自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 私が瀧の修行場へ滞在した期間はさして長くもなかった上に、あそこは言わば精神統一の特別の行場でございましたので、これはと言って特に申し上げる程の面白い出来事もございませぬ。私はあの瀧の音を聞きながら、いつもその音の中に溶け込むような気分で、自分の存在も忘れて、うっとりとしていることが多いのでございました。お蔭様でそうした修行の結果、私の統一は以前に増してずっと深まり、物を観るにも、あれから大変に楽になったように、自分にも感じられてまいりました。こちらの世界へ来ても全ては修行次第で、呑気に遊んでいたのでは、決して力量がつくものではないようでございます。実を言うと私などは、かなり執着も強く、しかも自分では成るべく呑気に構えていたい方なのですが、魂の因縁と申しましょうか、上の神様からのお指図で、いつも一つの修行から次の修行へと追い立てられて参りました為に、やっと人並になれたのでございます。考えてみると随分お恥ずかしい次第で・・・・・。
 それはそうと瀧の修行中にも、一つ二つの思い出の種子がない訳でもございませぬ。その一つは私の母がわざわざ訊ねて来てくれたことで、それが帰幽後に於ける母子の最初の対面でございました。
 この対面につきては前以て指導役のお爺さんからちょっと前触れがありました。『汝の母人も近頃は漸く修行が積んで、外出も自由に出来るようになったので、是非一度汝に会わそうかと思っている。いずれ近い内にこちらに見えるであろう・・・』-私はそれを聴いた時は嬉しさで胸が一杯でございました。そして母に会ったらこれも語ろう、あれも訊きたいと、生前死後にかけての積り積もれる様々の事件が、丁度嵐のように私の頭脳の中に、一度に押し寄せて来たのでした。
 それにつけても私の眼に特に力強く浮かび出たのは、前にも申し上げた、母の臨終の光景でした。あの見る影もなく、老いさらぼえる面影、あの断末魔の激しい苦悶、あの肉体と幽体とを繋ぐ無気味な二本の白い紐、それからあの臨終の床の辺を取り巻いた現幽両界の多くの人達の集まり・・・。私はその当時を思い出して、覚えず涙に暮れつつも、近く訪れるこちらの世界の母がどんな様子をしておられるかを、あれか、これかと際限もなく想像するのでした。
 すると、それから間もなく、森閑と鎮まり返った私の修行場の庭に、何やら人の訪れる気配がしましたので、不図振り向いてみると、それは一人の指導役の老人に導かれた、私の懐かしい母親なのでした。
 『お母様!!』
 『姫!!』
 双方から馳せ寄った二人は互いに縋りついてしまいました。
 現在の母の様子は、臨終の時の様子とはびっくりする程変わってしまい、顔もすっかり朗らかになり、年齢も確かに十歳ばかり若返っておりました。母の方でも私が諸磯の侘しい住居にくすぼり返っていた時に比べて、あまりに若々しく、あまりに元気らしいのを見て、自分の事のように心から歓んでくれました。
 『これ程あなたが立派な修行を積んでいるとは思わなかった。あなたの体からは丁度神様のように光明が射します・・・・』
 そんなことを言いながら、右から左からしげしげと私の姿を見守るのでした。これも生みの母なればこそ、と思えば、自ずと先立つものは涙でございました。
 ふと気が付いてみると、庭先まで案内の労を執ってくだすった母の指導役のお爺さんは、いつの間にやら姿を消して、全てを私達母子の為すところに任せられたのでした。