自殺ダメ
1889年8月号のライト誌から-
「本誌で『霊訓』を公表し始めてからというもの、私は無意識の自我の存在をさんざん聞かされ、私自身が気が付かなくともその潜在自我のどこか奥深いところに隠されているかもしれない可能性について、多くの考察をお聞かせ頂いている。が、私が受け取っている一連の通信がそういう曖昧な説によって説明出来るとするか、それとも、もっと単純にそして自然に、つまり私を教化しようとしている知的存在が主張している通りであるとするかは、読者にお任せする外はない。そうした存在は自分達のことを霊と呼び、私の生命と意識とは別個の存在であるとしている。私もそのように受け止めている。
通信文は間違いなく私の意識とは何の関係もなしに綴られている。その多くは、綴られていくのをこの目で見ないように異常なまでの注意をしている中で筆記されたものである」
次も同じライト誌に掲載されたもので、日常生活における異常体験をある知人にこう書き送っている。
「私自身には何の記憶もないことをしていたり、特に、言った記憶がないのに間違いなく言っていることがよくあります。例えば、翌日の講話の準備をしないまま床につきます。翌朝目を覚ましていつものように行動し、いつもより流暢な講話をし、すべきことをきちんと済ませ、知人と談話まで交わしたのに、その記憶が全くないということがあるのです。特別に親しい人だけが、目のうつろさから私が入神していることを察知しているだけです。講話を聞いてくださった人のノートを見るとその内容が実に緻密で正確で明快なのです。
知人達は私が何となくボケッとしていたとか、ぶっきらぼうだったとか、言葉がぞんざいだったという程度には感じていても、他は普段と少しも変わらなかったと言います。私自身は意識が戻った時には何の記憶もありません。もっとも、時折何となく思い出すことはあります。
こうした体験から私は、人間は完全に〝パイプ役〟になり切ることが出来ること、つまり霊の道具に過ぎないことを実感として理解し始めているところです。それにしても、一見したところごく普通に行動している人間が実は霊界の知的存在の道具になっていて、固定存在を持たないということが有りうるものなのでしょうか。もしかしたら私の霊は遠くに行っていて、別個の霊的生活を送りながら、私の肉体の方は他の知的存在に憑依されて別の行動をしているということなのでしょうか。
例えば最近のことですが、ワイト島にいる間に内部の霊的能力が目を覚まし、外部の肉体的感覚が一切失われてしまいました。私は一日と一晩、ずっと別の世界にいて、物的環境はおぼろげにしか意識しませんでした。知人も家も部屋も景色も見えることは見えるのですが、おぼろげなのです。身体の方はいつものように行動しているのですが、私の意識には霊的環境や他界した友人、或いは全く面識のない霊の姿の方が遙かに鮮明に感識されるのです。辺りに見える光景も地上の景色より鮮明に見えました。もっとも、どことなく両者が重複して見えることがありました。その間私は話す気になれず、そうした環境の中に居てただ見つめるだけで満足しておりました」
同じくライト誌に珍しい心霊写真の話が出ている。
モーゼスのもとにあるフランス人から一通の手紙が届き、米国にいる妹とその家族の心霊写真が睡眠中にパリで撮れたと述べてあった。妹の家族の写真を撮りたいと心の中で念じたところ、一枚の乾板には三人の娘と一緒に、もう一枚には二人の息子と一緒に写っていたというのである。
これにヒントを得て、モーゼスはパリの友人に日曜日の朝十一時に写真を撮ってもらうように依頼し、その写真に自分も霊として写るようにしてみることにした。当日の朝、教会の鐘の音を聞いた頃に無意識状態に入り、気が付いたら十一時四十七分だった。実験は成功で、モーゼスの顔が睡眠中と同じように目を閉じたまま写っていた。同じ乾板に霊団の一人でプルーデンスと名乗る霊(地上では紀元三世紀の哲学者だったプロティノス)も写っていた。
その後の交霊会でインペレーターは、モーゼスを慎重に入神させ、複数の背後霊がロンドンからパリまで運んだと語った。霊体と肉体とを繋いでいるコードもそれだけ延びていたとのことだった。
スピリチュアリズムの意義について-
「スピリチュアリズムは霊界の存在と霊との交信の可能性という二つの事実以外にも実に多くのことを教えている。間違いなく言えることとして私が付け加えたいのは、人間の運命の決定者は自分自身であり、自分の性格も自分が形成し、将来の住処(死後に落ち着く環境)を地上で築きつつあるということである。道徳的向上心を鼓舞するものとしてこれ程素晴らしいものはないし、それをスピリチュアリズムほど強烈に所有している宗教思想を私は他に知らない。
人間は地上生活で築いた人間性そのままを携えて死後の生活を開始すること、他界した肉親・友人・知人は今尚自分を愛し、見守ってくれていること、罪悪も過ちも必ず自分で償わねばならないこと、いかに都合のよい教義をでっち上げても無罪放免とはならないこと-以上のことを立証し、更に又多くのことを立証して行けば、スピリチュアリズムは現代に対して計り知れない宗教的影響力の根源を秘めていることになる」
日常生活の大切さについて-
「人間は日常生活での行為と習慣によって刻一刻と魂を築いている。それが霊的本性であり、現段階でこそ幼稚で不完全であるが、永遠に不滅であり、未来永劫に進化する可能性を秘めている。それが真実の自分であり、永遠の存在である。死後の状態の責任は全て、根源的に、そして何よりもまず、自分自身にある。自分の運命の決定者は自分であり、自分が自分の将来の開拓者であり、自分の人生の最後の裁き人も自分である。
こうした教えが説教壇から聞かされることが少な過ぎる。が、その重要性は実に遠大である。これを知ることは全ての人間にとって極めて重要である。道徳と宗教の全分野において、その影響力は計り知れないものがある」
霊的知識の普及を祝して-
「霊界からの霊的真理普及の為の働きかけがいよいよ頻繁となってきたことは慶賀に堪えない。このことは見えざる指導者達が、思いもよらない様々な方面で、通信を地上へ送る為の通路を求めているとの確信を与えてくれる。真理の全てが一人の霊媒のみを通じてもたらされることは有り得ない。無数の側面をもつ真理がたった一個の精神で理解出来るわけがない。そうした様々なチャンネルを通じてもたらされる真理になるべく多く耳を傾ける者が一番多くを得ることになる。もう全てを知り尽くしたと思う者が実は一番真理を学んでいない。
〝真理の太陽〟の光が千々に砕けて我々の周囲に輝いている。それを拾い集めて一つの思想的体系を整えるべき機が熟している。今殆ど世界各地であらゆる観点から、その体系作りの為の作業が進行中である。
私がこの思想の将来に希望を託し、かつ信頼を抱いているのは、これからの宗教は今盛んに心霊学者やスピリチュアリストによって立証されつつある科学的知識の上に基礎を置くべきであり、いずれは科学と宗教とが手を繋ぐことになると信じるからに外ならないのである」
(注)-原典にはこの外に各種のテーマについてのモーゼスの意見が掲載されているが、その全てが、当然のことながら、インペレーターその他による通信の内容と同じなので割愛することにした。
1889年8月号のライト誌から-
「本誌で『霊訓』を公表し始めてからというもの、私は無意識の自我の存在をさんざん聞かされ、私自身が気が付かなくともその潜在自我のどこか奥深いところに隠されているかもしれない可能性について、多くの考察をお聞かせ頂いている。が、私が受け取っている一連の通信がそういう曖昧な説によって説明出来るとするか、それとも、もっと単純にそして自然に、つまり私を教化しようとしている知的存在が主張している通りであるとするかは、読者にお任せする外はない。そうした存在は自分達のことを霊と呼び、私の生命と意識とは別個の存在であるとしている。私もそのように受け止めている。
通信文は間違いなく私の意識とは何の関係もなしに綴られている。その多くは、綴られていくのをこの目で見ないように異常なまでの注意をしている中で筆記されたものである」
次も同じライト誌に掲載されたもので、日常生活における異常体験をある知人にこう書き送っている。
「私自身には何の記憶もないことをしていたり、特に、言った記憶がないのに間違いなく言っていることがよくあります。例えば、翌日の講話の準備をしないまま床につきます。翌朝目を覚ましていつものように行動し、いつもより流暢な講話をし、すべきことをきちんと済ませ、知人と談話まで交わしたのに、その記憶が全くないということがあるのです。特別に親しい人だけが、目のうつろさから私が入神していることを察知しているだけです。講話を聞いてくださった人のノートを見るとその内容が実に緻密で正確で明快なのです。
知人達は私が何となくボケッとしていたとか、ぶっきらぼうだったとか、言葉がぞんざいだったという程度には感じていても、他は普段と少しも変わらなかったと言います。私自身は意識が戻った時には何の記憶もありません。もっとも、時折何となく思い出すことはあります。
こうした体験から私は、人間は完全に〝パイプ役〟になり切ることが出来ること、つまり霊の道具に過ぎないことを実感として理解し始めているところです。それにしても、一見したところごく普通に行動している人間が実は霊界の知的存在の道具になっていて、固定存在を持たないということが有りうるものなのでしょうか。もしかしたら私の霊は遠くに行っていて、別個の霊的生活を送りながら、私の肉体の方は他の知的存在に憑依されて別の行動をしているということなのでしょうか。
例えば最近のことですが、ワイト島にいる間に内部の霊的能力が目を覚まし、外部の肉体的感覚が一切失われてしまいました。私は一日と一晩、ずっと別の世界にいて、物的環境はおぼろげにしか意識しませんでした。知人も家も部屋も景色も見えることは見えるのですが、おぼろげなのです。身体の方はいつものように行動しているのですが、私の意識には霊的環境や他界した友人、或いは全く面識のない霊の姿の方が遙かに鮮明に感識されるのです。辺りに見える光景も地上の景色より鮮明に見えました。もっとも、どことなく両者が重複して見えることがありました。その間私は話す気になれず、そうした環境の中に居てただ見つめるだけで満足しておりました」
同じくライト誌に珍しい心霊写真の話が出ている。
モーゼスのもとにあるフランス人から一通の手紙が届き、米国にいる妹とその家族の心霊写真が睡眠中にパリで撮れたと述べてあった。妹の家族の写真を撮りたいと心の中で念じたところ、一枚の乾板には三人の娘と一緒に、もう一枚には二人の息子と一緒に写っていたというのである。
これにヒントを得て、モーゼスはパリの友人に日曜日の朝十一時に写真を撮ってもらうように依頼し、その写真に自分も霊として写るようにしてみることにした。当日の朝、教会の鐘の音を聞いた頃に無意識状態に入り、気が付いたら十一時四十七分だった。実験は成功で、モーゼスの顔が睡眠中と同じように目を閉じたまま写っていた。同じ乾板に霊団の一人でプルーデンスと名乗る霊(地上では紀元三世紀の哲学者だったプロティノス)も写っていた。
その後の交霊会でインペレーターは、モーゼスを慎重に入神させ、複数の背後霊がロンドンからパリまで運んだと語った。霊体と肉体とを繋いでいるコードもそれだけ延びていたとのことだった。
スピリチュアリズムの意義について-
「スピリチュアリズムは霊界の存在と霊との交信の可能性という二つの事実以外にも実に多くのことを教えている。間違いなく言えることとして私が付け加えたいのは、人間の運命の決定者は自分自身であり、自分の性格も自分が形成し、将来の住処(死後に落ち着く環境)を地上で築きつつあるということである。道徳的向上心を鼓舞するものとしてこれ程素晴らしいものはないし、それをスピリチュアリズムほど強烈に所有している宗教思想を私は他に知らない。
人間は地上生活で築いた人間性そのままを携えて死後の生活を開始すること、他界した肉親・友人・知人は今尚自分を愛し、見守ってくれていること、罪悪も過ちも必ず自分で償わねばならないこと、いかに都合のよい教義をでっち上げても無罪放免とはならないこと-以上のことを立証し、更に又多くのことを立証して行けば、スピリチュアリズムは現代に対して計り知れない宗教的影響力の根源を秘めていることになる」
日常生活の大切さについて-
「人間は日常生活での行為と習慣によって刻一刻と魂を築いている。それが霊的本性であり、現段階でこそ幼稚で不完全であるが、永遠に不滅であり、未来永劫に進化する可能性を秘めている。それが真実の自分であり、永遠の存在である。死後の状態の責任は全て、根源的に、そして何よりもまず、自分自身にある。自分の運命の決定者は自分であり、自分が自分の将来の開拓者であり、自分の人生の最後の裁き人も自分である。
こうした教えが説教壇から聞かされることが少な過ぎる。が、その重要性は実に遠大である。これを知ることは全ての人間にとって極めて重要である。道徳と宗教の全分野において、その影響力は計り知れないものがある」
霊的知識の普及を祝して-
「霊界からの霊的真理普及の為の働きかけがいよいよ頻繁となってきたことは慶賀に堪えない。このことは見えざる指導者達が、思いもよらない様々な方面で、通信を地上へ送る為の通路を求めているとの確信を与えてくれる。真理の全てが一人の霊媒のみを通じてもたらされることは有り得ない。無数の側面をもつ真理がたった一個の精神で理解出来るわけがない。そうした様々なチャンネルを通じてもたらされる真理になるべく多く耳を傾ける者が一番多くを得ることになる。もう全てを知り尽くしたと思う者が実は一番真理を学んでいない。
〝真理の太陽〟の光が千々に砕けて我々の周囲に輝いている。それを拾い集めて一つの思想的体系を整えるべき機が熟している。今殆ど世界各地であらゆる観点から、その体系作りの為の作業が進行中である。
私がこの思想の将来に希望を託し、かつ信頼を抱いているのは、これからの宗教は今盛んに心霊学者やスピリチュアリストによって立証されつつある科学的知識の上に基礎を置くべきであり、いずれは科学と宗教とが手を繋ぐことになると信じるからに外ならないのである」
(注)-原典にはこの外に各種のテーマについてのモーゼスの意見が掲載されているが、その全てが、当然のことながら、インペレーターその他による通信の内容と同じなので割愛することにした。