自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『霊界通信の眼目は何れにあるか?』

 通信の目的-我等の仕事を妨げる障害物は、一にして足りないが、先ず最も当惑するのは、我等の使用する大切な機関-霊媒の頭脳が、神学上の先入的偏見に充塞され、我等の思想を伝えるのに、多大の困難を感ずることである。これが為に我等は、しばしば長大息を禁じ得ぬ。
 次に我等の教に反対する者の中で、最も取り扱い難いのは、実にかの似而非(えせひ)科学者である。彼等は自分自身の媒体を通じてのみ事物を観察し、そして自分自身の条件によりてのみ、事物を評価せんとする。彼等の求むる所は、真理そのものではなく、いかにして霊界人が詐欺漢であり、又いかにして、それが分裂せる頭脳の一断片であるかを証明せんとするかにある。その曇れる眼、その歪める頭脳は、到底我等の伴侶たるに適しない。彼等には、他界との交通の神秘を会得すべき心の深みがない。少数の科学者中には、我等の提示する現象的方面に、注意を払うことを辞せないものもいるが、それは我等の事業の中心眼目ではない。我等の伝えんとするものは、主として魂と魂との交渉であり、又死後に於いて魂の辿るべき宿命の問題である。多年物理学的諸現象の考察にのみ従事せる人達の頭脳は、この種の問題の研究には、適当であるとは言われない。
 同様に困るのはかの無学者-他日充分の準備教育を施した暁には、我等の唱道する所を、咀嚼玩味するに至るであろうが、当分まだ我等の仕事とは没交渉である。
 更に我等が持て剰すのは、いたずらに伝統の儀礼方式に拘泥し、固陋(ころう)尊大、何等精神的の新事実に興味を感ずることを知らざる人達である。物理的心霊現象ならば、或いは彼等に向くかも知れぬ。が、我等の受持ちにかかる霊的通信は、恐らく彼等にとりて一篇の夢物語に過ぎないであろう。
 然り、我等の痛切に求むる所は、以上の如き人達ではなく、これに反して神を知り愛と慈悲とに燃え、やがて自分に落ち着くべき来世生活につきての知識を求むる、素直な魂の所有者である。が、悲しい哉、天賦的に人間に備われる宗教的本能が、いかに烈しく人為的の神学-無智と愚味とがいつとはなしに集積せる、嗤ふべきドグマの為に歪曲され、又阻害されていることであろう!彼等は真理に対して、完全に防衛されたる鉄壁である。我等が神の啓示を口にすれば、彼等は、過去に於いて現れたる啓示を以って完全無欠となし、新しきものを受け納れる心の余地を有しない。もしも我等が、古代の啓示の矛盾を指摘し、何れの啓示も、決して円満具足を以って任ずるものでないことを告ぐれば、彼等はドグマだらけの神学者の常套語などを傭ひ来りて、自家の主張の防衛に努める。要するに彼等は或る特殊の場合に、或る特殊の目的を以って現われたる、古経典の片言隻語を以って、一般的真理なりと思考しているから困るのである。
 全く以って度し難きは、かの盲信の徒である。我等は止むことを得ず、時として何等かの奇跡を以って、我等の使命の實有性を証明すべく試みるが、これも彼等に対して殆ど効果がない。彼等は言う、奇跡の時代は既に過ぎた。奇跡はただ古代の聖者にのみ許されたものである。現在現れつつある奇跡は、実は神の仕業を模倣しつつある、悪魔の欺騙に過ぎない。真理を以って信仰の上に置き、神の御子の絶対性を否定する者は、まさしく魔王の所為に相違ないと。
 我等はかかる論法に接する時に、心から憮然たらざるを得ない。それ等の論者は多くは皆愛と熱とに富める立派な人達である。悲しい哉、彼等には世界の闇を照らすべき進歩的傾向がない。我等は心からそれ等の人達を使って、通信を送りたいのであるが、我等はその前に、彼等の向上前進を不可能ならしむる、盲信と独断の残渣を一掃し去らねばならぬ。
 宗教にして、真にその名に背かぬが為には、必然的に二方面を具備せねばならぬ。他なし一は神に向かい、他は人に向かうのである。我等が出発点に於いて先ず訴えんとする最高の法院は、人類に具わる所の理性である。我等は理性を要求する。何となれば古代の聖者も、ただ理性によりて、それが果たして神の啓示であるか否かを決定したのであった。我等も又理性に訴える。ヘブルユーの預言者を指導した者のみが断じて神の唯一の使徒ではない。我等も又同一の使命を帯びて現代に臨んでいる。
 要するに、我等と彼等とは全然同一である。ただ我等の使命が、一層進歩しているまでである。我等の神と、彼等の神とは、そこに寸毫の相違もない。ただその神性が、一層よく発揮されているだけである。兎に角理性が最後の審判者である。理性を排斥する者は、結局自己の暗愚を告白すると同一である。盲目的信仰は、断じて理性的確信の代理たることは出来ない。信ずべき根底のある信仰と、信ずべき根底のなき信仰とは、決して同一架上のものではない。我等はどこまでも、理性に向かって訴えるものである。我等がいかなる理由で悪魔的であるか?我等の主張が、いかなる点に於いて魔的傾向を帯びているか?これを合理的に証明することが出来なければ、それ等の人達の言説は、ただ一片の空言に過ぎないと謂わねばならぬ。そうした人達が教界の指導者であっては、人生も又禍なる哉である。
 (評釈)今日こそ、英国人士の霊界通信に対する理解が、漸く深まりつつあれど、今から数十年の昔に於ける迫害-殊に既成宗教圑からの迫害ときては、正に狂人の沙汰であった。モーゼスを使役して通信しつつある霊達が嘆息するのも、もっともな次第である。最初はモーゼス自身すらも、決して神学的ドグマから超脱し切れず、何回となく霊達に向かって抗争を試みた位であった。霊達の世迷言は全く同情に値する。
 翻って日本の現状を観ると、今尚暗雲低迷、一方に古経典の講義でもすることが、信仰上の最大急務と思い込んでいるものがあるかと見れば、他方には理性の批判に堪えないどころか普通の常識にも負けるような、愚劣低級な囈語(げいご)を以って、神憑りの産物なりと唱え、大なり、小なり始末に負えぬ特殊部落を作って、神聖なる国土を汚している連中が甚だ多い。モーゼスの背後の霊をして批評させたら、果たして何と言うであろうか?