自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『キリストの神性、並にその贖罪に対する信仰が、果たして一片のドグマに過ぎないであろうか?御教訓が高尚で、合理的で、純潔であることに異論はないが、あまりにもキリスト教の趣旨と、相容れない点が多くはないであろうか?』
経典病の弊害-汝の疑惑は、よく我等に理解し得る。前回に説ける所は、単なる輪郭に過ぎなかったから、今回は少し立ち入りて説明を施すことにしよう。
所謂キリスト教の正統派というのは、左の諸点を唱道する人達である。曰く三位一体の一位が、選ばれたる人々を通じて、真理を人間界に伝えるのであるから、その教えは完全円満、永遠不朽に伝うべきである。曰く経典は悉く神自身の直接の言葉であるから、これに対して、一言半句の増減を許さない。もしこれに背けば破門あるのみである。曰く経典の翻訳は、神慮を受けた人達の手によりて成就されたのであるから、翻訳書に対しても、また絶対服従を要する。・・・かかるていたらくでは、経典の片言隻語を捕えて、奇想天外の教義教条が、次第に築き上げられる筈ではないか。
我等の態度は、全然これと選を異にする。我等は、バイブルが人間界に漏らされたる、啓示の集録であることを認め、これを尊重することを知っているが、しかし我等は、これに盲従するよりは、寧ろこれを手懸りとして、神につきての観念の、時代的進歩の跡を辿ろうとする。神は最初アブラハムの良友として、彼の天幕を訪れて食事を共にしながら懇談した。ついで神は人民を支配する大立法官となり、ついでイスラエルの万軍を指揮する大王となり、ついで預言者達の肉体を通じて号令をかける大暴君となり、最後に神は、愛の権化として崇拝の中心とせらるるようになった。これは神そのものの進歩ではなくて、神に対する人間の理解の進歩である。神につきての人間の知識は、永久に完全でない。人間はただ一歩一歩神に近付いて行くまでである。
かるが故に、心から真理を求むる人士のみが、神に関する我等の示教を受け容れることが出来る。一部の人士は、自分達が完全なる知識の所有者であると空想する。我等はそれ等に対して、言うべき何物も有たない。我等が手を加える前に、彼等は前以て神に関し、又啓示に関して、自己の無学であることを学ばねばならぬ。我等の述べる千言万語も、かの無智、自己満足、及び独裁主義の金城鉄壁を貫通する見込みはない。それ等の人達は将来に於いて、苦痛と悲哀との高き代償を払って、彼等の霊的進歩を妨げる先入主と、偏見とから脱却せねばならない。我等は汝の心眼が、これまでの説明で、多少開けていると信ずるから、以下進んで啓示の性質につきての解説を試みることにする。
既に述べた通り、バイブルは、各時代々々に、人間に下されたる神の啓示の集録である。全体を流貫する精神、骨髄に何の相違もないが、いつもその時代の人間が把握し得る程度の真理しか漏らしていない。時代を離れて啓示はないのである。
思え、啓示を漏らすべき道具は、いつも一人の人間である。かるが故に霊媒の思想霊媒の意見の多少混らぬ啓示は、絶対に有り得ない。何となれば、霊界の住人は、霊媒の心の中に見出される材料を運用するより外に、通信の途がないからである。無論出来る限り、それ等の材料に補修改造を施し、且つ真理に対する真見解を、これに注入すべく全力を挙げる。が、何と言っても既成品を使用するのであるから、必ずしも思う壺にはまらぬことがある。大体に於いて霊界通信は、霊媒の心が受身になっておればおる程、又周囲の状態が良好であればある程、純潔性を保つことが出来るのである。試みにバイブルを紐解いてみるがよい。必ずしも平均した出来栄えでない。或る部分には霊媒の個性の匂いがついている。或る部分は憑り方が不完全であった為に、誤謬が混入している。或る部分には霊媒自身の意見が加味されている。なかんずくどの啓示にも、その時代の要求にあてはまる一種の特色があり、そのままこれを他の時代に適用することは出来ないのである。
その然る所以は、各自バイブルにつきて調べれば明瞭となるであろう。一例を挙げれば、かのイシアの啓示などがそれである。何と彼自身の個性の匂いが強烈なことであろう。無論彼も独一の神につきて説いている。
が、それは極度に詩的空想に色彩されたもので、エゼキールの隠喩的筆法とは格段の相違がある。同様にダニエルは光の幻影を描き、ジュレミアは天帝の威力を説き、ホシアは神の神秘的象徴に耽っている。エホバ神に何の変わりもないのであるが、各自その天分に応じて、違った啓示を漏らしている。ずっと後世になりても、その点に於いて何の相違もない。ポーロとペテロとは同一の真理を説きながら、必然的に別の角度からこれを覗いている。どちらの説く所も虚偽ではないが、しかしどちらも真理の一面にしか触れていない。インスピレーションは、神から来る。しかし霊媒は人間である。
人々がバイブルを読んで心の満足を見出すのは、つまり自分自身の心の反映を、バイブルの中に見出すからである。神につきての知識と、理解とが、極めて貧弱である為に、彼等は過去の啓示に満足し、別に新啓示に接して、事故の心胸を拡充しようとは思わない。よし思っても力量が足りない。所謂同気相求め、同類相集まるの筆法で、彼等はバイブルの中から、自分達の理想に協ふ章句を拾い出す。一人の預言者で間に合わなければ、多くの中から、御意に召した箇所を選び出し、御意に召さぬ箇所は勝手に放擲して、ここにツギハギだらけの、自家用の啓示録を製造する。全ての宗派の発生は、つまりはこうした手続きで出来たに外ならない。めいめい最初から自分自身の理想が出来ており、経典の中から選り出した啓示を以って、これを裏書したまでである。ただの一つとして、啓示の全部を承認するものはない。何となれば、啓示全部が首尾一貫したものでないからである。かるが故に、啓示の他の章節を選び出した人達と、鼻を付き合わせた時には、文字の意義を歪曲して、勝手次第な解釈(?)を加えるから、全てがサッパリ訳の分からぬものとなり、折角その啓示を送った霊達、又その啓示を取り次いだ預言者達の真意は、全然損なわれてしまうのである。かくの如くして啓示なるものは、いたずらに宗派的論争の用具と化し、古経典は、空しく各自の気に入った武器を引っ張り出す為の、兵器庫の観を呈してしまった。
兎に角そうした手続きで出来上がった所謂神学が、我等の主張と相容れない所があるのは、寧ろ当然ではないか。我等は神学とは全然没交渉である。神学はまるきり地上の産物である。神学者の教える神の観念は、野卑低劣を極め、そしてその主張は、魂の発達に対して、最も有害なる影響を与える。我等は断じてこれに与しない。我等の使命は、寧ろ既成の神学を撲滅し、これに代わるに、より正しき神の教を以ってすることである。
神につきての観念が、何故にかくも謬っているかに関しては、そこに別な理由がないでもない。それは地上の人類が、元々霊的、象徴的であるべき事物をば、あまりにも文字通りに解釈したことである。地上の人達の、想像だも為し得ざる事柄を通信するに当たり、我々は止むを得ず、人間界の措辞用語を借り、時とすればうっかりして、真意とは大分縁遠い言葉を使ったりする。いかなる霊界通信にも、そう言った短所がある。霊界通信が、文字通りに解釈されてはたまらぬ所以である。一切の啓示は、皆象徴的であると言っても決して過言でない。なかんずく霊界居住者が、神の観念を伝えんとする時に、その傾向が一層強烈である。霊界居住者自身も、神につきて知る所は甚だ乏しい。その結果、それに用いられる文字は、必然的に極めて不完全、極めて不穏当である。精確に神を定義し得た文字は、世界のどこにも見出されない。
ここに鑑みる所があって、我等は神の真理の一部を伝えるべく、新たに特派されたのである。然るに我等の選べる霊媒の心には、既に何等かの定見が出来ている。それ等の一部は全然間違っており、他の一部は半ば正しく、又他の一部は或る程度まで歪曲されている。これを根本的に改造することは到底不可能である。そんな真似をすれば、破壊のみあって建設はないことになる。で、我等は霊媒の固有の意見の中で、最も真実に近いものを捕え、出来るだけこれを培養し、補修して、以って我等の通信の目的に副はせるように仕向ける。無論彼の懐ける独断的意見には、斧鉞を加えねばならぬが、格別害にもならぬ意見は、そのままに棄て置き、自然に彼の心眼の開けるのを待っている。
従って彼の神学上の意見は、依然として、今でも心のどこかに残存するのであるが、ただそれは以前の如く、心の表面に跋扈することがない。我等は言わば、だましだまし彼を通信の用具に使役しているのである。そこに我等の図り知られぬ苦心が存する。
人間界の批評家は、往々霊界通信を以って、霊媒の潜在観念の表現に過ぎないという。それは或る程度当たっていないでもない。何となれば霊媒の意見は、それが無害である限り、大体元のままに保存され、ただ人目につかぬ程度に、幾分修正されているに過ぎないからである。が、有害なる意見は、跡方もなく一掃されていることを忘れてはならない。
大体に於いていえば、我等にとりて、信仰の形式などは実はどうでもよいのである。肝要なのは信仰の生命である。かるが故に、我等はいつも既成の基礎工事を利用し、その上に新解釈を施すべく努力する。全体の輪郭は少しも変わらないが、ただ我等の解釈には新しき生命が流れ、そして虚偽の分子、不健全の要素が、人知れず除かれているのである。
かの贖罪説とても、解釈の仕方によりては立派に生きて来る。汝等はキリストを救世主とし、神の子とし、又罪の贖者とするが、それは人間的解釈で、かの古代ヘブライ人の刻める子牛の像と、何の相違もない。しかしながら、キリストが誠の道の為に自己の生命を棄て、家族を棄て、地上の快楽を棄てて顧みなかった、克己的犠牲行為は、どれだけ人の子を罪より救い、どれだけ人の子を、一歩神に近付かしめたか知れない。その意味に於いて彼を一の贖罪者と言おうとするなら、我等も歓んでこれに左袒(さたん=味方すること)する・・・。
(評釈)主としてキリスト教を中心としての言説であるが、無論これは仏教にも、神道にも、又儒教、道教等にも、悉く当てはまると思う。啓示と霊媒、又啓示と時代との関係を説きて直裁簡明、正に絶好の指針とするに足りる。『インスピレーションは神から来る。しかし霊媒は人間である』-これを忘れた時に、当然その人は経典病患者になる。
一宗一派の発生につきて説く所も甚だ深刻である。これを一読して現在の日本を観る時に、我等は憮然として、長太息を禁じ得ないものがある。
最後に霊媒使用につきて霊達の苦心談、-これも正しく神霊学徒にとりて好参考資料であることは、改めて贅言を要しないであろう。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
問『キリストの神性、並にその贖罪に対する信仰が、果たして一片のドグマに過ぎないであろうか?御教訓が高尚で、合理的で、純潔であることに異論はないが、あまりにもキリスト教の趣旨と、相容れない点が多くはないであろうか?』
経典病の弊害-汝の疑惑は、よく我等に理解し得る。前回に説ける所は、単なる輪郭に過ぎなかったから、今回は少し立ち入りて説明を施すことにしよう。
所謂キリスト教の正統派というのは、左の諸点を唱道する人達である。曰く三位一体の一位が、選ばれたる人々を通じて、真理を人間界に伝えるのであるから、その教えは完全円満、永遠不朽に伝うべきである。曰く経典は悉く神自身の直接の言葉であるから、これに対して、一言半句の増減を許さない。もしこれに背けば破門あるのみである。曰く経典の翻訳は、神慮を受けた人達の手によりて成就されたのであるから、翻訳書に対しても、また絶対服従を要する。・・・かかるていたらくでは、経典の片言隻語を捕えて、奇想天外の教義教条が、次第に築き上げられる筈ではないか。
我等の態度は、全然これと選を異にする。我等は、バイブルが人間界に漏らされたる、啓示の集録であることを認め、これを尊重することを知っているが、しかし我等は、これに盲従するよりは、寧ろこれを手懸りとして、神につきての観念の、時代的進歩の跡を辿ろうとする。神は最初アブラハムの良友として、彼の天幕を訪れて食事を共にしながら懇談した。ついで神は人民を支配する大立法官となり、ついでイスラエルの万軍を指揮する大王となり、ついで預言者達の肉体を通じて号令をかける大暴君となり、最後に神は、愛の権化として崇拝の中心とせらるるようになった。これは神そのものの進歩ではなくて、神に対する人間の理解の進歩である。神につきての人間の知識は、永久に完全でない。人間はただ一歩一歩神に近付いて行くまでである。
かるが故に、心から真理を求むる人士のみが、神に関する我等の示教を受け容れることが出来る。一部の人士は、自分達が完全なる知識の所有者であると空想する。我等はそれ等に対して、言うべき何物も有たない。我等が手を加える前に、彼等は前以て神に関し、又啓示に関して、自己の無学であることを学ばねばならぬ。我等の述べる千言万語も、かの無智、自己満足、及び独裁主義の金城鉄壁を貫通する見込みはない。それ等の人達は将来に於いて、苦痛と悲哀との高き代償を払って、彼等の霊的進歩を妨げる先入主と、偏見とから脱却せねばならない。我等は汝の心眼が、これまでの説明で、多少開けていると信ずるから、以下進んで啓示の性質につきての解説を試みることにする。
既に述べた通り、バイブルは、各時代々々に、人間に下されたる神の啓示の集録である。全体を流貫する精神、骨髄に何の相違もないが、いつもその時代の人間が把握し得る程度の真理しか漏らしていない。時代を離れて啓示はないのである。
思え、啓示を漏らすべき道具は、いつも一人の人間である。かるが故に霊媒の思想霊媒の意見の多少混らぬ啓示は、絶対に有り得ない。何となれば、霊界の住人は、霊媒の心の中に見出される材料を運用するより外に、通信の途がないからである。無論出来る限り、それ等の材料に補修改造を施し、且つ真理に対する真見解を、これに注入すべく全力を挙げる。が、何と言っても既成品を使用するのであるから、必ずしも思う壺にはまらぬことがある。大体に於いて霊界通信は、霊媒の心が受身になっておればおる程、又周囲の状態が良好であればある程、純潔性を保つことが出来るのである。試みにバイブルを紐解いてみるがよい。必ずしも平均した出来栄えでない。或る部分には霊媒の個性の匂いがついている。或る部分は憑り方が不完全であった為に、誤謬が混入している。或る部分には霊媒自身の意見が加味されている。なかんずくどの啓示にも、その時代の要求にあてはまる一種の特色があり、そのままこれを他の時代に適用することは出来ないのである。
その然る所以は、各自バイブルにつきて調べれば明瞭となるであろう。一例を挙げれば、かのイシアの啓示などがそれである。何と彼自身の個性の匂いが強烈なことであろう。無論彼も独一の神につきて説いている。
が、それは極度に詩的空想に色彩されたもので、エゼキールの隠喩的筆法とは格段の相違がある。同様にダニエルは光の幻影を描き、ジュレミアは天帝の威力を説き、ホシアは神の神秘的象徴に耽っている。エホバ神に何の変わりもないのであるが、各自その天分に応じて、違った啓示を漏らしている。ずっと後世になりても、その点に於いて何の相違もない。ポーロとペテロとは同一の真理を説きながら、必然的に別の角度からこれを覗いている。どちらの説く所も虚偽ではないが、しかしどちらも真理の一面にしか触れていない。インスピレーションは、神から来る。しかし霊媒は人間である。
人々がバイブルを読んで心の満足を見出すのは、つまり自分自身の心の反映を、バイブルの中に見出すからである。神につきての知識と、理解とが、極めて貧弱である為に、彼等は過去の啓示に満足し、別に新啓示に接して、事故の心胸を拡充しようとは思わない。よし思っても力量が足りない。所謂同気相求め、同類相集まるの筆法で、彼等はバイブルの中から、自分達の理想に協ふ章句を拾い出す。一人の預言者で間に合わなければ、多くの中から、御意に召した箇所を選び出し、御意に召さぬ箇所は勝手に放擲して、ここにツギハギだらけの、自家用の啓示録を製造する。全ての宗派の発生は、つまりはこうした手続きで出来たに外ならない。めいめい最初から自分自身の理想が出来ており、経典の中から選り出した啓示を以って、これを裏書したまでである。ただの一つとして、啓示の全部を承認するものはない。何となれば、啓示全部が首尾一貫したものでないからである。かるが故に、啓示の他の章節を選び出した人達と、鼻を付き合わせた時には、文字の意義を歪曲して、勝手次第な解釈(?)を加えるから、全てがサッパリ訳の分からぬものとなり、折角その啓示を送った霊達、又その啓示を取り次いだ預言者達の真意は、全然損なわれてしまうのである。かくの如くして啓示なるものは、いたずらに宗派的論争の用具と化し、古経典は、空しく各自の気に入った武器を引っ張り出す為の、兵器庫の観を呈してしまった。
兎に角そうした手続きで出来上がった所謂神学が、我等の主張と相容れない所があるのは、寧ろ当然ではないか。我等は神学とは全然没交渉である。神学はまるきり地上の産物である。神学者の教える神の観念は、野卑低劣を極め、そしてその主張は、魂の発達に対して、最も有害なる影響を与える。我等は断じてこれに与しない。我等の使命は、寧ろ既成の神学を撲滅し、これに代わるに、より正しき神の教を以ってすることである。
神につきての観念が、何故にかくも謬っているかに関しては、そこに別な理由がないでもない。それは地上の人類が、元々霊的、象徴的であるべき事物をば、あまりにも文字通りに解釈したことである。地上の人達の、想像だも為し得ざる事柄を通信するに当たり、我々は止むを得ず、人間界の措辞用語を借り、時とすればうっかりして、真意とは大分縁遠い言葉を使ったりする。いかなる霊界通信にも、そう言った短所がある。霊界通信が、文字通りに解釈されてはたまらぬ所以である。一切の啓示は、皆象徴的であると言っても決して過言でない。なかんずく霊界居住者が、神の観念を伝えんとする時に、その傾向が一層強烈である。霊界居住者自身も、神につきて知る所は甚だ乏しい。その結果、それに用いられる文字は、必然的に極めて不完全、極めて不穏当である。精確に神を定義し得た文字は、世界のどこにも見出されない。
ここに鑑みる所があって、我等は神の真理の一部を伝えるべく、新たに特派されたのである。然るに我等の選べる霊媒の心には、既に何等かの定見が出来ている。それ等の一部は全然間違っており、他の一部は半ば正しく、又他の一部は或る程度まで歪曲されている。これを根本的に改造することは到底不可能である。そんな真似をすれば、破壊のみあって建設はないことになる。で、我等は霊媒の固有の意見の中で、最も真実に近いものを捕え、出来るだけこれを培養し、補修して、以って我等の通信の目的に副はせるように仕向ける。無論彼の懐ける独断的意見には、斧鉞を加えねばならぬが、格別害にもならぬ意見は、そのままに棄て置き、自然に彼の心眼の開けるのを待っている。
従って彼の神学上の意見は、依然として、今でも心のどこかに残存するのであるが、ただそれは以前の如く、心の表面に跋扈することがない。我等は言わば、だましだまし彼を通信の用具に使役しているのである。そこに我等の図り知られぬ苦心が存する。
人間界の批評家は、往々霊界通信を以って、霊媒の潜在観念の表現に過ぎないという。それは或る程度当たっていないでもない。何となれば霊媒の意見は、それが無害である限り、大体元のままに保存され、ただ人目につかぬ程度に、幾分修正されているに過ぎないからである。が、有害なる意見は、跡方もなく一掃されていることを忘れてはならない。
大体に於いていえば、我等にとりて、信仰の形式などは実はどうでもよいのである。肝要なのは信仰の生命である。かるが故に、我等はいつも既成の基礎工事を利用し、その上に新解釈を施すべく努力する。全体の輪郭は少しも変わらないが、ただ我等の解釈には新しき生命が流れ、そして虚偽の分子、不健全の要素が、人知れず除かれているのである。
かの贖罪説とても、解釈の仕方によりては立派に生きて来る。汝等はキリストを救世主とし、神の子とし、又罪の贖者とするが、それは人間的解釈で、かの古代ヘブライ人の刻める子牛の像と、何の相違もない。しかしながら、キリストが誠の道の為に自己の生命を棄て、家族を棄て、地上の快楽を棄てて顧みなかった、克己的犠牲行為は、どれだけ人の子を罪より救い、どれだけ人の子を、一歩神に近付かしめたか知れない。その意味に於いて彼を一の贖罪者と言おうとするなら、我等も歓んでこれに左袒(さたん=味方すること)する・・・。
(評釈)主としてキリスト教を中心としての言説であるが、無論これは仏教にも、神道にも、又儒教、道教等にも、悉く当てはまると思う。啓示と霊媒、又啓示と時代との関係を説きて直裁簡明、正に絶好の指針とするに足りる。『インスピレーションは神から来る。しかし霊媒は人間である』-これを忘れた時に、当然その人は経典病患者になる。
一宗一派の発生につきて説く所も甚だ深刻である。これを一読して現在の日本を観る時に、我等は憮然として、長太息を禁じ得ないものがある。
最後に霊媒使用につきて霊達の苦心談、-これも正しく神霊学徒にとりて好参考資料であることは、改めて贅言を要しないであろう。
