自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

問『あなた方の所説は、甚だ合理的と考えられるが、千八百年に亘りて、我等の心胸に浸み込まされた信条の放棄は、非常な重大事である。願わくばもっと明確な証左を御願いしたい』

 宗教の真義-友よ、汝の熱心な疑惑は、我等にとりて、この上もなき福音である。単なるドグマに捕えられず、あくまで合理的に真理を求めんとする心掛け-それでなければ神慮には協はない。我等は心から、そうした態度を歓迎する。我等の最も嫌忌するのは、そこに何等の批判も考慮もなしに、ただ外面のみを扮装した、似面非(えせひ)人物に似面非言論を鵜呑みにせんとする、軽信家の態度である。我等はかかる軽信家の群に対して、言うべき何物もない。同時に我等の手に負えぬは、かの沈める沼の如き、鈍き、愚かなる心の所有者である。我等の千言万語も、遂に彼等の心の表面に、一片のさざ波さえ立たせ得る望みはない・・・。
 さて汝の提出した疑問-我等としては、これに証明を与えるべく全力を傾けるであろうが、ある地点に達した時に、それ以上は、いかにしても実証を与えることが不可能である。汝も熟知する通り、我等は到底打ち勝ち難き、不利な条件に縛られている。我等は既に地上の住人でない。かるが故に、人間界の法廷に於いて重きを為すような、証拠物件を提示し難き場合もある。我等は、只我等の力に及ぶ証明を以って、汝等の考慮に供するに留まる。これを採用すると否とは、偏に汝等の公明正大なる心の判断に任せるより外に道がない。
 我等の所説を裏書するのには、或る程度まで、霊界に於ける我等の同志の経歴を物語るより外に途がない。これは証明法として不充分であるが、何とも他に致し方がないのである。我等は、地上生活中の自己の姓名を名乗り、そして自己と同時代の性行閲歴につきて、事細やかに物語るであろう。さすれば、我等が決して偽物でないことは幾分明白になると思う。事によると、汝はそれだけの証明では不十分であるというかも知れぬ。成る程狡猾なる霊界人が、欺瞞の目的を以って、細大の歴史的事実を収集し得ないとは言われない。が、到底偽り難きは、各自に備わる人品であり風韻である。果実を手懸りとして、樹草の種類を判断せよとは、イエス自身の教える所である。トゲのあるブドウや、無花果はどこにもない。我等が、果たして正しき霊界の使徒であるや否やは、我等の試みる言説の内容を以って、忌憚なく批判してもらいたい。
 これ以上、我等はこの問題に掛かり合っているべき勇気を有たない。我等の使命は、地上の人間の憐憫を乞うべく、あまりにも重大である。我等の答が、まだ充分腑に落ちかぬるとあらば、我等は我等の与える証明が、得心の出来る日の到来を心静かに待つであろう。我等は断じて、今直に承認を迫るようなことはせぬ・・・。
 我等がここで是非指摘したいのは、現世人に通有の一つの謬想である。人間はしきりに各自見解に重きを置こうとするが、我等の眼から観れば、そうしたものは殆ど全く無価値である。人間の眼は、肉体の為に蔽われて、是非善悪を審判する力に乏しい。霊肉が分離した暁に、この欠陥は初めて大いに除かれる。従って人間の眼で、何より重大視さるるものが、我等の眼を以って観れば、一向取るにも足らぬ空夢、空想である場合が少なくない。これと同時に、各派の神学、各種の教会の唱えつつある教義が、その根底に於いて、格別違ったものでもないことが、我等の眼にはよく映るのである。
 友よ!宗教なるものは、決して人間が人為的に捏造したような、そう隠微不可解な問題ではない。宗教は地上の人間の狭隘(きょうあい)なる智能の範囲内に於いて、立派に掴み得る問題なのである。かの神学的揣摩憶測や、かの独断的戒律、並に定義は、一意光明を求むる、哀れなるものどもを苦しめ、惑わせ、彼等をして、ますます無智と迷信の雲霧の中に迷い込ましむる資料としか思われない。迷信の曲路、無智の濃霧-これ等はいずれの世にありても、常に求道者を惑わせる。又人間の眼から観れば、同一宗派に属するものの信仰は、皆同一らしく思われるであろうが、元々彼等は、暗中に模索しているのであるから、いつの間にか、めいめい任意の解釈を造り、従って我等の眼から観れば、多くの点に於いてめいめい違った見解を有っている。真に迷霧が覚めるのは肉の眼が閉じる時、換言すれば、地上生活が終わりを告げる時で、そこで初めて地上の教会、地上の神学の欺瞞に気が付き、大至急訂正を試みることになるのである。進歩性の霊魂は、決して呉下(ごか)の阿蒙家(あもうか)ではない。かの頑迷不霊のみがいつまでも現世的迷妄の奴隷として残るのである。
 記せよ、真理は決してある特殊の人間、ある特殊の宗教の特権でも何でもない。真理は古代ローマに於いて、鋭意肉の開放を企求した、アテノドーラスの哲学の中にも見出される。又真理は来世の存在を確信して、地上生命の棄却を意としなかった、アポクタスの言説の中にも見出させる。又真理の追窮は、かのブローテイナスをして、早くも地上生活中に、よく超現象の世界に遊ばしめ、更に真理の光明は、かのアレッサンドロ・アキリニイをして、よく烈々として、人を動かす熟語を吐かしめた。かるが故に、これ等の霊界居住者達は、今や互に共同一致して真理の宣揚、顕幽一貫の神霊主義的運動の為に、かくは汝を交通機関として、真剣な活動を試みつつあるのである。これ等の人達にとりて、地上生活時代の意見の如きは、殆ど問題でない。それ等は夙(しゅく)の昔に振り捨てられ、生前の僻見などは、最早どこにも痕跡を留めない。無論これ等の人達は、既に地上とは綺麗に絶縁してしまい、彼等の墓石の上に、哀悼の涙を注ぐものなどは、最早只の一人もない。彼等には再生の機会は全くなく、要するに彼等は、純然たる霊界居住者なのである。然しながら、彼等がかつて鏤(ちりば)めたる宝玉は、歳と共に光輝を加えて、不朽の生命を有っている。この魂の光、この魂の力こそは、実に今日彼等をして、協力して地上人類の純正高潔なる霊的教育-より高く、より清き真宗教の普及の為に、精進努力せしむる所以なのである。
 我等は信ずる、沈思熟慮の結果は、必ず汝をして、我等の主張の合理性を承認せしむるに相違ないと。これに対する絶対的証明は、地上生活中には到底獲られぬであろうが、何れその中汝も又死線を越えて、我等の仲間入りをするであろう。その時こそ、最早嘘も事実もない。それまでは暫く間接的証明の蓄積によりて、一歩々々自己の信念を固められたい。自己を裁くと同一筆法を以って他を裁けば、決して間違いは起こらない。それが審神の要訣である。
 (評釈)進歩せる神霊界の使徒との交通感応こそ、真宗教の骨子である。これがある時に、初めて宗教に生命が湧き、これがない時に、宗教商人の跋扈となる。但しくれぐれも看過してならぬことは、相手の霊界居住者の正否善悪に対する審判である。この点に於いて本章の説く所は正に我等に絶好の指針を与えるものである。