自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『いかなる人物が、霊界の機関たるに適するか?』

 霊界の求むる人格-霊媒能力が種々雑多に分かれることは、わざわざ断るまでもあるまい。或る種の霊媒は、単にその一種特別の体質の為に選ばれる。つまりそれ等の人達の肉体組織が、外部的客観的の霊的表現を行なうに適当しているのである。彼等は精神的には殆ど何等の能力もない。たまたま背後の支配霊達が、何等かの通信を行なうことはありても、その内容は通例末梢的の些事に留まり、時とすれば取るに足らぬ囈語やら、取り止めのない出鱈目やらでさえもある。この種の霊媒は、専ら霊の存在を証明する為に用いられる。肉眼には見えない他界の居住者が、彼等の肉体を利用して、客観的の現象を作製することが出来るからである。
 要するにこの種の霊媒は、初歩の心霊現象を作る為の機関に過ぎない。が、そうかと言って、彼等の仕事がつまらないということにはならない。信仰の基礎工事は、実に彼等によりて築かれるのである。
 それから又一部の霊媒達、その性質が善良で慈悲深い為に、霊界の選抜に与る彼等は多くの場合に於いて、物理的心霊現象の用具とはなり得ない。又最初は、霊界との意識的の通信さえも為し得ない。が、彼等の素直な性質は、霊的感化を受け易く天使達の監視の下に、その純情が驚くべく開発されて来る。その結果、次第に意識的に、霊界通信を行い得るようにもなり、又或る程度の霊視能力を恵まれて、折節他界の状況を瞥見することにもなる。彼等の背後に控えて働くのは、通例或る情け深い霊的存在で、印象的に、絶えず必要な指導を与える。こうした人達は、いつも愛と平和の清き雰囲気の裡に包まれ、生きては輝かしき人間の模範と仰がれ、死すれば直ちに安息の境地に迎えられて、平和の真光に浴するのである。
 それから又他の霊媒達は、理智的に発達を遂げており、知識の広布、真理の普及に使われる。その背後に控えているのは、皆進歩した霊界居住者達で、或はよき思想を送ったり、或はよき方法を指示したり、あらゆる手段に訴えて、遺憾なく感化影響を及ぼそうとする。霊界の用いる手段たるや、何れも巧妙さを極め、とても地上の人間には窺知し得ないところがある。この際霊界人にとりて、何より困難を感ずるのは適当な霊媒・・・ずっと上層からの通信を感受し得る、適当な霊媒を選び出すことである。先ず第一にその人物は、受動的の心の所有者であらねばならぬ。何となれば、本人の心が吸収するだけしか、何事も注入し得ないからである。次にそれは愚かなる人間界の先入主から、全然脱却したものであらねばならぬ。利害得失の打算から、真理の指示に背くような魂では、とても我等の用途にはならぬ。
 更に又その人は、一切の宗教宗派的のドグマの捕虜であってはならぬ。これと同様に、一知半解式の知識の所有者であってもならぬ。それ等は自分の無知無学に気付かぬから、手がつけられない。我等の求むる所は、どこまでも自由で、素直で、純情で、知識欲が旺盛で、真理の吸収にかけて飽くことを知らぬ、清き魂の所有者であらねばならぬ。
 次に我等の仕事は、積極的の自主的意見に捕えられて、やたらに反対したり、又個人的欲望の奴隷となりて、白を黒と言いくるめたりするような人であっても、殆ど何事も為し得ない。そうした場合には、右の人物の悪癖の矯正に手間取れて、剰すところが幾ばくもないことになる。くどいようだが、我等の求むる人物は、敏腕で、熱心で、真理欲が強くて、寡欲で、そして温和しい魂の所有者であらねばならぬのである。人選に骨が折れる筈ではないか。事によると、そうした人選は不可能、と言った方が或は適当かも知れぬ。で、止むを得ないから、我等は多くの中で、一番ましな人物を選び、これに不断の薫陶を加えつつ、曲りなりにも所期の仕事を遂行せんと覚悟するに至ったのである。我等としては、先ず努めて愛と、寛容性とを、その人物に注入すべく心懸ける。すると右の人物は、ここに初めて平生の僻見から離脱し、真理が思いの外に多面的、又多角的である所以を悟って来る。次に我等は、右の人物として呼吸し得る限りの、多くの知識を注入してやる。一旦知識の土嚢(どのう)が据えられると、ここに初めて安心して、上部構造物を築くことが出来て来る。かくの如くして右の人物が、精神的に次第に改造されて行き、どうやら我等の所期の目的と調和して行くことになる。
 無論こうした仕事に失敗は伴い勝ちで、我等としても、止む無く中途で見棄ててしまわねばならぬ人物は沢山ある。世にも度し難きは、人間界にこびりついている古い古い僻見であり、又ドウにも始末に行かぬのは、宗教宗派の墨守する数々のドグマである。これは『時』の流れに任せる外に途がない。我々の力にも到底及ばない。
 尚ここで一言付け加えておきたいのは、我等の教が、徹底的に一切の恐怖を、人の心から剪除(せんじょ)せんことである。要するに我等の使命は、神と神の使徒に対して、全幅の信頼を置くべく、魂達を指導することである。
 旧神学に従えば、そこに一人の神があって、絶えず人間の堕落を監視し、又そこに一人の悪魔があって、間断なく人間に誘惑の罠を張っているというのである。この考が頭脳に浸み込んでいる人達は、ややもすれば我等の教訓を不思議がり、容易にこれに従おうとしないが、これは誠に困ったものである。宗教から一切の恐怖、一切の不安が引き離された時にこそ、地上の人類は、初めて安心立命の境地に立ち得るものといえる。
 尚ここにモウ一つ断っておきたいことは、我等の使命が、ありとあらゆる形式の利己主義を掃滅せんとすることである。『我』がにじり出づる所には、そこに我等の施すべき余地はない。自己満足、唯我独尊、驕慢、自慢、自家広告、自分免許・・・・何れも皆禁物である。小智小才に走るものは、到底我等の用具にはなり得ない。独断専行を好むものも、又我等の伴侶ではあり得ない。克己自制-これがいづれの時代に於いても、聖人君子に付きものの美徳であった。いやしくも進展性に富める真理の祖述者は、昔から最も少なく自己を考え、最も多く自己の仕事を考えた人達であった。かの地上にありし日のイエスこそは、正に高き克己心と、清き熱誠との権化ではなかったか。彼はあくまでも自己を抑えて、真理の為に一身を犠牲にすることを辞せなかった。彼の一生は人間の歴史が有する、最も高潔な絵巻物の一つである。同様に世界を迷妄の闇の中から救い、これに真理の光を注いだ人達にして、未だかつて自制の人でないのはなく、何れも皆自己に割り当てられたる使命の遂行に向かって、畢生の心血を注ぐを忘れなかった。ソクラテス、プラトン、ヨハネ、ポーロ、-これ等は皆真理の開拓者であり、進歩の使徒であり、極度に無欲純潔、少しも驕慢、自負、自家宣伝等の臭味がなかった。それでこそ、あれ程の仕事が出来たのである。もし彼等にして一片の利己心があったなら、そは必ず彼等の成功の心臓部を喰い破ったであろう。
 我等が求める所は、右に述べるが如き人物である。慈悲心に富み、熱情に富み、自己を忘れて真理を求め、神業一つを睨みつめて、現世的欲求を棄てて顧みない人物が欲しいのである。そんな人格が暁天(ぎょうてん)の如く稀であるべきは、元より言ふまでもない。それだけそう言った人格は尊い。友よ、落ち着いた、熱心な、そして誠実な哲学者の心を以って心とせよ。又慈悲深く、寛厚にして、常に救いの手を差し延べんとする、仁者の心を以って心とせよ。更に又為すべき事を為して、報酬を求めざる神の僕の克己心をこれに加えよ。かかる人格にして初めて、気高く、聖(きよ)く、美しき仕事が出来る。我等としても、最大の注意を以ってこれを監視し、又警護する。同時に神の直属の天使達も、又常に温顔を以ってこれを迎え、露過ちの無いように、特別の保護を与えるであろう。

 問『そう言った人格は、到底現代に求め難いと思うが・・・・』

 万事は忍耐-それは少ない、極めて少ない。よしあっても、ただその萌芽に過ぎない。我等とても、決して人間に向かって完全を求めはせぬ。我等の求むる所は、ただ誠意あるもの、向上心に富めるもの、自由な、吸収力に富めるもの、純潔にして善良なるものである。人間として焦る心が何よりも悪い。静かに忍耐の心の緒を引緊めることが肝要である。取り越し苦労と、心配とは絶対に禁物である。出来ない事は到底出来ない。思案に余る事柄は、全て我等に任せ、思いを鎮めて、よく我等の述べるところを味わってもらいたい。

 (評釈)いささか冗長のきらいはあるが、大体優れたる霊界居住者が、人間に対して何を求めるかは、これでほぼ本当がつく。が、顧みて何人か自己の資格の不充分、不完全を嘆息せぬものがあるであろうか。これにつけても我等は、かの活神、活仏気取りの浅墓な心懸の人々には、つくづく長大息を禁じ得ぬ。本人も本人だが、その存在を許す周囲の人達も人達である。日本民族が精神文化の先頭に立ちて、世界を率いる資格の備わるのは、そも何れの日であろう!