自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『霊界の指示は、あまりにも正統派の教条と、相反する点が多いと思われるが・・・』
霊界居住者の主張・・・・爾は我等の伝達する教訓が、在来の所謂正統派の教条と、相反する箇所の多きを認め、これに反対の態度を執ろうとするが、これは極めて重大事であるから、重ねて説明を加えようと思う。
宗教-健全なる霊生活-には、そこに明らかに二つの方面がある。他なし、一は神に向かい、一は人に向かう。我等の霊訓は、これにつきて、そもそも何事を教えんとするか?
所謂正統派の教える神は怒り、猜む暴君であったが、霊訓の教える神は愛の神父である。しかもそはひとり名のみの愛ではない。神の一語一行は愛から生まれ、愛によりて動き、そこに、愛にあらざる何物もない。神はその創造物の最下級なものに対しても、常に正しく、常に親切である。
従って霊訓は、この神に対して第三者の贖罪を必要としない。天帝は復讐的に、天則違反者に決して懲罰を与えることもなければ、又罪悪に対して、代理者の犠牲を要求することもない。いわんやこの全能の神が、天界の玉座に鎮まりて、選ばれたる者どもの恭敬に浸ることを歓び、失われたる者どもの、苦悩を見物することを楽しみとするようなことのある筈もない。
然り、我等の教には、かかる擬人説の闖入(ちんにゅう)すべき隙間は何所にもない。神の法則の行使の上から神を考えれば、神は完全であり、純潔であり、愛であり、神聖でありそこに残忍、暴虐、その他人間的悪徳の片鱗をも認めることは出来ない。神は罪悪がそれ自身の中に刑罰を含むことを知るが故に、常に憐憫の眼もて、全ての人の過誤を見、枉(ま)げられぬ道徳律の許す範囲内に於いて、傷付ける者の苦悩を和らげようとする。神こそは実に光と愛の中心である。秩序を保つべく、天則の厳守に当たらるる神、これが我等の崇拝の大目標でなくて何であろう!神は断じて我等の恐怖の対象ではないのである!
我等は汝等の思索想像する以上に、よく神を知っている。が、何人もまだ神の姿を拝したものはない。又我等は形而上的詭弁家の顰(ひそ)みに倣って、あまりにも深入りしたる推理穿鑿(せんさく)に耽ろうともしない。何となれば、そは却って神の根本観念を失はしむるものであることを知るからである。我等は断じて力量以上の、立ち入った穿鑿には与しない。我等は心静かに知識の増進を待っている。汝等も又それを待たねばならぬ。
神と人との関係につきて、我等は細説を避けたい。兎角この事につきても、人間の工夫発明にかかるものが甚だ多く、長き年代の間に蓄積されたる付加物が、中心の真理を隠微している。例えばかの選ばれたる少数者-そうしたものを我等は知らない。選ばれたる者というのには、天地の大道を守りて、自ら救うもの以外には絶無である。
又我等は、盲目的信仰の価値につきては何事も知らない。無論、率直に真理を受け入れ、片々なる疑心暗鬼の煩いから超脱する事は甚だ尊い。それは神心の現れで必ずや天使の守護に浴し得る。が、我等は断乎として、かの有毒な神学的教義を排斥する。それ等の教義が教える、教会のドグマを厳守すれば、地上生活に於ける一再の悪徳邪行から、綺麗に一掃せられて、神の恩寵に浴し得ると・・・。およそ天下にこれ以上に、人の魂を堕落せしむるものはあるまい。
それから又我等は、ただある一つの信仰が有力で、他は全部排斥してよいという理由を、どこにも認めることが出来ない。真理は断じて或る教義教条の独占物ではない。無論何れの教義にも真理の種子はある。が、何れの教義にも誤謬の夾雑物がある。人間がいかなる状況の下に、いかなる信仰形式を採ることになったか、その真相が、我等にはよく判っている。故に我等はこれを軽視はせぬ。が、形式は要するに末で、真理が根源である。優れた霊魂は、皆地上生活中に信奉せる教義から超脱して一路向上の途を辿っている。我等は人間の好む煩瑣なる論議を好まない。我等はかの地上の神学を特色付ける、神秘につきての好奇的穿鑿を求めない。霊界の神学はあくまでも単純で知識的である。我等は単なる暗中模索を尊重しない。我等は宗派的論争には興味を有たない。何となれば、そはただ怨恨、嫉妬、悪意、排他的感情の原動力以外の何物でもないことを知っているからである。
我等が宗教を論ずるのは、宗教が我等と汝等との生活に、直接の関係を及ぼすからである。人間-我等の観る所によれば、人間はやはり不滅の霊魂の所有者であるが-の地上生活は、言わば第一期の所等教育で、ここで簡単なる任務を遂行すへく教えられ、一層進歩せる死後の世界の高等教育に対する準備を整える。彼は幾つかの不可犯の法則によりて支配せられる。もしこれを犯せば、彼を見舞うものは不幸であり、損害であり、もし又これを守れば、彼に訪るるものは進歩であり、満足である。
ここでくれぐれも銘記せねばならぬは、地上の人間が、かつて彼と同じ道を歩める、他界の居住者達の指導下にあることである。それ等の指導者達は、神命によりて、彼を守護すべく特派されているのであるが、その指導に服すると否とは、人間の自由である。人間の内には、常に真理の指示を誤らざる一つの規準が、天賦的に備わっているのであるが、これを無視した時に、いかなる指導者も施すに術はない。脱線と堕落とが伴って来る。全て罪は、それ自身に懲罰をもたらすのであって、外部的の懲罰を必要としない。
兎に角地上の生命は、大なる生命の一断片である。生前の行為と、その行為に伴う結果とは、肉体の死後に於いても依然として残存する。故意に犯せる罪悪の流れは、どこまで行っても、因果の筋道を辿りて消えることがない。これは悲哀と恥辱とを以って償わねばならない。
これと同様に、善行の結果も永遠不滅である。清き魂の赴く所には、常に良き環境が待ち構えており、十重二十重にその一挙一動を助けてくれる。
既に述べた通り、生命は不可分の単一的実在である。それは例外なしに、上へ上へと前進の一路を辿り、そしてそれは例外なしに、永遠不動の法則によりて支配せられる。何人も寵児として特別の待遇に没することなく、又何人も不可抗力の誤謬の為に、無慈悲な刑罰に服することはない。永遠の正義は、永遠の愛と相関的である。慈悲は神的属性ではない。そうしたものは無用である。何となれば、慈悲は刑罰の赦免を必要とするが、刑罰の赦免は、犯せる罪の一切の結果が除き去られた暁に於いてのみ、初めて可能だからである。憐れみは神に近いが、慈悲は寧ろ人間に近い。
我等は、かの全然瞑想に耽りて、自己の責務の遂行を等閑視する、人気取式の信仰心を排斥する。神は断じて単なる賛美を喜納されない。我等は真剣な仕事の宗教熱烈な祈願の宗教、純真な尊敬の宗教を唱道する。人間は神に対し、同胞に対し、又汝自身に対して、全身全霊を捧げて尽くすべき責務がある。かのいたずらに暗中に模索し神学的虚構物につきて好事的詭弁を弄するが如きは、正に愚人の閑事業たるに過ぎない。我等はあくまで、現実の生活に即して教を樹てる。要約すれば左の三部分に分かれる。-
(一)神の認識と崇敬。・・・・神に対する責務。
(二)同胞への貢献。・・・・隣人に対する責務。
(三)イ、自己の肉体を守る。
ロ、自己の知識を開発す。
ハ、真理を求める。
ニ、善行を励む。
ホ、幽明交通を講ず。
(三)・・・・・・・自己に対する責務。
以上の規則の中に、地上の人類に必要なる責務は、ほぼ尽くされている。汝等は断じて、一宗一派のドグマに服従してはならぬ。理性と合一せざる教訓に盲従するのは、人間の恥辱である。所謂啓示の中には、ある特殊の時と場合にのみ適用さるべき性質のものが多いから、無条件にそれに盲従してはならぬ。神の啓示は進歩的であって、特殊の時と、特殊の民族とに限られない。又神の啓示は、未だかつて止んだことがない。神はシナイ山頂で啓示したと同じく、現在も啓示する。しかも人類の進歩につれて、神の啓示も進歩する。
尚ここで忘れてならないことは、一切の啓示が、皆一人の人間を機関として行なわれることである。従ってそれは或る程度、人間的誤謬によって歪められない訳には行かぬ。いかなる啓示も、絶対的純一物でない。かるが故に、或る時代に現われたる啓示が他の時代に現われたる啓示と、全然符合しないと言って、必ずしもその一つを異端視する訳には行かぬ。事によると両者とも正しく、ただそれぞれ別個の適用性を有するのかも知れぬ。全てはただ純正推理の規準に拠りて、取捨選択を加えればよい。道理が赦せばこれを採り、道理が許さねばこれを棄てる-ただそれだけである。もしも我等の述べる所が時期尚早で、採用を憚るというなら、暫くこれを打ちすてて時期の至るを待つがよい。必ずや我等の教訓が、人類の間に全面的承認を受ける時代が早晩到来する。我等は決して焦らない。我等は常に人類の福祉を祈りつつ、心から真理に対する人類の把握力の増大を祈願しているものである。
(評釈)霊訓中でも、この一章に説く所は、特に優れた暗示、優れた示唆に富んでいる。贖罪説の迷妄を説き、天則の厳守を勧め、守護霊の存在を教え、永遠の向上進歩を叫び、人気取りを生命とする一切のトンデモ教団を斥け、又啓示に盲従することの愚を諭す等、正に至れり尽くせりと言ってよい。しかも少しも焦らず、押し売りせず、悠々として人智の発達を待とうとする高風雅懐は、誠に見上げたものである。私は心からこの章の精読を皆様にお勧めしたい。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『霊界の指示は、あまりにも正統派の教条と、相反する点が多いと思われるが・・・』
霊界居住者の主張・・・・爾は我等の伝達する教訓が、在来の所謂正統派の教条と、相反する箇所の多きを認め、これに反対の態度を執ろうとするが、これは極めて重大事であるから、重ねて説明を加えようと思う。
宗教-健全なる霊生活-には、そこに明らかに二つの方面がある。他なし、一は神に向かい、一は人に向かう。我等の霊訓は、これにつきて、そもそも何事を教えんとするか?
所謂正統派の教える神は怒り、猜む暴君であったが、霊訓の教える神は愛の神父である。しかもそはひとり名のみの愛ではない。神の一語一行は愛から生まれ、愛によりて動き、そこに、愛にあらざる何物もない。神はその創造物の最下級なものに対しても、常に正しく、常に親切である。
従って霊訓は、この神に対して第三者の贖罪を必要としない。天帝は復讐的に、天則違反者に決して懲罰を与えることもなければ、又罪悪に対して、代理者の犠牲を要求することもない。いわんやこの全能の神が、天界の玉座に鎮まりて、選ばれたる者どもの恭敬に浸ることを歓び、失われたる者どもの、苦悩を見物することを楽しみとするようなことのある筈もない。
然り、我等の教には、かかる擬人説の闖入(ちんにゅう)すべき隙間は何所にもない。神の法則の行使の上から神を考えれば、神は完全であり、純潔であり、愛であり、神聖でありそこに残忍、暴虐、その他人間的悪徳の片鱗をも認めることは出来ない。神は罪悪がそれ自身の中に刑罰を含むことを知るが故に、常に憐憫の眼もて、全ての人の過誤を見、枉(ま)げられぬ道徳律の許す範囲内に於いて、傷付ける者の苦悩を和らげようとする。神こそは実に光と愛の中心である。秩序を保つべく、天則の厳守に当たらるる神、これが我等の崇拝の大目標でなくて何であろう!神は断じて我等の恐怖の対象ではないのである!
我等は汝等の思索想像する以上に、よく神を知っている。が、何人もまだ神の姿を拝したものはない。又我等は形而上的詭弁家の顰(ひそ)みに倣って、あまりにも深入りしたる推理穿鑿(せんさく)に耽ろうともしない。何となれば、そは却って神の根本観念を失はしむるものであることを知るからである。我等は断じて力量以上の、立ち入った穿鑿には与しない。我等は心静かに知識の増進を待っている。汝等も又それを待たねばならぬ。
神と人との関係につきて、我等は細説を避けたい。兎角この事につきても、人間の工夫発明にかかるものが甚だ多く、長き年代の間に蓄積されたる付加物が、中心の真理を隠微している。例えばかの選ばれたる少数者-そうしたものを我等は知らない。選ばれたる者というのには、天地の大道を守りて、自ら救うもの以外には絶無である。
又我等は、盲目的信仰の価値につきては何事も知らない。無論、率直に真理を受け入れ、片々なる疑心暗鬼の煩いから超脱する事は甚だ尊い。それは神心の現れで必ずや天使の守護に浴し得る。が、我等は断乎として、かの有毒な神学的教義を排斥する。それ等の教義が教える、教会のドグマを厳守すれば、地上生活に於ける一再の悪徳邪行から、綺麗に一掃せられて、神の恩寵に浴し得ると・・・。およそ天下にこれ以上に、人の魂を堕落せしむるものはあるまい。
それから又我等は、ただある一つの信仰が有力で、他は全部排斥してよいという理由を、どこにも認めることが出来ない。真理は断じて或る教義教条の独占物ではない。無論何れの教義にも真理の種子はある。が、何れの教義にも誤謬の夾雑物がある。人間がいかなる状況の下に、いかなる信仰形式を採ることになったか、その真相が、我等にはよく判っている。故に我等はこれを軽視はせぬ。が、形式は要するに末で、真理が根源である。優れた霊魂は、皆地上生活中に信奉せる教義から超脱して一路向上の途を辿っている。我等は人間の好む煩瑣なる論議を好まない。我等はかの地上の神学を特色付ける、神秘につきての好奇的穿鑿を求めない。霊界の神学はあくまでも単純で知識的である。我等は単なる暗中模索を尊重しない。我等は宗派的論争には興味を有たない。何となれば、そはただ怨恨、嫉妬、悪意、排他的感情の原動力以外の何物でもないことを知っているからである。
我等が宗教を論ずるのは、宗教が我等と汝等との生活に、直接の関係を及ぼすからである。人間-我等の観る所によれば、人間はやはり不滅の霊魂の所有者であるが-の地上生活は、言わば第一期の所等教育で、ここで簡単なる任務を遂行すへく教えられ、一層進歩せる死後の世界の高等教育に対する準備を整える。彼は幾つかの不可犯の法則によりて支配せられる。もしこれを犯せば、彼を見舞うものは不幸であり、損害であり、もし又これを守れば、彼に訪るるものは進歩であり、満足である。
ここでくれぐれも銘記せねばならぬは、地上の人間が、かつて彼と同じ道を歩める、他界の居住者達の指導下にあることである。それ等の指導者達は、神命によりて、彼を守護すべく特派されているのであるが、その指導に服すると否とは、人間の自由である。人間の内には、常に真理の指示を誤らざる一つの規準が、天賦的に備わっているのであるが、これを無視した時に、いかなる指導者も施すに術はない。脱線と堕落とが伴って来る。全て罪は、それ自身に懲罰をもたらすのであって、外部的の懲罰を必要としない。
兎に角地上の生命は、大なる生命の一断片である。生前の行為と、その行為に伴う結果とは、肉体の死後に於いても依然として残存する。故意に犯せる罪悪の流れは、どこまで行っても、因果の筋道を辿りて消えることがない。これは悲哀と恥辱とを以って償わねばならない。
これと同様に、善行の結果も永遠不滅である。清き魂の赴く所には、常に良き環境が待ち構えており、十重二十重にその一挙一動を助けてくれる。
既に述べた通り、生命は不可分の単一的実在である。それは例外なしに、上へ上へと前進の一路を辿り、そしてそれは例外なしに、永遠不動の法則によりて支配せられる。何人も寵児として特別の待遇に没することなく、又何人も不可抗力の誤謬の為に、無慈悲な刑罰に服することはない。永遠の正義は、永遠の愛と相関的である。慈悲は神的属性ではない。そうしたものは無用である。何となれば、慈悲は刑罰の赦免を必要とするが、刑罰の赦免は、犯せる罪の一切の結果が除き去られた暁に於いてのみ、初めて可能だからである。憐れみは神に近いが、慈悲は寧ろ人間に近い。
我等は、かの全然瞑想に耽りて、自己の責務の遂行を等閑視する、人気取式の信仰心を排斥する。神は断じて単なる賛美を喜納されない。我等は真剣な仕事の宗教熱烈な祈願の宗教、純真な尊敬の宗教を唱道する。人間は神に対し、同胞に対し、又汝自身に対して、全身全霊を捧げて尽くすべき責務がある。かのいたずらに暗中に模索し神学的虚構物につきて好事的詭弁を弄するが如きは、正に愚人の閑事業たるに過ぎない。我等はあくまで、現実の生活に即して教を樹てる。要約すれば左の三部分に分かれる。-
(一)神の認識と崇敬。・・・・神に対する責務。
(二)同胞への貢献。・・・・隣人に対する責務。
(三)イ、自己の肉体を守る。
ロ、自己の知識を開発す。
ハ、真理を求める。
ニ、善行を励む。
ホ、幽明交通を講ず。
(三)・・・・・・・自己に対する責務。
以上の規則の中に、地上の人類に必要なる責務は、ほぼ尽くされている。汝等は断じて、一宗一派のドグマに服従してはならぬ。理性と合一せざる教訓に盲従するのは、人間の恥辱である。所謂啓示の中には、ある特殊の時と場合にのみ適用さるべき性質のものが多いから、無条件にそれに盲従してはならぬ。神の啓示は進歩的であって、特殊の時と、特殊の民族とに限られない。又神の啓示は、未だかつて止んだことがない。神はシナイ山頂で啓示したと同じく、現在も啓示する。しかも人類の進歩につれて、神の啓示も進歩する。
尚ここで忘れてならないことは、一切の啓示が、皆一人の人間を機関として行なわれることである。従ってそれは或る程度、人間的誤謬によって歪められない訳には行かぬ。いかなる啓示も、絶対的純一物でない。かるが故に、或る時代に現われたる啓示が他の時代に現われたる啓示と、全然符合しないと言って、必ずしもその一つを異端視する訳には行かぬ。事によると両者とも正しく、ただそれぞれ別個の適用性を有するのかも知れぬ。全てはただ純正推理の規準に拠りて、取捨選択を加えればよい。道理が赦せばこれを採り、道理が許さねばこれを棄てる-ただそれだけである。もしも我等の述べる所が時期尚早で、採用を憚るというなら、暫くこれを打ちすてて時期の至るを待つがよい。必ずや我等の教訓が、人類の間に全面的承認を受ける時代が早晩到来する。我等は決して焦らない。我等は常に人類の福祉を祈りつつ、心から真理に対する人類の把握力の増大を祈願しているものである。
(評釈)霊訓中でも、この一章に説く所は、特に優れた暗示、優れた示唆に富んでいる。贖罪説の迷妄を説き、天則の厳守を勧め、守護霊の存在を教え、永遠の向上進歩を叫び、人気取りを生命とする一切のトンデモ教団を斥け、又啓示に盲従することの愚を諭す等、正に至れり尽くせりと言ってよい。しかも少しも焦らず、押し売りせず、悠々として人智の発達を待とうとする高風雅懐は、誠に見上げたものである。私は心からこの章の精読を皆様にお勧めしたい。
