霊と物質について-
「霊こそ実在である。物質はその霊の数ある現象形態の一つに過ぎない。人間は霊というものを極めて実体の乏しい、蒸気のような無形の存在と考えている。〝モヤ〟がそれを一番よく象徴していよう。が、霊は実体も形状もある実在なのである。従って霊界は実在の世界であり、実体があり、それが物質の内側にも外側にも存在している。その霊の形態も様々であり、蒸気のような無形のものから密度の高いものまである。
霊界は地球全体にくまなく広がっており、全存在に生命を吹き込み、動物・植物・野菜に至るまで存在を与えている。人間が実体があるかに思っているものも、その霊という実在の影に過ぎない。霊とは生命であり、実在であり、永遠不滅の根源的要素なのである。
この霊が人間に宿っているように、全ての物質に宿って生命を賦与している。天体をそれぞれの位置を保たせ軌道上を回転させているエネルギーも全て霊的なものである。光といい、熱といい、磁気といい、電気というも、たった一つの霊的エネルギーの外皮にすぎない。その全てに霊が内在しているのである。物的成分そのものには形態を整える力はない。物質の根源的特質の一つは惰性(自らは活動しないという性質)である。石切場の大理石の中から人間の形体をした彫像が一人で転がり出て来ることはあるまい。
まず霊による働きかけがあって物質が動くのである。法則というものも、このエネルギーの表現にすぎない。宇宙のいずこを見ても、大は天空を回転する天体から小はシダの植物に至るまで、霊の存在の証しでないものはない。それが全てを動かしており、霊妙な科学的過程によって露、雨、空気、光等々から甘美な分泌液と芳香とを放散させ、かくして自然界を美しく飾っている-それを人間は慣れ切っていて不思議と思わぬだけである。
〝自然〟とは何か、どういう仕組みになっているのか、人間は何も知らずにいる。人間は勝手なものを想像し、それを〝自然〟と呼び、一定の作用を幾つか発見してそれを〝定理〟と呼び、それで事足れりとしている。が、裏を返せば、それは人間の無知の証明に外ならない。
自然とは霊であり、自然法則も霊的である。あらゆる物的形態は-植物も動物も鉱物も-霊を宿す仮面である。人間も本来が霊であり、霊的なものが肉体を支えているのである。激しい新陳代謝を繰り返す細胞の固まりも、霊によって組成を保ち活力を与えられている。霊が引っ込めば腐敗の一途を辿り、他の組成へと変わって行く。霊こそ人間であり、逆の言い方をすれば、人間は霊であるからこそ自然界の全創造物に君臨出来るのである。人間は他の創造物が所有していない霊的資質を賦与されているが故に、最も進化しているのである」
-全てが一丸となって秩序ある発達過程を辿りつつあるように思えます。
「無論である!地球上の物質は、最も単純な組織である結晶から人間に至るまでの、無数の段階を辿っている。岩石や土から植物が成育する。つまり植物的生命が鉱物と入れ代わる。それに感性が加わり神経組織が与えられて、別の高等な有機的生命が生まれ、植虫類(イソギンチャク・サンゴ類)から人間へと進化してきた。一段又一段と進化し、その創造活動の頂点が人間である。人間は神性を宿しているが故に、程度においても質においても、他の創造物とは異なる存在である」
「霊体こそ真の個体である。地上という一時期を、刻々と変化する物的原子を纏って生活するが、それが不要となった時にも霊体のアイデンティティは絶対に不変である。
我々の目には霊体は鮮明で何の誤魔化しも利かない。我々の視野も行動も地上に存在する物体によって妨げられることはない。人間にとって固いと思えるものも、我々にとってはスケスケである。地上という一時期を霊体が纏う物的原子は個的存在の本質的要素ではない。地上期間においてすら永続性はなく刻一刻と変化しているが、人間にはそれが知覚出来ない。我々の視覚は別である。地上的存在特有の物的原子は何の障害にもならない。我々に見えるのは霊体である」
-霊体は肉体から分離して別個の生活を送ることがあるのでしょうか。例えば睡眠中などに・・・・
「それはある。霊体は独立した存在である。そして肉体が滅びると異なった環境条件の下で生活することになる。一般的に言えば、肉体の睡眠中は霊体も休息しているが、眠るということはしない。その間の体験を肉体に戻った時に回想しようとして、それが上手く行かなくて混乱したものが夢である。霊には霊体で見たもの全てが回想出来ず、精神に印象付けられたものが五感による印象(潜在意識)とごっちゃになり、そこに辻褄の合わない夢が出来上がる。
その夢の中には霊界での体験を正確に思い出しているものもあるし、予告や警告である場合もある。肉体に宿っている間は霊感が鈍るので、守護霊が睡眠中を利用して警告を与えることがあるのである。霊体に語りかけておいて、それが肉体に戻った時に(潜在意識の)他の印象と混同せぬよう保護し、その記憶は鮮明に保つ。こうした場合は正確に思い出せるし、実際によくあることである。が、普通はおぼろげにしか思い出さないものである。
珍しいケースとして、霊体が特殊な才能を与えられ、高級界へ案内されて未来の住処を見せてもらったり、使命を知らされたりすることがある。深遠な叡智を吸飲して地上へ持ち帰ることもある」
(注)-この項で述べていることは三次元の脳を焦点とした意識と、時空を超越した所謂異次元世界での霊的意識との関連性に言及した重大なもので、死後存続の事実の得心は煎じ詰めればその関連性の理解に尽きると言ってよい。コペルニクスが地動説を思いついたきっかけは、自分の位置を頭の中で太陽へ持って行き、そこから地球を眺めたことにあるという。死後存続も自分を霊の世界へ持って行き、人間は本来が霊的存在であって、それが一時的に物的原子を纏っているに過ぎないと考えれば、あっさりと片付く。オリバー・ロッジの『幻の壁』の中に次のような一節がある。〝我々はよく肉体の死後も生き続けるのだろうかという疑問を抱く。(中略)私に言わせればこうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問に過ぎない。と言うのは、こうして物質を纏ってこの世にいること事態が驚異なのである。これは実に特殊な現象というべきである。私はよく、死は冒険であるが楽しく待ち望むべき冒険である、と言って来た。そうに違いないのであるが、実は真に冒険というべきはこの地上生活の方なのである。地上生活というのは実に奇妙で珍しい現象である。こうして肉体を纏って地上へ出て来たこと自体が奇跡なのだ。失敗する者がいくらもいるのである〟
インペレーターは幽体離脱という用語を用いていないが、それは当時まだ心霊学がそこまで発達していなかったということである。末尾で〝珍しいケースとして〟と述べているが、将来はこれが人類にとって〝ごく当たり前のこと〟となる時代が来るに違いない。
「霊こそ実在である。物質はその霊の数ある現象形態の一つに過ぎない。人間は霊というものを極めて実体の乏しい、蒸気のような無形の存在と考えている。〝モヤ〟がそれを一番よく象徴していよう。が、霊は実体も形状もある実在なのである。従って霊界は実在の世界であり、実体があり、それが物質の内側にも外側にも存在している。その霊の形態も様々であり、蒸気のような無形のものから密度の高いものまである。
霊界は地球全体にくまなく広がっており、全存在に生命を吹き込み、動物・植物・野菜に至るまで存在を与えている。人間が実体があるかに思っているものも、その霊という実在の影に過ぎない。霊とは生命であり、実在であり、永遠不滅の根源的要素なのである。
この霊が人間に宿っているように、全ての物質に宿って生命を賦与している。天体をそれぞれの位置を保たせ軌道上を回転させているエネルギーも全て霊的なものである。光といい、熱といい、磁気といい、電気というも、たった一つの霊的エネルギーの外皮にすぎない。その全てに霊が内在しているのである。物的成分そのものには形態を整える力はない。物質の根源的特質の一つは惰性(自らは活動しないという性質)である。石切場の大理石の中から人間の形体をした彫像が一人で転がり出て来ることはあるまい。
まず霊による働きかけがあって物質が動くのである。法則というものも、このエネルギーの表現にすぎない。宇宙のいずこを見ても、大は天空を回転する天体から小はシダの植物に至るまで、霊の存在の証しでないものはない。それが全てを動かしており、霊妙な科学的過程によって露、雨、空気、光等々から甘美な分泌液と芳香とを放散させ、かくして自然界を美しく飾っている-それを人間は慣れ切っていて不思議と思わぬだけである。
〝自然〟とは何か、どういう仕組みになっているのか、人間は何も知らずにいる。人間は勝手なものを想像し、それを〝自然〟と呼び、一定の作用を幾つか発見してそれを〝定理〟と呼び、それで事足れりとしている。が、裏を返せば、それは人間の無知の証明に外ならない。
自然とは霊であり、自然法則も霊的である。あらゆる物的形態は-植物も動物も鉱物も-霊を宿す仮面である。人間も本来が霊であり、霊的なものが肉体を支えているのである。激しい新陳代謝を繰り返す細胞の固まりも、霊によって組成を保ち活力を与えられている。霊が引っ込めば腐敗の一途を辿り、他の組成へと変わって行く。霊こそ人間であり、逆の言い方をすれば、人間は霊であるからこそ自然界の全創造物に君臨出来るのである。人間は他の創造物が所有していない霊的資質を賦与されているが故に、最も進化しているのである」
-全てが一丸となって秩序ある発達過程を辿りつつあるように思えます。
「無論である!地球上の物質は、最も単純な組織である結晶から人間に至るまでの、無数の段階を辿っている。岩石や土から植物が成育する。つまり植物的生命が鉱物と入れ代わる。それに感性が加わり神経組織が与えられて、別の高等な有機的生命が生まれ、植虫類(イソギンチャク・サンゴ類)から人間へと進化してきた。一段又一段と進化し、その創造活動の頂点が人間である。人間は神性を宿しているが故に、程度においても質においても、他の創造物とは異なる存在である」
「霊体こそ真の個体である。地上という一時期を、刻々と変化する物的原子を纏って生活するが、それが不要となった時にも霊体のアイデンティティは絶対に不変である。
我々の目には霊体は鮮明で何の誤魔化しも利かない。我々の視野も行動も地上に存在する物体によって妨げられることはない。人間にとって固いと思えるものも、我々にとってはスケスケである。地上という一時期を霊体が纏う物的原子は個的存在の本質的要素ではない。地上期間においてすら永続性はなく刻一刻と変化しているが、人間にはそれが知覚出来ない。我々の視覚は別である。地上的存在特有の物的原子は何の障害にもならない。我々に見えるのは霊体である」
-霊体は肉体から分離して別個の生活を送ることがあるのでしょうか。例えば睡眠中などに・・・・
「それはある。霊体は独立した存在である。そして肉体が滅びると異なった環境条件の下で生活することになる。一般的に言えば、肉体の睡眠中は霊体も休息しているが、眠るということはしない。その間の体験を肉体に戻った時に回想しようとして、それが上手く行かなくて混乱したものが夢である。霊には霊体で見たもの全てが回想出来ず、精神に印象付けられたものが五感による印象(潜在意識)とごっちゃになり、そこに辻褄の合わない夢が出来上がる。
その夢の中には霊界での体験を正確に思い出しているものもあるし、予告や警告である場合もある。肉体に宿っている間は霊感が鈍るので、守護霊が睡眠中を利用して警告を与えることがあるのである。霊体に語りかけておいて、それが肉体に戻った時に(潜在意識の)他の印象と混同せぬよう保護し、その記憶は鮮明に保つ。こうした場合は正確に思い出せるし、実際によくあることである。が、普通はおぼろげにしか思い出さないものである。
珍しいケースとして、霊体が特殊な才能を与えられ、高級界へ案内されて未来の住処を見せてもらったり、使命を知らされたりすることがある。深遠な叡智を吸飲して地上へ持ち帰ることもある」
(注)-この項で述べていることは三次元の脳を焦点とした意識と、時空を超越した所謂異次元世界での霊的意識との関連性に言及した重大なもので、死後存続の事実の得心は煎じ詰めればその関連性の理解に尽きると言ってよい。コペルニクスが地動説を思いついたきっかけは、自分の位置を頭の中で太陽へ持って行き、そこから地球を眺めたことにあるという。死後存続も自分を霊の世界へ持って行き、人間は本来が霊的存在であって、それが一時的に物的原子を纏っているに過ぎないと考えれば、あっさりと片付く。オリバー・ロッジの『幻の壁』の中に次のような一節がある。〝我々はよく肉体の死後も生き続けるのだろうかという疑問を抱く。(中略)私に言わせればこうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問に過ぎない。と言うのは、こうして物質を纏ってこの世にいること事態が驚異なのである。これは実に特殊な現象というべきである。私はよく、死は冒険であるが楽しく待ち望むべき冒険である、と言って来た。そうに違いないのであるが、実は真に冒険というべきはこの地上生活の方なのである。地上生活というのは実に奇妙で珍しい現象である。こうして肉体を纏って地上へ出て来たこと自体が奇跡なのだ。失敗する者がいくらもいるのである〟
インペレーターは幽体離脱という用語を用いていないが、それは当時まだ心霊学がそこまで発達していなかったということである。末尾で〝珍しいケースとして〟と述べているが、将来はこれが人類にとって〝ごく当たり前のこと〟となる時代が来るに違いない。