多くを捨て去ることが出来るようになった。かつては不可解な謎とされていたものについて考究するようになってくれた。
我々は貴殿の教育をまず物的レベルから始めた。物質に勝る霊の威力を見せつけ、貴殿を通じて見えざる知的存在が働いているその証拠を見せることが出来た。その初期の段階では物理的現象で十分であった。が、その後我々は徐々に我々自身の身元について語り、貴殿の精神に新たな啓示の観方を吹き込んだ。それによって貴殿は神の真理が一民族、一個人、一地方、一時代に限られるものでないことを理解することが出来た。人間が勝手に拵えたとは言え、いかなる宗教にも真理の芽が内臓されていることを示したのであった。
我々の指導は二つの平行線を辿ったのである。一つは物質的ないし物理的現象であり、我々が使用する隠れた霊力の目に見える証拠である。もう一つは我々が届けるメッセージの内容とその意義である。人間が肉体という物質に包まれている以上は、現象的証拠に関心が行き過ぎるのも止むを得ないことである。だからこそ我々は、それがあくまで副次的なもの-我々の本来の使命の証に過ぎないとの見解の理解を貴殿に要請してきたのである」
モーゼスの使命に備えての霊団側の指導過程が明かされた。(『霊訓』の二十二節でモーゼスは〝私の全生涯に亘る霊的使命に関する長文の通信が送られて来たのはその時だった。その内容に私は非常に驚いた〟と述べながら、プライベート過ぎるからという理由で公表していないが、これから引用される部分が多分それではないかと推察している-訳者)
「〝真理の太陽〟の一条の光が貴殿の魂に射し込んだ時、死せる者-と貴殿が思い込んでいた者-も生者の祈りによって救われること、永遠の煉獄は神学的創作、或いはそれ以上に愚かな戯言であることを悟った。神は、神を求める子等全てを等しく好意の目をもって見つめ給い、信仰と信条よりも正直さと誠実さの方を喜納されることを学んだ。
又貴殿は、神はバイブル以外のいずこにおいても、又他のいかなる形でも人間に語りかけておられること-ギリシャ人にもアラブ人にもエジプト人にもインド人にも、その他、全ての子等に等しく語りかけておられることを学んだ。神は信条よりも誠心誠意を喜納されることを学んだ。貴殿の心の中でプラトンの思想が芽を出し、その言葉が甦ったことがある。が、その時はまだ、神の言葉はプラトンを通じて啓示されても、或いはイエスを通じて啓示されても、その価値に変わりはないとの理解が出来ていなかった。
その後、貴殿は例の教父達(後注①)の教理や信仰が本質的にいかなるものであったかを学んだ。真相を理解し、それに背を向けた。初期の教会時代の神学を精神的に超えたのである。型にはまった神学に満足し、アタナシウス教義(後注②)の害毒に喜びさえ覚えていた段階から一段と向上したのである。不合理なもの、神人同形同性説的な幼稚なものを思い切って棄てた。
貴殿にしてみれば、自らの思索によってそうしたと言いたいところであろう。が、それは違うのである。我々が手引きしてその結論を固めさせたのである。やがて我々は、最早貴殿の知的並びに宗教的水準に合わなくなった教会での牧師としての職から身を引かせるのが賢明と判断した。初期の目的を果たした場所より身を引かせ、地上における使命の次の段階の為の準備へと歩を進めた。幾度かあった身体的病気も、それによって貴殿の気質を調節する効果を目的としたものであり、それは実は我々にとっては霊力のエンジンの調節であった。それによって貴殿の健全なるコントロールを維持して来たのである」
(注)①-キリスト教初期の教会において教理・戒律となる著作をした人達。
(注)②-初期の神学には神人同形同性説を唱えるアタナシウス派と、それを否定するアリウス派とがあり、325年のニケーア宗教会議で後者が異端とされた。
-私のこれまでの人生はその為の準備だったわけですか。
「その通りである。我々は唯一その目的の為に計画し導いて来たのである。何とかして十分な準備を整えた霊媒を確保したかったのである。まず精神が鍛えられていなければならない。それから知識を整えていなければならない。そして生活そのものが真理の受け皿として進歩的精神を培うに相応しいものでなければならなかった。
その挙句に貴殿は、ある時我々にとって最も接触し易い人物(スピーア夫人。《解説》参照)によってスピリチュアリズムへの関心を持つように手引きされた。その折の我々による働きかけは強烈であった。計画を積極的に進めて行った。それまでの教説より遙かに進んだ神の福音を直接的に教えて行った。
今貴殿が抱いている神の概念は、それまでのものに比べてどれ程真実に近いことであろう。漸く理解してくれた豊かなる神の愛は、どこかの一土地の一民族だけをひいきするような偏ったものではなく、宇宙と同じく無限にして無辺なのである。いかなる教理にも縛られることなく、人類は全てが兄弟関係で結ばれており、共通の神の子であり、その神はいつの時代にも必要に応じてご自身を啓示して来られているのである。
神人同形同性説が人間の無知の産物であること、神の言葉であると誠しやかに喧伝されているものが往々にして人間の勝手な現像に過ぎないこと、最高神が一個の人体に宿って降誕するなどという考えは人間の戯言であること、そのような迷信は知識が進化すれば、それに由来する教義、神を冒涜するような見解と共に棄て去られるものであるとの理解に到達した。
又自分以外に〝救い主〟は無用であること、自己と同胞と神に対する責務を忠実に遂行することこそ唯一の幸福への道であることを学んだ。そして今まさに貴殿は、現在の罪に対する死後の懲罰、進歩と善行の結果としての霊界での幸福と充足感について、我々霊団の者が教えるところの真理を理解しつつある。霊の訓えが貴殿にどれ程の影響を及ぼしたかを知りたければ、かつて抱いていた思想を吟味し、それを現在の考えと比較対照し、いかにして貴殿が暗黒より神の真理の驚異的光明へと導かれたかを見極めることである。
貴殿は、おぼろげながらも、人生が外部の力によって形作られるものであることを認識し、霊が想像以上に人間界に働きかけているのではないかと思っている。事実その通りなのである。人類全体が、ある意味で、霊界からの指導の受け皿なのである。とは言え、我々といえども原因と結果の連鎖関係に干渉することだけは出来ない。人間の犯した罪の生み出す結果から救ってあげるわけには行かない。愚かしい好奇心に迎合することもしない。試練の場としての地上を変えるわけには行かないのである。
又、全知なる神が、隠しておくのが賢明と考えられたが故に謎とされているものを、我々が勝手に教えるわけにも行かない。知識を押し付けることも出来ない。提供することしか許されないのである。これを喜んで受け入れる者を保護し、導き、鍛え、将来の進歩の為に備えさせることのみ許されるのである。
我々の使命については既に述べた。それは、実は、人間と神との交わりの復活に過ぎない。かつての地上の精神的指導者が今尚霊界において人類の指導に心を砕いており、この度貴殿を監視し守護し指導して来たのも、貴殿がそうした指導者のメッセージを受け入れ、それを広く人類一般に伝えてくれること、一重にそれを目標としてのことであった。貴殿をその仕事に相応しい人物とすることが、これまでの我々の仕事であった。これからは神の福音を受け取り、機が熟せばそれを世界の人々へ伝えることが次の仕事となろう」
-では、これは宗教的活動なのでしょうか。
「まさにその通りである。我々が人間にとって是非とも必要な福音を説きに来た〝神の真理の伝道者〟であることを、ここに改めて主張する。その使命にとって大切なこと以外は、我々は何の関心もない。その点によく留意して欲しい。さし当たって我々は貴殿が個人的な知友との交霊の為の霊媒とされようとしている傾向を阻止する。その種のことを身を晒すのは危険この上ない。霊覚の発達した者は、地上の者と交信したがっている無数の霊に取り憑かれ易いことを貴殿は忘れている。感受性が発達する程地上近くをうろつく低級霊に憑依される危険性も増える。実に恐ろしいことであり、貴殿をそういう危険に晒すわけには行かない。低級霊のすることは貴殿も既に知っている筈である。その種の行為に貴殿は実に過敏である。そうなった時は最早我々も手出しが出来ぬかも知れない」
「交霊会は霊の目には光の中枢として映るもので、遙か遠方からでも見え、地上の縁者と語りたがっている無数の霊が寄り集まって来る。その中には物質を操る能力においては強力なのがいる。事実その点においては高級霊よりは上手なのである。霊は進化する程物的エネルギーが扱えなくなり、精神的感応力に訴えて知的な指導と指揮に当たることになる」
「出席者の側に霊性が欠けている交霊会に群がる霊が死後一向に進化しない低級霊であることは、紛れもない事実である。所謂地縛霊であり、列席者が醸し出す雰囲気に誘われて訪れ、他愛もないことを述べて戸惑わせたり混乱させたりして面白がり、或いは悪徳や罪悪へ誘い込もうとする。
そもそも霊的交信なるものは何の為に行なうのか、その存在意義を明確に弁え、それが今いかに堕落した目的の為に行なわれつつあるかを、よく考えてみることである。何の警戒態勢もないまま行なわれる交霊会に集まる霊に操られ始めたら最後、遅かれ早かれ列席者も同じレベルまで引き下げられてしまう。つまり精神的に、道徳的に、そして肉体的に、堕落の一途を辿ることになる。今の貴殿はあたかも伝染病の隔離病棟に入りながら病原菌だけは移されまいと期待するのにも似ている。いつの日がきっと大それたことをしたことを思い知らされることであろう。
以前から吸血鬼が貴殿を狙っている(後注)。更に今は吐き気を催すような悪霊が付き纏っている。それは是非共払い除けねばならない。それは余程骨の折れることであろうが、もしそれが出来なければ、いつかはその餌食になるかもしれない」
(注)-〝吸血鬼〟という種族が実在するわけではない。〝悪魔〟が、そう呼びたくなる程邪悪な性質を持つに至った存在という意味であるのと同じで、これも用語上の問題である。スカルソープの『私の霊界紀行』(潮文社)に次のような体験が紹介されている。
「ある時いよいよ離脱の状態に入り、間違いなく離脱しているのであるが、どこかしら不安が付き纏い、霊界へ行かずに寝室の中を漂っていた。やがて階下の店へ下り、カウンターの後ろに立った。なぜか辺りの波長が低く陰気で、全体が薄ボンヤリとした感じがする。かつてそのような雰囲気を体験したことがなかったのて、もしかして離脱の手順を間違えたのかと思っていた。
すると突然、邪悪で復讐心に満ちた念に襲われたような気がした。その実感は霊的身体をもって感じるしかない種類のもので、言葉ではとても表現出来ない。とにかく胸の悪くなるような、そして神経が麻痺しそうな感じがした。その念が襲って来る方角を察して目をやると、二十ヤード程離れた所に毒々しい煤けたオレンジ色の明りが見えた。その輝きの中に、ニタニタ笑っている霊、憎しみを顔一杯に表している霊が見える。そして、自分達の存在が気付かれたと知ると、咄嗟に思念活動を転換した。
すると代わって私の目に入ったのは骸骨、朽ち果てた人骨、墓地などが幽霊や食屍鬼(しょくしき)、吸血鬼、その他地上的無知とフィクションの産物と入り乱れている光景だった。
(中略)
愚かしい概念も、何世紀にも亘って受け継がれてくると、各国の人民の精神に深く刻み込まれていく。未知なるものへの恐怖心もその影響の一つである。暗黒を好み、地上の適当な場所を選んで、そうした低級霊がたむろし、潜在的な心霊能力でもって地上の人間に影響を及ぼす。彼等が集団を形成した時の思念は実に強烈で、幽霊話に出て来るあらゆる効果を演出することが出来る。未知なるものへの恐怖心も手伝って、そうした現象は血も凍るような恐怖心を起させる」
貴殿がそろそろ現象的なものから手を引いて霊的なより高度なものに発展させようと考えていることを、我々は嬉しく思っている。既に述べたように、成長過程の一つとして、我々も一時的に貴殿を物的現象の為に利用されるのを許さざるを得なかった。その段階をストップさせてもよい時機を見計らって、我々は今度は貴殿の存在そのものである霊の本質について学ばせる為に、他の霊との接触を許したのである」
(注)-《解説》で概略が述べられていることであるが、モーゼスは当初は霊の存在に懐疑的だったが、多くの交霊会に出席する内に次第に信じるようになり、その内自分の身辺でも各種の心霊現象が発生するようになって、漸く確信を得るに至った。その間もずっと自動書記は続けられていたのであるが、背後霊団の身元について確信を得たのは、自動書記を綴ったノートが十四冊になった頃からだという(全部で二十四冊)。〝他の霊との接触を許した〟というのは、それまでプライベートな身近な話題ばかりだったのが、今度は霊団の中でも高級な霊が入れ代わり立ち代り名乗って出て高等な内容の通信を送り始めたことを言っている。
「我々の教えの中に新たな要素が見られるようになったことに貴殿も気付いている。これまで貴殿を取り巻いていたドグマの垣根が少しずつ取り壊され、かつては理解出来なかった真理が把握出来るようになった。神聖であると思い込んでいたものの多くを捨て去ることが出来るようになった。かつては不可解な謎とされていたものについて考究するようになってくれた。
我々は貴殿の教育をまず物的レベルから始めた。物質に勝る霊の威力を見せつけ、貴殿を通じて見えざる知的存在が働いているその証拠を見せることが出来た。その初期の段階では物理的現象で十分であった。が、その後我々は徐々に我々自身の身元について語り、貴殿の精神に新たな啓示の観方を吹き込んだ。それによって貴殿は神の真理が一民族、一個人、一地方、一時代に限られるものでないことを理解することが出来た。人間が勝手に拵えたとは言え、いかなる宗教にも真理の芽が内臓されていることを示したのであった。
我々の指導は二つの平行線を辿ったのである。一つは物質的ないし物理的現象であり、我々が使用する隠れた霊力の目に見える証拠である。もう一つは我々が届けるメッセージの内容とその意義である。人間が肉体という物質に包まれている以上は、現象的証拠に関心が行き過ぎるのも止むを得ないことである。だからこそ我々は、それがあくまで副次的なもの-我々の本来の使命の証に過ぎないとの見解の理解を貴殿に要請してきたのである」
モーゼスの使命に備えての霊団側の指導過程が明かされた。(『霊訓』の二十二節でモーゼスは〝私の全生涯に亘る霊的使命に関する長文の通信が送られて来たのはその時だった。その内容に私は非常に驚いた〟と述べながら、プライベート過ぎるからという理由で公表していないが、これから引用される部分が多分それではないかと推察している-訳者)
「〝真理の太陽〟の一条の光が貴殿の魂に射し込んだ時、死せる者-と貴殿が思い込んでいた者-も生者の祈りによって救われること、永遠の煉獄は神学的創作、或いはそれ以上に愚かな戯言であることを悟った。神は、神を求める子等全てを等しく好意の目をもって見つめ給い、信仰と信条よりも正直さと誠実さの方を喜納されることを学んだ。
又貴殿は、神はバイブル以外のいずこにおいても、又他のいかなる形でも人間に語りかけておられること-ギリシャ人にもアラブ人にもエジプト人にもインド人にも、その他、全ての子等に等しく語りかけておられることを学んだ。神は信条よりも誠心誠意を喜納されることを学んだ。貴殿の心の中でプラトンの思想が芽を出し、その言葉が甦ったことがある。が、その時はまだ、神の言葉はプラトンを通じて啓示されても、或いはイエスを通じて啓示されても、その価値に変わりはないとの理解が出来ていなかった。
その後、貴殿は例の教父達(後注①)の教理や信仰が本質的にいかなるものであったかを学んだ。真相を理解し、それに背を向けた。初期の教会時代の神学を精神的に超えたのである。型にはまった神学に満足し、アタナシウス教義(後注②)の害毒に喜びさえ覚えていた段階から一段と向上したのである。不合理なもの、神人同形同性説的な幼稚なものを思い切って棄てた。
貴殿にしてみれば、自らの思索によってそうしたと言いたいところであろう。が、それは違うのである。我々が手引きしてその結論を固めさせたのである。やがて我々は、最早貴殿の知的並びに宗教的水準に合わなくなった教会での牧師としての職から身を引かせるのが賢明と判断した。初期の目的を果たした場所より身を引かせ、地上における使命の次の段階の為の準備へと歩を進めた。幾度かあった身体的病気も、それによって貴殿の気質を調節する効果を目的としたものであり、それは実は我々にとっては霊力のエンジンの調節であった。それによって貴殿の健全なるコントロールを維持して来たのである」
(注)①-キリスト教初期の教会において教理・戒律となる著作をした人達。
(注)②-初期の神学には神人同形同性説を唱えるアタナシウス派と、それを否定するアリウス派とがあり、325年のニケーア宗教会議で後者が異端とされた。
-私のこれまでの人生はその為の準備だったわけですか。
「その通りである。我々は唯一その目的の為に計画し導いて来たのである。何とかして十分な準備を整えた霊媒を確保したかったのである。まず精神が鍛えられていなければならない。それから知識を整えていなければならない。そして生活そのものが真理の受け皿として進歩的精神を培うに相応しいものでなければならなかった。
その挙句に貴殿は、ある時我々にとって最も接触し易い人物(スピーア夫人。《解説》参照)によってスピリチュアリズムへの関心を持つように手引きされた。その折の我々による働きかけは強烈であった。計画を積極的に進めて行った。それまでの教説より遙かに進んだ神の福音を直接的に教えて行った。
今貴殿が抱いている神の概念は、それまでのものに比べてどれ程真実に近いことであろう。漸く理解してくれた豊かなる神の愛は、どこかの一土地の一民族だけをひいきするような偏ったものではなく、宇宙と同じく無限にして無辺なのである。いかなる教理にも縛られることなく、人類は全てが兄弟関係で結ばれており、共通の神の子であり、その神はいつの時代にも必要に応じてご自身を啓示して来られているのである。
神人同形同性説が人間の無知の産物であること、神の言葉であると誠しやかに喧伝されているものが往々にして人間の勝手な現像に過ぎないこと、最高神が一個の人体に宿って降誕するなどという考えは人間の戯言であること、そのような迷信は知識が進化すれば、それに由来する教義、神を冒涜するような見解と共に棄て去られるものであるとの理解に到達した。
又自分以外に〝救い主〟は無用であること、自己と同胞と神に対する責務を忠実に遂行することこそ唯一の幸福への道であることを学んだ。そして今まさに貴殿は、現在の罪に対する死後の懲罰、進歩と善行の結果としての霊界での幸福と充足感について、我々霊団の者が教えるところの真理を理解しつつある。霊の訓えが貴殿にどれ程の影響を及ぼしたかを知りたければ、かつて抱いていた思想を吟味し、それを現在の考えと比較対照し、いかにして貴殿が暗黒より神の真理の驚異的光明へと導かれたかを見極めることである。
貴殿は、おぼろげながらも、人生が外部の力によって形作られるものであることを認識し、霊が想像以上に人間界に働きかけているのではないかと思っている。事実その通りなのである。人類全体が、ある意味で、霊界からの指導の受け皿なのである。とは言え、我々といえども原因と結果の連鎖関係に干渉することだけは出来ない。人間の犯した罪の生み出す結果から救ってあげるわけには行かない。愚かしい好奇心に迎合することもしない。試練の場としての地上を変えるわけには行かないのである。
又、全知なる神が、隠しておくのが賢明と考えられたが故に謎とされているものを、我々が勝手に教えるわけにも行かない。知識を押し付けることも出来ない。提供することしか許されないのである。これを喜んで受け入れる者を保護し、導き、鍛え、将来の進歩の為に備えさせることのみ許されるのである。
我々の使命については既に述べた。それは、実は、人間と神との交わりの復活に過ぎない。かつての地上の精神的指導者が今尚霊界において人類の指導に心を砕いており、この度貴殿を監視し守護し指導して来たのも、貴殿がそうした指導者のメッセージを受け入れ、それを広く人類一般に伝えてくれること、一重にそれを目標としてのことであった。貴殿をその仕事に相応しい人物とすることが、これまでの我々の仕事であった。これからは神の福音を受け取り、機が熟せばそれを世界の人々へ伝えることが次の仕事となろう」
-では、これは宗教的活動なのでしょうか。
「まさにその通りである。我々が人間にとって是非とも必要な福音を説きに来た〝神の真理の伝道者〟であることを、ここに改めて主張する。その使命にとって大切なこと以外は、我々は何の関心もない。その点によく留意して欲しい。さし当たって我々は貴殿が個人的な知友との交霊の為の霊媒とされようとしている傾向を阻止する。その種のことを身を晒すのは危険この上ない。霊覚の発達した者は、地上の者と交信したがっている無数の霊に取り憑かれ易いことを貴殿は忘れている。感受性が発達する程地上近くをうろつく低級霊に憑依される危険性も増える。実に恐ろしいことであり、貴殿をそういう危険に晒すわけには行かない。低級霊のすることは貴殿も既に知っている筈である。その種の行為に貴殿は実に過敏である。そうなった時は最早我々も手出しが出来ぬかも知れない」
「交霊会は霊の目には光の中枢として映るもので、遙か遠方からでも見え、地上の縁者と語りたがっている無数の霊が寄り集まって来る。その中には物質を操る能力においては強力なのがいる。事実その点においては高級霊よりは上手なのである。霊は進化する程物的エネルギーが扱えなくなり、精神的感応力に訴えて知的な指導と指揮に当たることになる」
「出席者の側に霊性が欠けている交霊会に群がる霊が死後一向に進化しない低級霊であることは、紛れもない事実である。所謂地縛霊であり、列席者が醸し出す雰囲気に誘われて訪れ、他愛もないことを述べて戸惑わせたり混乱させたりして面白がり、或いは悪徳や罪悪へ誘い込もうとする。
そもそも霊的交信なるものは何の為に行なうのか、その存在意義を明確に弁え、それが今いかに堕落した目的の為に行なわれつつあるかを、よく考えてみることである。何の警戒態勢もないまま行なわれる交霊会に集まる霊に操られ始めたら最後、遅かれ早かれ列席者も同じレベルまで引き下げられてしまう。つまり精神的に、道徳的に、そして肉体的に、堕落の一途を辿ることになる。今の貴殿はあたかも伝染病の隔離病棟に入りながら病原菌だけは移されまいと期待するのにも似ている。いつの日がきっと大それたことをしたことを思い知らされることであろう。
以前から吸血鬼が貴殿を狙っている(後注)。更に今は吐き気を催すような悪霊が付き纏っている。それは是非共払い除けねばならない。それは余程骨の折れることであろうが、もしそれが出来なければ、いつかはその餌食になるかもしれない」
(注)-〝吸血鬼〟という種族が実在するわけではない。〝悪魔〟が、そう呼びたくなる程邪悪な性質を持つに至った存在という意味であるのと同じで、これも用語上の問題である。スカルソープの『私の霊界紀行』(潮文社)に次のような体験が紹介されている。
「ある時いよいよ離脱の状態に入り、間違いなく離脱しているのであるが、どこかしら不安が付き纏い、霊界へ行かずに寝室の中を漂っていた。やがて階下の店へ下り、カウンターの後ろに立った。なぜか辺りの波長が低く陰気で、全体が薄ボンヤリとした感じがする。かつてそのような雰囲気を体験したことがなかったのて、もしかして離脱の手順を間違えたのかと思っていた。
すると突然、邪悪で復讐心に満ちた念に襲われたような気がした。その実感は霊的身体をもって感じるしかない種類のもので、言葉ではとても表現出来ない。とにかく胸の悪くなるような、そして神経が麻痺しそうな感じがした。その念が襲って来る方角を察して目をやると、二十ヤード程離れた所に毒々しい煤けたオレンジ色の明りが見えた。その輝きの中に、ニタニタ笑っている霊、憎しみを顔一杯に表している霊が見える。そして、自分達の存在が気付かれたと知ると、咄嗟に思念活動を転換した。
すると代わって私の目に入ったのは骸骨、朽ち果てた人骨、墓地などが幽霊や食屍鬼(しょくしき)、吸血鬼、その他地上的無知とフィクションの産物と入り乱れている光景だった。
(中略)
愚かしい概念も、何世紀にも亘って受け継がれてくると、各国の人民の精神に深く刻み込まれていく。未知なるものへの恐怖心もその影響の一つである。暗黒を好み、地上の適当な場所を選んで、そうした低級霊がたむろし、潜在的な心霊能力でもって地上の人間に影響を及ぼす。彼等が集団を形成した時の思念は実に強烈で、幽霊話に出て来るあらゆる効果を演出することが出来る。未知なるものへの恐怖心も手伝って、そうした現象は血も凍るような恐怖心を起させる」