自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『夫婦の関係は、死後永遠に続くか?』
趣味と能力-夫婦関係が永続すると否とは、全然趣味と能力とが、均等に発達しているか否かにかかっている。もしも右の二つが揃っていれば、死後の夫婦は互いに手を携えて、向上の途を辿ることが出来る。少なくとも我等の境涯に見出される一対の男女は、趣味と能力とが一致しており、互いに助け合いつつ、進歩の階段を上昇することの出来る人達である。我等には霊的教育が全てである。従って進歩のよすがとなるべき関係以外は、全然その存在を認められない。かのいたずらに地上生活を陰惨ならしめ、いたずらに魂の発達を阻害する人為的束縛は、肉体の消滅と同時に、跡方もなく断絶する。これに反して、魂と魂との一致によりて堅く結ばれたる夫婦関係は、肉体の羈絆(きはん)を脱した暁に於いて、更に一層の強度を加える。二つの魂を包囲する愛の絆こそは、相互の発達を促す最大の刺激であり、従って両者の関係は永遠に伝わって行く。それは過去に於いて、たまたま両者の間に関係があった為というよりも、寧ろ永遠不滅の適合性が、両者の霊的教育に不可欠の要素として役立つからである。こうした場合には勿論地上の夫婦関係は永遠に続くといえる。少なくとも愛の生活が、相互の利益である間は、一緒に住んでいるが、或る時期に達して、別れて住むことが望ましくなれば、彼等は何の未練もなしに、各自の行くべき途を辿る。何となれば、こちらの世界では交通は物の数でなく、離れていても、立派に相互の胸奥を伝えることが出来るからである。強いてこの法則を破ることは、いたずらに不幸の種子であり、進歩の敵である。霊界の規則は断じてこれを許さない。
問『夫婦というものは、精神的又道徳的には、必ずしも同一線上にいなくても、立派に愛し合っていられると思うが・・・・』
愛する魂-無論相互愛に充たされたる夫婦は、永久に別れてしまうことは出来ない。兎角人間の考は、時間と空間とに拘束されているので、我等の住む世界の真相が、腑に落ち難いようである。愛する魂と魂とは、空間的にはいかに離れていても、実際に於いては、極めて親密に結合しているのである。我等には時間もなければ、又空間もない。無論真の理想的の一致というのは、両者の智能までも、全然同一水平線上にある場合であるが、実際問題とすれば、それは殆ど不可能に近い。魂と魂とが愛情の絆で結ばれていれば、それで立派な夫婦であり、智能的には、必ずしも同一程度であるを要しない。愛はいかなる距離をも結合する力がある。それは幼稚不完全なる地上生活に於いてすら然りである。二人の兄弟が、相互の間を幾千万里の海洋によりて隔てられ、幾年幾十年に亘りて、ただの一度も会見の機会なく、しかもその業務がすっかり相違しているにも係わらず、彼等の間には、立派に愛情が存在し得るではないか。夫婦となれば、その心情は一層不思議で、日頃自分を呵責するばかり、優しい言葉一つかけてくれぬ自堕落の亭主を、心から愛する世話女房が、あちこちに発見される。
無論死は直ちに彼女を奴隷的苦境から解放する。彼女の方では上昇し、これに反して良人の方では下降する。が、愛の絆はこれが為に断絶することはない。同棲はしないが交通はする。距離は地上に於いてすら無視することが出来る。霊界にありてはそんなものは全然存在しない。
(評釈)説明の言葉は簡単だが、この一章は人生の問題に触れており、貴重なる教訓を我等に与えるものである。かの仏教の安価なる一蓮托生説だの、キリスト教の一本調子な偏愛至上説だのは、僅かに真理の一部を掴んだに過ぎざる、甚だしく歪んだもので、到底今後の人類を率いるに足りない。これに比すれば、この章に説かれている所は、まさに天地の相違で、穏健、周到、着実、どこに一点の無理もゴマカシもない。これが一般民衆によりて味読さるるに至った時に、恐らく結婚に伴う幾多の謬想が除かれるであろう。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『夫婦の関係は、死後永遠に続くか?』
趣味と能力-夫婦関係が永続すると否とは、全然趣味と能力とが、均等に発達しているか否かにかかっている。もしも右の二つが揃っていれば、死後の夫婦は互いに手を携えて、向上の途を辿ることが出来る。少なくとも我等の境涯に見出される一対の男女は、趣味と能力とが一致しており、互いに助け合いつつ、進歩の階段を上昇することの出来る人達である。我等には霊的教育が全てである。従って進歩のよすがとなるべき関係以外は、全然その存在を認められない。かのいたずらに地上生活を陰惨ならしめ、いたずらに魂の発達を阻害する人為的束縛は、肉体の消滅と同時に、跡方もなく断絶する。これに反して、魂と魂との一致によりて堅く結ばれたる夫婦関係は、肉体の羈絆(きはん)を脱した暁に於いて、更に一層の強度を加える。二つの魂を包囲する愛の絆こそは、相互の発達を促す最大の刺激であり、従って両者の関係は永遠に伝わって行く。それは過去に於いて、たまたま両者の間に関係があった為というよりも、寧ろ永遠不滅の適合性が、両者の霊的教育に不可欠の要素として役立つからである。こうした場合には勿論地上の夫婦関係は永遠に続くといえる。少なくとも愛の生活が、相互の利益である間は、一緒に住んでいるが、或る時期に達して、別れて住むことが望ましくなれば、彼等は何の未練もなしに、各自の行くべき途を辿る。何となれば、こちらの世界では交通は物の数でなく、離れていても、立派に相互の胸奥を伝えることが出来るからである。強いてこの法則を破ることは、いたずらに不幸の種子であり、進歩の敵である。霊界の規則は断じてこれを許さない。
問『夫婦というものは、精神的又道徳的には、必ずしも同一線上にいなくても、立派に愛し合っていられると思うが・・・・』
愛する魂-無論相互愛に充たされたる夫婦は、永久に別れてしまうことは出来ない。兎角人間の考は、時間と空間とに拘束されているので、我等の住む世界の真相が、腑に落ち難いようである。愛する魂と魂とは、空間的にはいかに離れていても、実際に於いては、極めて親密に結合しているのである。我等には時間もなければ、又空間もない。無論真の理想的の一致というのは、両者の智能までも、全然同一水平線上にある場合であるが、実際問題とすれば、それは殆ど不可能に近い。魂と魂とが愛情の絆で結ばれていれば、それで立派な夫婦であり、智能的には、必ずしも同一程度であるを要しない。愛はいかなる距離をも結合する力がある。それは幼稚不完全なる地上生活に於いてすら然りである。二人の兄弟が、相互の間を幾千万里の海洋によりて隔てられ、幾年幾十年に亘りて、ただの一度も会見の機会なく、しかもその業務がすっかり相違しているにも係わらず、彼等の間には、立派に愛情が存在し得るではないか。夫婦となれば、その心情は一層不思議で、日頃自分を呵責するばかり、優しい言葉一つかけてくれぬ自堕落の亭主を、心から愛する世話女房が、あちこちに発見される。
無論死は直ちに彼女を奴隷的苦境から解放する。彼女の方では上昇し、これに反して良人の方では下降する。が、愛の絆はこれが為に断絶することはない。同棲はしないが交通はする。距離は地上に於いてすら無視することが出来る。霊界にありてはそんなものは全然存在しない。
(評釈)説明の言葉は簡単だが、この一章は人生の問題に触れており、貴重なる教訓を我等に与えるものである。かの仏教の安価なる一蓮托生説だの、キリスト教の一本調子な偏愛至上説だのは、僅かに真理の一部を掴んだに過ぎざる、甚だしく歪んだもので、到底今後の人類を率いるに足りない。これに比すれば、この章に説かれている所は、まさに天地の相違で、穏健、周到、着実、どこに一点の無理もゴマカシもない。これが一般民衆によりて味読さるるに至った時に、恐らく結婚に伴う幾多の謬想が除かれるであろう。
