自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『現代はいかなる時か?』

 新時代の黎明-格別の努力が、今や真理の普及に向かって払われつつある。が、一方に神の使徒達の努力が加わると同時に、今も昔と同じく、他方に於いてこれに反抗する魔群がある。世界の歴史は畢竟、善と悪との抗争の物語である。一方は光、他方は闇、この戦は精神的、並に肉体的の、あらゆる方面に向かって行なわれる。無論両者の争闘は、時代によりて消長を免れないが、現在はその最も激しい時代である。神の使徒は、今やその威力を終結して戦に臨んでいるので、人間社会はこれが為に影響せられ、心霊知識、その他の普及となりつつある。道に反く者、心の弱き者、定見なき者又単なる好奇心で動く者は、禍なる哉である。真理を求むる者のみが、大磐石の上に立っている。

 問『いかにして真理を掴むか』

 心の準備-真に求むる者にして、最後に真理を掴まぬものはない。但しそれには多大の歳月を要する。時とすれば、その目的が地上生活中には達せられぬかも知れない。神は一切を試練する、そして資格のある者にのみ智慧を授ける。前進の前には常に準備が要る。これは不変の鉄則である。資格が備わりてからの進歩である。忍耐が大切な所以である。

 問『心の迷、実証の困難、僻見の跋扈等をいかにすべきか?果たしてこれ等の故障に打ち勝ち得るか?』

 最後の必勝-人力は有限であるが、神力は無限である、故障とな!そうしたものは絶対に存在せぬ。我等が過去に於いて嘗めたところに比べれば、現代の苦難の如きは抑々物の数でない。我等の生活せるローマ帝政時代の末期-精神的、霊的のものは悉く影を潜めて、所得顔に跋扈するは、ただ酒色と、荒淫と、悪徳と、劣情・・・もし汝にしてその実情に接触せんか、初めて闇の魔群の、いかに戦慄すべき害毒を人間界に流し得るかを会得したであろう。身を切る如き絶望の冷たさ、咫尺(しせき)を弁ぜぬ心の闇、全てはただ人肉のうめきと、争いとであった。さすがに霊界の天使達も、一時手を降ろすの術なく、覚えず眼を覆いて、この醜怪なる鬼畜の舞踊から遠ざかった。それは実に無信仰以上の堕落であった。全てが道徳を笑い、天帝を嘲り、永生を罵り、ひたすら汚泥の中に食い、飲み、又溺れることを以って人生の快事とした。その形態は正に人間であるが、その心情は、遙かに動物以下であった。それでも神は、最後に人類をこの悪魔の手から救い出したではないか!これに比すれば、現代の堕落の如きは、まだまだ言うに足りない。神と天使の光が加わるに連れて、世界の闇は次第に薄らいで行くであろう。

 問『人類の無智と頑陋との為に、啓蒙事業は幾回か失敗の歴史を遺している。今回も又その轍を踏まぬか?』

 真人の出現-神の恩澤は汝の想像以上である。今や世界の随所に真理の中心が創設せられ、求むる者に慰安を与え、探る者に手懸りを与えつつある。現在とても在来の経典を以って満足し、更に一歩を進めて真理の追窮に当たろうとする、気魄の乏しき者は多いであろう。それ等に対して我等は頓着せぬ。が、過去の示教に満足し得ず、更に奥へ奥へと智識の渇望を医せんとする好学の士も、又決して少なくない。我等は神命によりて、それ等を指導せんとするものである。かくて真理は甲から乙へ、乙から丙へと、次第々々に四方に伝播し、やがて高山の頂点から、世界に向かって呼びかけねばならぬ時代も到着する。見よ、その時、この隠れたる神の子達が、大地の下層より決起して、自己の体得し、又体験せるところを、堂々と証言するであろう。最初は細き谷川の水も、やがて相合して、ここに神の真理の大河となり、洋々として大地を洗い、その不可抗の威力の前には、現在汝等を悩ます痴愚も、不信も、罪悪も、虚偽も皆跡方もなく一掃せられてしまうであろう。

 問『近代の天啓と古代の天啓とは同一か?』

 天啓は皆同根-天啓は皆神から出る。或る時代に現れた啓示と、他の時代に現れた啓示との間に、矛盾衝突のある筈はない。全ては皆真理の啓発を企図したものに外ならぬ。が、人間の要望と、能力とには多大の相違があるので、真理を盛れる形式は、必ずしも同一ということは出来ぬ。両者が矛盾するが如く見えるのは、少しも神の言葉にあるにあらずして、皆人間の心にあるのである。神の言葉は常に単純である。人間はこれに満足することが出来ず、或いは注釈を以ってこれに混ぜ、或いは推理推論を以ってこれを包んだ。かくて歳月の経過と共に、神より出でしものが、いつしかその本来の面目を失い、矛盾、撞着、虚妄、愚劣の不純分子を以って充たさるるに至った。かるが故に、新たなる啓示が出現した時には、先ず以って、古い啓示の上に築き上げられた迷信の大部分を掃討するの必要に迫られる。先ず以って破壊した後でなければ、新しき真理の建設が不可能ということになる。天啓そのものに撞着はない。ただ真理を包める人為的付加物は、これを除去せねばならぬのである。その際人間は、あくまで己に内在する理性の光で、是非の判断を下さねばならぬ。理性こそ最高の標準である。愚なる者、僻見に富める者が、いかに排斥するとも、向上心に富める魂は、よく真理を掴み得る。神は決して何人にも真理を強いない。従って準備的聡明期に於いては、必然的に特殊の人間に対する、特殊の啓示を出すことになる。昔に於いてもそうであったが、現代に於いてもそうである。聖者モーゼは、果たして自国民族からさえも一般的承認を獲たか?昔の預言者達は、果たして世に容れられたか?イエスはどうか?ポーロはどうか?いかなる時代のいかなる改革者が、大衆の喝采を博したか?神は変わらない。神は常に与える。が、しかし決して承認を強要しない。無智なる者、資格なき者はこれを排斥する。それは当然である。異端邪説があればこそ、ここに初めて真人と、偽人との選り分けが出来る。それ等は皆不純なる根源から出発し、常に悪霊から後押しされる。魔軍の妨害は常に熾烈であると覚悟せねばならぬ。が、汝は須らく現代を超越し、目標を遠き未来に置いて、勇往邁進せねばならぬ。

 問『霊界の指導者はいかに選ばれるか?』

 指導霊の性質-指導霊と、その指導を受ける人物とは、通例ある不可分の因縁関係を以って結ばれている。が、時にその例外がないでもない。或る霊は、人間の指導が巧みである為に特に選抜される。或る霊は、特殊の使命を遂行すべく特派される。或る霊は、一人物の性格上の欠陥を補充すべく、特にその人に付けられる。又或る霊は、理想型の人間を造るべく、自ら進んで現世に降りることもあるが、これは高級霊にとりて、特に興味ある仕事である。時とすれば又霊界の居住者が、自分自身の修行の為に、求めて手に余るような難物の指導を引き受け、一歩々々に向上の進路を切り開くものもある。時とすれば又単なる愛情、又は現世愛の名残で引き付けられる場合もある。総じて、特殊の使命を有する場合の外は、指導すべき人物が進歩するに連れて、指導霊の変更がしばしば行なわれる。

 問『地上に降りる霊達は、いかなる階級に属するか?』

 普通は下級霊-通信者の大部分は、地上に接近せる下層の三境涯のものである。彼等は甚だ容易に人間と交通し得る。高級の霊にして、地上と交通するのは、人間界の所謂霊媒に該当する特殊の能力者である。高級霊が交通を開き得る、優れた霊媒の数は極めて少ない。地上と通信を欲する高級霊は少なくないが、容易に適当の霊媒を見出し難いので、何れも躊躇するのである。かるが故に、霊界通信には玉石混交の感がある。かの事実と符合せざる虚偽の通信といえども、必ずしも故意に然るにあらずして、しばしば力量の不足に基因する。時が経つにつれて、幽明交通に関する智識は、次第に我等の掌裡に握られて行くであろう。

 問『所謂魔群とは、いかなる種類のものか?』

 神と人との敵-我等の使命に対して、絶えず反抗的態度を執りつつある、有力なる悪霊の集団がそれである。彼等は狡智猾才に富める邪悪霊を首領と仰ぎ、百方手を尽くして、我等の聖業を阻害せんとしつつあるので、その悪戯は極めて巧妙、その行動は甚だ敏活、巧みに我等の事業を模倣し、ひたすら迷える者の歓心を買うべく努めるから、その伝播力、感染力は驚くべく強大である。彼等は神の敵であると同時に人類の敵である。善の敵であると同時に、悪の使徒である。我等は彼等に対して、永遠の戦を交えつつある。

 問『さまで有力なる魔群の存在することは、意外の感に堪えない。世に悪の存在を否定する論者もあるではなきか?』

 悪霊の存在-善を捨てて、悪に走る程漑歎すべきものはない。汝は優勢なる魔群の存在を不思議に思うらしいが、事実はその通りであり、しかもそは少しも怪しむに足らぬ。魂は地上生活そのままの姿で、彼岸に歩み入るのである。その趣味、好尚、習慣、反感等、生前死後を通じて、少しも変わるところがない。変わる所はただ肉体の有無のみである。地上にあって趣味低く、素行修まらざるものは、地の世界を脱れたとて、依然として旧態を守り、これと同様に、地上にありて品性の高潔なるもの、志操の確実なるもの、向上心の強きものは、死後に於いて、決して悪魔の従弟とはならない。汝がこれしきの真理を会得せぬこそ、寧ろ意外である。全ては厳然たる因果の理法の現れで、金は飽くまで金、鉛は最後まで鉛である。魂の品質は、決して一朝一夕の所産でない。そは霊性の中に織り込まれたる綾であり、模様であり、両者を切り離すことは、到底不可能である。なかんずく畏れるべきは習癖の惰力である。習癖は深く魂の中に喰い入りて、しばしば個性の主要部となるに至るもので、一旦肉感肉欲の誘惑にかかった魂は、終にその奴隷とならずんば止まぬ。彼は到底清純無垢の境地に安住し得ない。彼の望むところは、お馴染の魔窟であり、悪習慣である。友は友を呼び、類は類を以って集まるのであるから、施す術がないのである。かるが故に、我等の所謂魔群と称するものは、低級未発達の魂の集団に外ならない。彼等が向上進歩すべき唯一の望みは、ただ悔悟と、高級霊の指導と、又一歩々々に、罪深き悪習慣から脱却すべき永遠の努力とより以外には絶対にない。そう言った未発達の霊魂の数は実に多い。従ってその威力は決して侮るべきでない。かの悪の存在を否定し、有力なる魔群の存在を否定するが如き思想は、実に人類を誘惑せんが為に、構造されたる、悪魔の甘言と思考すべきである。

 問『魔群にも一人の支配者があるか?』

 全ては神界の統治下-魔群の頭領の数は多い。が、神学者の唱道するが如き、大魔王と言ったものは存在せぬ。全ての魂は、その善霊たると悪霊たるとを問わず悉く神界の統治下に置かれている。

 (評釈)本章の説く所は、大体平明で、穏健であるから、そして評釈の必要もないと思うが、初学者の為に、念の為に二、三の注意を試みることにする。
 『真人の出現』の條下に於いて、数十年前に予言されたことが、現在に於いていよいよ地上に出現しつつあることは驚嘆すべきである。今や世界全土に亘りて普及しつつある神霊運動の前には何物も抵抗すべくもない。世界で一番後回しになった日本国でも、最早その傾向が顕著になった。欲にはここ両三年の努力で、日本をして、この運動のトップを切らせたいものである。『指導霊の性質』條下には、指導霊とその指導を受ける人間との、深い因縁を説いているが、今日我々が心霊実験を行なえば行なう程、それが真理であることを発見する。与える者と、与えられる者とは、常にぴったり心の波長が合ったものである。かるが故に人間を観れば、大体その背後のものが判る。下らない人格の所有者に、立派な神霊の感応するようなことは絶対にない。世人断じて山師的宗教家の口車などに乗って、迷信家の仲間入りをしてはならない。『悪霊の存在』の條下に、『魔群と称するものは、低級未発達の魂の集団である』と、述べてあるのは至言である。『悪』とはつまり、『不完全』、又は『未発達』の代名詞で、純粋の悪霊そのものは存在せぬ。どんな悪霊でも、最後には皆浄化し、美化し、善化する。従ってどんな悪霊でも悉く神の子であり、神界の統治下にあるのである。抽象的の善玉、悪玉の永遠の争闘の如き思想は、一時も早く排斥すべきである。同時に霊界を一の清浄無垢の理想境と考える事も、又とんでもない迷妄である。霊界は現界と同じく、玉石混交の差別の世界で、寸刻の油断も出来ない。これを知らずに幽明交通をするから、そこに多大の弊害が起こるのである。初学の士は最初成るべく学識経験の積んだ指導者につきて、這間の消息に通ずべく心懸けるのが安全であろう。