自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『前回の通信を草した時、自分は非常に疲労を覚え、脳の底部に激痛を感じた。その原因は何であったか?』
現代立法の不備-汝が頭痛を覚えたのは、結局我等が、あまりに多量の力を用い、しかもそれが、あまりに急激に行なわれたことに基因する。あのような重大問題を論ずるに当たりては、我等とても、勢い多少の昂奮を免れない。天授の神律に対する絶対服従の必要を、地上の人類に強調せんとする時、うっかり霊媒の体躯に対する顧慮を失い、図らずも汝に苦痛を与えることになった。今後は努めて心の平静を保つよう注意を怠らぬであろう。
さるにしても、戦慄すべきは戦争の惨禍である。戦争なるものは欲望、野心、又復讐的激情の所産である。そしてその結果は如何?麗しき神の御業は、無惨にも脚下に蹂躙せられ、人間が額に汗して築き上げたる平和の結晶は、一朝にして見る影もなく掃滅せられ、夫婦骨肉の聖き絆は断たれ、幾千幾萬の家族は、相率いて不幸の谷底に蹴落とされ、大地の上は、至る所に屍の山を築く。しかも無理にその肉体からもぎ離されたる無数の魂は、何の用意も、教育も施されず、汚水の如く霊の世界へとなだれ込む。その罪穢、その腐敗は、まさに言語に絶し、よろずの災厄は、全てここに兆すのである。地上の人類が、もう少し這間の事情に通ぜぬ限り、文化の発達は到底遅々なるを免れない。
どう考えても、現代の社会政策、国家政策には廃棄を要するものと、補修を要するものとが中々に多い。
例えば社会の治安を目的とする法律にしても、そはあまりに、違反者の制裁にのみ偏する傾向があると思う。法律は懲罰的であると同時に、救治的であらねばならぬ。然るに現代の法律が、霊媒に対する罰則の如きは、何という不合理を極めたものであろう。幽明交通者の中には、勿論良いのも悪いのもある。良いものは、これに保護奨励を与えるべきである。悪いものは、これを適当に感化誘導して、正に帰せしむべきである。然るに何等玉石を顧みることなく、霊媒の全部を精神異常者と見做して、懲罰を加えんとするに至りては、愚にあらずんば正に冒涜である。我々の側から観れば、かの堕落せる酔男の類こそ、不良霊媒以上の精神異常者である。彼等が出入りする不潔な場所こそは、字義通りの魔窟であって、そこには最劣最悪の不良霊連が、彼等酔漢の体に憑り、鬼畜に等しき堕落行為に出でしむるのである。これが文明の汚点でなくて何であろう。然るに現代の法律は、平然としてこれ等酔漢に対して、一指を染めようとしない。
問『酔漢の体に憑るとは何の意義か?』
悪霊の憑依-地縛の霊魂は、依然として彼等生前の情欲と、性癖の大部分をそのまま保有している。彼等の体的欲望は、少しも消えた訳ではないが、ただその欲望を満足せしむべき機関がない。そこが彼等の大いに煩悶焦慮する点である。およそ世に充たされざる渇望程辛いものはない。で、彼等は何とかしてこの苦痛を癒すべく、昔馴染みの魔窟に出入りして、丁度自分に誂え向きの犠牲者を捜し出し、人知れずその体内に潜り込んで、酒色の欲を満足せんとするのである。即ち外面的に観れば、それは人間の乱行であるが、内面的に観れば、それは地縛の悪霊の跳躍なのである。地縛の霊は、かくして享楽の二度の勤めをする。かかる悪霊の犠牲になった人間は、勿論ただ堕落の一路を辿り、一歩々々、抜き差し成らぬ泥濘(でいねい)の深みにはまり込んで行く。その間彼の哀れなる妻子は、飢えたる腹を抱えて、言い知れぬ悲嘆の涙に暮れるばかり、守護の天使とても、境涯の懸隔は、これを如何ともするに由なく、ただ空しく、遠方から淪落の痴漢の暗き行末を、憐れみの眼もて見送るより外に、せん術がないのである。
この種の悪徳の撲滅には、必然的に多大の歳月を要する。何となれば悪は悪を生み罪は罪を孕み、容易にその根絶をきし難いからである。悪徳はただ民族全体の道徳的並に物質的の発達と、高尚な知識の普及と、又真の意義ある教育の進歩とによりてのみ、次第々々に切除されて行くのみである。地上の人類が、現在の如き非合理的法律を墨守している限り、先ず改善の見込みは絶無であろう。
問『無邪気な小児は、死後直ちに上界に進むか?』
貴重なる地上生活-否、地上生活の経験は、甚だ貴重なもので、断じてこれを度外視することは出来ない。無論子供達には罪穢が少ないから、浄化作用の為の境涯、所謂煉獄の境涯を、迅速に通過することは事実である。が、知識と経験の不足は、これを死後の教練によりて補充せねばならぬ。霊界には、無邪気な子女を教育すべき専門の霊達が控えていて、彼等の求める所を遺憾なく充たすのである。地上生活を短く切り上げる事は、決して本人の利益ではない。強いて言えば、ただ与えられたる地上生活の悪用をせずに済むという、消極的の利益位のものである。魂にとりて最も理想的な生活は、四六時中些の油断なく、自己に与えられたる天職を睨みつめ、一心不乱に自己の向上と同時に、同胞の幸福を図り、神を愛し敬い、そして忠実に自己の守護霊達の指示を厳守することである。そうした魂には、汚染の分子が少ないから、従って進歩が迅い。ありとあらゆる形式の虚栄と利己主義、全ての種類の怠慢と懶惰(らんだ)、又何等かの形で行なわれる放縦と我儘-これ等は皆向上前進の大敵である。魂にとりて最大の味方は、愛と知識の二つである。帰幽せる小児は、天賦的に前者を具えていることもある。が、後者は是非ともこれを教育の力に待たねばならぬ。夭逝(ようせい)せる小児の教育の一手段は、しばしばこれを霊媒の体につけて、地上生活の経験を繰り返させることもある。要するに早死せる小児は、一方知識の点に於いて損失を受け、他方純情の点に於いて利益を受けていると言ってよい。が、何と言っても人生の悪戦苦闘を、首尾よく切り抜けて、凱歌を挙げた魂が、更に更に尊い。所謂艱難汝を珠にすで、試練によりて浄化されたる魂が、死後に於いて特別の境涯を与えられ、神の恩寵に浴する。苦労なしに真の向上、真の浄化は到底望まれない。されば多くの魂は、自ら求めて地上に降り、一人の霊媒を選びてこれが指導に当たり、以って何等かの特殊の経験を獲得しようとする或る者にとりて、それは愛の修行である。他の者にとりて、それは苦難と悲痛との修行である。その他知識を求むる者、克己自制の修養を遂げんとする者等、各人各様である。要するに地上に降る者には、皆何等かの使命、又何等かの目的があり、かくして向上進歩を遂げんとするのである。
霊的欲求はただ一つ-より以上の進歩、より多くの知識、より多くの愛、その外には何物もない。かくて地上生活の残渣は綺麗に洗い浄められ、魂は絶対無限の至高境に向かって、ただ上へ上へと進んで行くのである。
(評釈)『現代立法の不備』は、主として英国を目標として立論しているらしいが、これは他の国々にも、或る程度当てはまると思う。何れにしても現行の法規なるものが、少々時代遅れの気味であることは、疑問の余地がないらしい。もしそれ地上生活の経験の尊重すべきものであることを強調する、最後の一節に至りては、誠に活眼達識の士にして、初めて道破し得る卓見であると思う。この一節は、特に現世生活を穢土と罵り、途中の階段をヌキにして、一足飛びに極楽浄土にでも行こうと焦る夢遊病患者に対して、絶好の戒飭(かいちょく)である。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『前回の通信を草した時、自分は非常に疲労を覚え、脳の底部に激痛を感じた。その原因は何であったか?』
現代立法の不備-汝が頭痛を覚えたのは、結局我等が、あまりに多量の力を用い、しかもそれが、あまりに急激に行なわれたことに基因する。あのような重大問題を論ずるに当たりては、我等とても、勢い多少の昂奮を免れない。天授の神律に対する絶対服従の必要を、地上の人類に強調せんとする時、うっかり霊媒の体躯に対する顧慮を失い、図らずも汝に苦痛を与えることになった。今後は努めて心の平静を保つよう注意を怠らぬであろう。
さるにしても、戦慄すべきは戦争の惨禍である。戦争なるものは欲望、野心、又復讐的激情の所産である。そしてその結果は如何?麗しき神の御業は、無惨にも脚下に蹂躙せられ、人間が額に汗して築き上げたる平和の結晶は、一朝にして見る影もなく掃滅せられ、夫婦骨肉の聖き絆は断たれ、幾千幾萬の家族は、相率いて不幸の谷底に蹴落とされ、大地の上は、至る所に屍の山を築く。しかも無理にその肉体からもぎ離されたる無数の魂は、何の用意も、教育も施されず、汚水の如く霊の世界へとなだれ込む。その罪穢、その腐敗は、まさに言語に絶し、よろずの災厄は、全てここに兆すのである。地上の人類が、もう少し這間の事情に通ぜぬ限り、文化の発達は到底遅々なるを免れない。
どう考えても、現代の社会政策、国家政策には廃棄を要するものと、補修を要するものとが中々に多い。
例えば社会の治安を目的とする法律にしても、そはあまりに、違反者の制裁にのみ偏する傾向があると思う。法律は懲罰的であると同時に、救治的であらねばならぬ。然るに現代の法律が、霊媒に対する罰則の如きは、何という不合理を極めたものであろう。幽明交通者の中には、勿論良いのも悪いのもある。良いものは、これに保護奨励を与えるべきである。悪いものは、これを適当に感化誘導して、正に帰せしむべきである。然るに何等玉石を顧みることなく、霊媒の全部を精神異常者と見做して、懲罰を加えんとするに至りては、愚にあらずんば正に冒涜である。我々の側から観れば、かの堕落せる酔男の類こそ、不良霊媒以上の精神異常者である。彼等が出入りする不潔な場所こそは、字義通りの魔窟であって、そこには最劣最悪の不良霊連が、彼等酔漢の体に憑り、鬼畜に等しき堕落行為に出でしむるのである。これが文明の汚点でなくて何であろう。然るに現代の法律は、平然としてこれ等酔漢に対して、一指を染めようとしない。
問『酔漢の体に憑るとは何の意義か?』
悪霊の憑依-地縛の霊魂は、依然として彼等生前の情欲と、性癖の大部分をそのまま保有している。彼等の体的欲望は、少しも消えた訳ではないが、ただその欲望を満足せしむべき機関がない。そこが彼等の大いに煩悶焦慮する点である。およそ世に充たされざる渇望程辛いものはない。で、彼等は何とかしてこの苦痛を癒すべく、昔馴染みの魔窟に出入りして、丁度自分に誂え向きの犠牲者を捜し出し、人知れずその体内に潜り込んで、酒色の欲を満足せんとするのである。即ち外面的に観れば、それは人間の乱行であるが、内面的に観れば、それは地縛の悪霊の跳躍なのである。地縛の霊は、かくして享楽の二度の勤めをする。かかる悪霊の犠牲になった人間は、勿論ただ堕落の一路を辿り、一歩々々、抜き差し成らぬ泥濘(でいねい)の深みにはまり込んで行く。その間彼の哀れなる妻子は、飢えたる腹を抱えて、言い知れぬ悲嘆の涙に暮れるばかり、守護の天使とても、境涯の懸隔は、これを如何ともするに由なく、ただ空しく、遠方から淪落の痴漢の暗き行末を、憐れみの眼もて見送るより外に、せん術がないのである。
この種の悪徳の撲滅には、必然的に多大の歳月を要する。何となれば悪は悪を生み罪は罪を孕み、容易にその根絶をきし難いからである。悪徳はただ民族全体の道徳的並に物質的の発達と、高尚な知識の普及と、又真の意義ある教育の進歩とによりてのみ、次第々々に切除されて行くのみである。地上の人類が、現在の如き非合理的法律を墨守している限り、先ず改善の見込みは絶無であろう。
問『無邪気な小児は、死後直ちに上界に進むか?』
貴重なる地上生活-否、地上生活の経験は、甚だ貴重なもので、断じてこれを度外視することは出来ない。無論子供達には罪穢が少ないから、浄化作用の為の境涯、所謂煉獄の境涯を、迅速に通過することは事実である。が、知識と経験の不足は、これを死後の教練によりて補充せねばならぬ。霊界には、無邪気な子女を教育すべき専門の霊達が控えていて、彼等の求める所を遺憾なく充たすのである。地上生活を短く切り上げる事は、決して本人の利益ではない。強いて言えば、ただ与えられたる地上生活の悪用をせずに済むという、消極的の利益位のものである。魂にとりて最も理想的な生活は、四六時中些の油断なく、自己に与えられたる天職を睨みつめ、一心不乱に自己の向上と同時に、同胞の幸福を図り、神を愛し敬い、そして忠実に自己の守護霊達の指示を厳守することである。そうした魂には、汚染の分子が少ないから、従って進歩が迅い。ありとあらゆる形式の虚栄と利己主義、全ての種類の怠慢と懶惰(らんだ)、又何等かの形で行なわれる放縦と我儘-これ等は皆向上前進の大敵である。魂にとりて最大の味方は、愛と知識の二つである。帰幽せる小児は、天賦的に前者を具えていることもある。が、後者は是非ともこれを教育の力に待たねばならぬ。夭逝(ようせい)せる小児の教育の一手段は、しばしばこれを霊媒の体につけて、地上生活の経験を繰り返させることもある。要するに早死せる小児は、一方知識の点に於いて損失を受け、他方純情の点に於いて利益を受けていると言ってよい。が、何と言っても人生の悪戦苦闘を、首尾よく切り抜けて、凱歌を挙げた魂が、更に更に尊い。所謂艱難汝を珠にすで、試練によりて浄化されたる魂が、死後に於いて特別の境涯を与えられ、神の恩寵に浴する。苦労なしに真の向上、真の浄化は到底望まれない。されば多くの魂は、自ら求めて地上に降り、一人の霊媒を選びてこれが指導に当たり、以って何等かの特殊の経験を獲得しようとする或る者にとりて、それは愛の修行である。他の者にとりて、それは苦難と悲痛との修行である。その他知識を求むる者、克己自制の修養を遂げんとする者等、各人各様である。要するに地上に降る者には、皆何等かの使命、又何等かの目的があり、かくして向上進歩を遂げんとするのである。
霊的欲求はただ一つ-より以上の進歩、より多くの知識、より多くの愛、その外には何物もない。かくて地上生活の残渣は綺麗に洗い浄められ、魂は絶対無限の至高境に向かって、ただ上へ上へと進んで行くのである。
(評釈)『現代立法の不備』は、主として英国を目標として立論しているらしいが、これは他の国々にも、或る程度当てはまると思う。何れにしても現行の法規なるものが、少々時代遅れの気味であることは、疑問の余地がないらしい。もしそれ地上生活の経験の尊重すべきものであることを強調する、最後の一節に至りては、誠に活眼達識の士にして、初めて道破し得る卓見であると思う。この一節は、特に現世生活を穢土と罵り、途中の階段をヌキにして、一足飛びに極楽浄土にでも行こうと焦る夢遊病患者に対して、絶好の戒飭(かいちょく)である。
