自殺ダメ


解説 W・S・モーゼス-生涯と業績-

ナンドー・フォドー

(Nandor Fodor: An Encyclopedia of Psychic Science より)


○青年牧師として赴任するまで
 ウィリアム・ステイントン・モーゼスは1839年に公立小学校の校長を父親として、イングランド東部のリンカーン州ドニントンに生まれた。十三歳の時にパブリックスクール(私立中・高等学校)へ入学する為に家族と共にイングランド中部の都市ベッドフォードへ移転した。
 その頃時折夢遊病的行動をしている。一度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩に纏まらなかったある課題についての作文を書き、再びベッドに戻ったことがあった。が、その間ずっと無意識のままだった。書かれた作文はその種のものとしては第一級のものだったという。が、それ以外には幼少時代の心霊体験は残っていない。
 その後オックスフォード大学へ進学したが、在学中に健康を害して一時休学し、ギリシャ北東部のアトス半島へ渡り、そこの修道院の一つで六ヶ月の療養生活を送っている。やがて健康を回復したモーゼスはオックスフォード大学へ復学し、卒業後、英国国教会の牧師に任ぜられた。そして最初に赴任したのがマン島だった。(アイルランド海の中央に浮かぶ小さな島。政治的に自治区)
 当時は二十四歳の青年牧師だったが、教区民から絶大な尊敬と敬愛を受け、特に天然痘が猛威をふるった時の献身的な勇気ある行動は末永く語り継がれている。

○スピーア博士一家との縁
 その後同じマン島内の別の教区へ移ったが、三十歳の時に重病を患い、医師のスピーア博士の治療を受け、回復期を博士宅で過ごした。これがその後のモーゼスとスピーア博士家との縁の始まりである。
 翌1870年にイングランド南西部のドーセット州へ赴任したが、直ぐ又病気が再発し、それを機に牧師としての仕事を断念した。
 病気が縁となってその後七年間に亘ってモーゼスはスピーア博士の子息の家庭教師をすることとなった。その間にロンドンの学校教師の職を得て、他界する三年前までの十八年間に亘って勤続したが、通風を患っているところへインフルエンザを併発し、それに精神的衰弱も加わって、ついに1892年9月に他界した。53歳の若さだった。

○スピリチュアリズムとの出会い
 ロンドンの学校の教師となった翌年の1873年からの十年間は、インペレーターを最高指導霊とする霊団の霊力がモーゼスを通じて注ぎ込まれた時代であり、モーゼスのそれまでの偏狭なキリスト教的信仰と教理は完全に打ち砕かれてしまった。
 当初モーゼスはスピリチュアリズムが信じられず、心霊現象の全てをまやかしであると考えた。後に親交を持つに至るD・D・ホームの霊現象に関する書物を読んだ時も、〝こんな退屈な戯言は読んだことがない〟と一蹴していた。が、スピーア夫人の勧めで、たまたまその年イギリスに来ていたロティ・ファウラーというアメリカの女性霊視能力者による交霊会に出席した。
 交霊会への出席はそれが最初だった。が、その時の霊信の中に他界した友人についての生々しい叙述があり、心を動かされた。続いて同じくアメリカ人の物理霊媒ウィリアムズ夫人による交霊会に出席し、それからD・D・ホームによる交霊会に出席するなどして、半年後には死後の存続と交信の可能性について確信を得るに至っている。

○物理現象の数々
 やがてモーゼス自身にも霊能の兆候が出始め、次第に驚異的に、且つ、頻繁になって行った。種類も実に多彩で、強烈なものとしては部屋中が揺れ通しということもあった。又、大人が二人してやっと一インチしか上げられない程の重いテーブルが、白昼、軽々と宙に浮いて右に左に揺れていたこともある。
 モーゼス自身が浮揚したことも何度かある。二度目の時は右に述べたテーブルの上に一旦乗せられてから、更にその向こうに置いてあるソファへ放り投げられた。か、モーゼスの身体には何の異状も起こらなかった。
 アポーツ(物品引き寄せ現象)もしばしば起きている。部屋を閉め切っていても、他の部屋に置いてある物品が運び込まれた。大抵モーゼスの頭越しだった。又、モーゼスの家に置いてない品、例えば象牙の十字架像、サンゴ、真珠、宝石の類が持ち込まれたこともある。
 様々な形と強度の光がよく見られた。モーゼスが入神している時の方が強烈だった。但し、出席者全員に見えたわけではない。
 香気が漂うこともしばしばだった。ジャコウ、クマツヅラ、干草の香がよく漂った。が、一つだけ得体の知れない香気があった。霊側の説明によると、これは霊界にある香だという。時には香をたっぷりと含んだそよ風が部屋中を流れることもあったという。
 楽器類は何も置いていないのに、実に様々な音楽が演奏された。その他にも直接書記、直接談話、物体貫通現象、そして物質化現象と、多彩な現象が見られた。もっとも、物質化現象といっても発光性の手先とか、人体の形をした光がうっすらと見えるという程度に留まった。
 いずれにしても物理的心霊現象そのものは霊団としては二次的意義しか考えておらず、第一の目的はモーゼスならびに立会人に霊の存在と霊力の凄さを得心させることにあった。

○評価と中傷と
 モーゼスの交霊会のレギュラーメンバーはスピーア博士夫妻ともう一人パーシバルという男性の三人だけで、それに、時折ウィリアム・クルックス卿やD・D・ホーム、その他数名が入れ替わり立ち替わり出席する程度だった。勝手に新しい客を連れて来ると霊側がひどく嫌がったという。
 フレデリック・マイヤースは<S・P・R会報>の中で次のように述べている。
 「道義上の動機を考えても、或いはモーゼス氏が一人でいる時でも頻繁に発生したという事実から考えても、これらの現象がスピーア博士及び他の列席者によって詐術的に行なわれたものでないことは完全に立証されたと私はみている。モーゼス氏自身がやっていたのではないかという観方も、道義的並びに物理的にみてまず有り得ないことと私は考えている。氏が前もって準備しておいてそれを入神状態で演出するなどということは物理的に考えてまず信じられないことで、同時にそれは、氏自身及び列席者の報告の内容と相容れないものである。それ故私は、報告された現象が純粋な超常的な方法で実際に起きたものであると見なす者である」
 モーゼスの人格の高潔さは誰しも認めるところであった為に、心霊著述家のA・ラングは詐術説を主張する者に対して〝道徳的奇跡か物理的奇跡かのいずれかの選択である〟(モーゼスが人を騙すというとんでもないことをしたと決め付けるか、心霊現象が実在したと認めるかの二つに一つ)という警告まで発した。が、本気で道徳的奇跡の方を選んだのはポドモアただ一人だったようである。(訳者注-ポドモアはマイヤースと同時代の心霊研究家で、S・P・Rの評議員を二十七年も勤めた人物であるが、最初の頃は霊魂説を信じていたのが次第に懐疑的になって行き、最後は全てを詐術と決め付けるに至った。特にモーゼスに対しては中傷的な態度が目立った)

○自動書記通信とその通信霊の身元
 有名な自動書記通信は『霊訓』と『霊の身元』の二著と、1892年から心霊誌Ligntに公表を開始した詳細な報告記事が、その内容を知る手掛かりの全てである。
 自動書記現象は1873年に始まり、1877年頃から少なくなり、1883年に完全に途絶えた。その記録は二十四冊のノートに筆記されており、その内の二冊目が紛失した他は今なおThe College of Psychc Studies に保管されている。(訳者注-原典ではLondon Spiritualist Alliance となっているが、今では The College に移されている。なお国書刊行会発行の拙訳『霊訓』のグラビヤに、そのノートから八ページが掲載されている。フォドーは〝自由にコピーが入手出来る〟と書いているが、それは今は許されない。掲載された八ページ四枚は私がThe College 専属の写真業者に依頼して撮ってもらったもので、一枚につき幾らと使用料が定められている)
 自動書記による霊信はその殆どがモーゼスが普通の覚醒状態にある時に綴られたものである。その途中で直接書記で簡単なメッセージが入ることが時折あった。
 霊側のモーゼスに対する態度はあくまでも礼儀正しく、敬意に満ちていた。が、その通信の中に時折当時生存していた人物に対する批判的な言及が見られた。モーゼスが二十四冊のノートを他人に見せたがらなかった理由はそこにある。
 又、どうやらもう一冊、非常に暗示に富んだメッセージが盛られたノートがあったことを推測させる文章が見られるのであるが、そのノートは多分破棄されたに相違ない。
 通信は対話形式で進められている。通信霊の身元はモーゼスの在世中は公表されなかった。公的機関に寄贈される前に通信ノートを預かったマイヤースも公表しなかった。それがThe Controls of Stainton Moses<ステイントン・モーゼスの背後霊団>の題名でA.W.Trethewy によって出版されたのはずっと後のことである。
 が、その多くがバイブルや歴史上の著名人であったことを考えると、モーゼスが生存中にその公表を渋ったのは賢明であったと言えよう。もし公表していたら、軽蔑を込めた批難を浴びていたことであろう。
 それにもう一つ、実はモーゼス自身が永い間その身元に疑問を抱いていたことも、公表を渋らせた理由に挙げられる。通信の中にはその猜疑心と信頼心の欠如を霊側がしばしば咎めている箇所がある。
 それはともかく、明らかにされた限りでの霊団の主要人物の生前の氏名を幾つか挙げれば、リーダー格のインペレーターは紀元前五世紀のユダヤの霊覚者で旧約聖書のマラキ書の筆者とされるマラキ(マラカイとも)、その指揮の下にハガイ(同じく旧約聖書のハガイ書の筆者)、ダニエル(同じくダニエル書の筆者)、エゼキエル(同じくエゼキエル書の筆者)、洗礼者ヨハネ、等々がいた。その他にも、プラトン、アリストテレス、プロティノスなど、古代の哲学者や聖賢と呼ばれた人物が十四人いた。
 結局モーゼスは四十九人の霊団の道具であったことになるが、実はその上にもう一人、紀元前九世紀の霊格者エリヤが控えていて、インペレーターに直接的に指示を与え、同時に又直接イエスと交信していたと言われる。
 こうした背後霊団の身元についてモーゼスが得心するに至ったのは二十四冊のノートの内十四冊目に入った頃からだったという。

○通信の〝質〟の問題
 『霊訓』の<序論>の中でモーゼス自身こう述べている。
 「・・・・神God の文字は必ず大文字で、ゆっくりと恭しげに綴られた。通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図したプライベートな色彩を帯びていた。1873年に始まって1880年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言説、不誠実な、或いは人を誤らせるような所説の類は、私の知る限り一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわぬものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在(神の使い)であったと判断して憚らない。その言葉の一つ一つに誠実さと実直さと真剣さが溢れていた」
 が、そのモーゼスも、現象が弱まりだした頃には再び猜疑心に襲われ、戸惑いを見せている。所詮、霊の身元というのは完全な立証は不可能なのである。インペレーターに言わせれば、立証不可能な(古代霊)のケースも、他の(近代の)霊のケースが立証されれば、それで真実と受け止めてもらわないと困るという。確かにその通りで、近代の霊で身元が立証されたケースが幾つかあるのである。
 通信の内容そのものについてモーゼス自身は、霊媒という立場から非常に慎重な観方をしている。同じ<序論>の中でこう述べている。
 「通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは、確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐ為に異常なまでの配慮をしたつもりであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中努めて他の事柄を考えるコツを身に付け、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえ出来たが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていた。
 こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数に上るが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体で綴られているのである」
 それ程の用心も潜在意識を完全に排除するに至らなかったことが、死後モーゼス本人からのメッセージによって裏書されている。明らかに間違っている部分を幾つか指摘しているのである。しかし、そうした点を差し引いても、ステイントン・モーゼスの生涯とその業績はスピリチュアリズムに測り知れない影響を及ぼしている。幾つかのスピリチュアリズムの組織で指導的役割を果たし、1884年から他界するまでロンドン・スピリチュアリスト連盟の会長を務めた。英国S・P・Rの設立もモーゼスによる交霊会が機縁となっており、モーゼス自身も評議員の一人として活躍した。が、霊媒エグリントンの調査において取ったS・P・Rのアラ探し的態度に抗議して辞任している。
 著書としては『霊訓』の他にSpirit Identity (霊の身元)、The Higher Aspects of Spiritualism (スピリチュアリズムの高等な側面)、Psychography (念写)がある。その他、二、三の心霊誌に夥しい量の記事を掲載して啓蒙に努めている。(それを一冊に纏めたのが本書である-訳者)