自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 人間は果たして何れより来り、何れに向かって去るか?-これは古来多くの驚くべきスペキュレエションの材料となった題目であるが、しかしながら、何故に人間が創造されたか、何故に物質的宇宙が、永遠に大空を横切りて旋転しつつあるか、又何故にその原質がただ姿を変えるのみで、毫末(こうまつ)も消滅することがないのか、等の諸問題を真正面から解決せんと試みたものは極めて少なかった。
 『目的のなき大きな機械』-これは実に十九世紀の科学者達が、宇宙に向かって書き下ろした碑銘である。これには『何故か』の疑問を挟むべき余地がない。従ってそこには目的成就がない。物質のみが唯一の実在であり、そして運動と生命の、無気味にして単調なる機械的ドラマが、無際限に演出されつつあるということになる。
 無論真理は何人にも捕え難い。が、右の不景気千萬な結論を下した人達に至りては極度に真理を捕え損ねていると思う。心が有形の物質を離れて立派に存在することさえ承認出来れば、生存の神秘に対して何等かの意義を発見することは、決して絶望ではないと信ぜられる。
 先ず我々は出来るだけ簡潔な言葉で、この宇宙の永遠の謎に定義を下したい。不取敢我々は次の諸項を、学術的仮説として採用したい。即ち-
 一、仮相と実相とがある。
 一、大別すれば物質、魂、霊の三つの相がある。
 一、表現あれば必ずその根源がある。
 一、神とは即統一原理である。
 一、物質は微より極微へと無限に分解する。
 一、全て再び霊に返る。
 右に述べた霊(スピリット)とは、結局大我から岐えた小我、個々の有する最奥の心のことである。小我には勿論個性がある。しかしそれは人間的意義の個性ではない。創造者と何等かの区分性を有っているという意味の個性心しかない。換言すれば、ただ本来の相違である。本源に繋がれている末梢なのである。
 かの神秘論者は、好んで自己内在の神を説きたがるが、これは全然謬見である。『神』は無上の心であり、あらゆる生命の背後に控える大精神であり、一切の存在の出発点たる大本体である。宇宙の歴史に於けるあらゆる行為、あらゆる思想、あらゆる事件は、皆この大本体の中に含まれている。万能の観念はそこから生じた。然るに自己の霊を指して『神』とするのは許し難き僭越(せんえつ)である。
 大我から岐れ出でたる、これ等無数の霊-小我は何れも皆同一物でない。そして我等の殆ど凡ては、最初は単純素朴なる萌芽でしかない。彼等が完成の域に達するまでには限りもなき表現形式をとりて、無数の経験を自己に集積せねばならぬ。それなしに完全なる智慧は到底獲らるべくもない。が、一旦全ての完了した暁には、彼等はここに初めて神的属性を獲得し、一切を超越して大我の中に入り、宇宙の大本体の一部となるであろう。
 かるが故に宇宙萬有の出現の理由は、これを『霊の進化』という言葉に包含されると思う。不自由の中に、束縛の中に、自己の理想の完成を求むる所の発達が行なわれるのである。即ち霊は何等かの形を執ることによりてのみ、円熟大成を期し得るものである。我々の出生もこれが為であり、我々が幾多の世界、幾多の境涯を通過せねばならぬのも、又これが為である。同時に又物的宇宙に間断なく生長し、拡張して、一層充分なる活動の舞台を小我に与えるのである。
 繰り返して言うが、萬有存在の目的は、程度と種類を異にせる各種各様の『物』の中に、『心』が進化を遂げることである。心は表現によりて発達するのであるが、宇宙は無限に拡張進展するから、心も同様に無限にその威力を増大し、かくて実在につきての真の観念が獲得される。地上に宿るところの小精神は、神の表現の中にありて最低級のものである。彼等は出来るだけ早く、有意義なる統体の一部たることを学ぶべきである。
 (評釈)マイヤースが宇宙人生の目的を霊の進化と観じ、又心と物との相対関係も、いとも明瞭に道破したことは当然の事ながら、快哉を叫ばざるを得ない。従来欧米人士の言説には、しばしばこの点につきての誤謬があり、我々をして眉を顰(ひそ)めしむるものがあったが、ここに至りて初めて溜飲の下がるを覚える。又マイヤースが一部の神秘論者の迷妄を説破しているのも頗る痛快である。神は自己の内にあるだの、自己は神なりだのという言葉は、兎角秩序と階梯を無視し、従って進化の法則に外れた、精神的○(漢字不明)睡剤となる傾向が非常に多い。これを標語としている宗教者流、霊術者流、何れも揃いも揃って、皆純然たる穀粒しに終わるのを観れば、思い半ばに過ぎるであろう。マイヤースの所謂『神の表現の中にありて最低級』である所の地上の人間は、これからが勉強のしどころ、修行のしざかりである。然るに碌に勉強も修行もせず生青白い顔をして、自分は神だと済ましこむに至りては、全く以って沙汰の限りである。