自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 肉体に包まれて現世の旅を続ける男女は、言わば大地と大空との中間に懸けられた階段を昇りつつあるようなものである。彼等は二つの神秘-『生』と『死』との中間に彷徨っている。下方を覗くのも気味悪いが、上方を仰ぐのも又眼が眩む。で、通例は自己の踏みつつある足場にのみ注意を払って、踏み外さぬ用心に一生懸命である。従って彼等の中の最も優れたものでさえ、その眼界は通例極めて狭く、五、七十年の人生の行路の前と後とに広がれる地域につきては、殆ど何等考慮を費やすの余裕を持っていない。
 死の関門を通過した無数の霊魂達とても又同様である。無論彼等にとりて人生の意義は遙かに高まり、且つ大規模にもなっている。が、旧態依然、彼等も尚神秘と神秘との中間に懸かっている。従って霊界の通信の多くは、単にその人の置かれたる身辺の実況の描写たるに留まり、深く人生を指導すべき、深みも鋭さも具えていないのを通例とする。
 試みに私が一弁護士の傭書記の地位に自身を置いて、死後の世界の描写を試みたと仮定する。法律書記であるから、法律事務以外の事は殆ど何事も知らない。従ってよし彼が他界に目が覚めたところで、その報告する所は、結局現在の俗務の続き、もしくはその複写以外であることは出来ない。何となれば彼の心の眼には、それだけの感受性しか具えていないからである。無論長年月を閲する暁には、この人物にも霊的意識が開けて来るが、私の知れる限り、この種の人物は通例地上に向かって通信を送ろうとはせぬものである。彼は自分自身の心の貧しさをよく自覚している。彼には到底霊媒から借りた地上の用語を以って、死後の世界の驚嘆すべき状況を描写すべき力量がない。従ってこの種の人物は永久に沈黙を守り、死の黒幕に彼方からのくしびな響き-神の無限の想像の中に秘められたる内面の世界の音信-をば少しも漏らさぬことになるのである。
 右の如き人物は、実に他の無数の平凡人の代表者である。彼は自己の特殊の業務の遂行には、少しも差し支えなき俗人の典型で、人生の窮極の目的が何であるかは、只の一度も考えてみる余暇もなければ又能力もない。目隠しされて目的地点に走る駄馬と同様に、彼の一生は揺り籠から墓場へと、ただ一筋に走ったまでである。その生涯は単調そのもので、何等目星き出来事もなく、月並極まる喜怒哀楽の繰り返しに過ぎない。が、研究題目として、こう言った人物の他界に於ける生活こそ大切であると思う。何となればこの種の人物が、人類の大部分を占めるからである。
 所で、ここに疑問が起こる。この種の人物は死後一転瞬にして、偉大高邁なる大預言者になるか?それとも人間の所謂進化の法則に従いて、一歩々々向上の途を辿るか?
 もしも彼氏が死によりて一躍大預言者、又は大天才に早替わりしたとすれば、それは全然別人格であって、元の彼氏ではない訳であるから、死後の生存ということは成立せぬことになる。やはり彼氏は彼氏として、牛の歩みのノロノロした進化の道程を踏み行くのが当然であり、又事実でもある。死後の世界につきての彼氏の見解は元のまま狭く、又その好きも嫌いも元の通りの特色を帯びている。これを一言にして尽くせば、彼氏は死んでもやはり生前の彼氏なのである。この種の人物に向かって、高尚にして霊的な生活を望むのは、そもそも無理な注文である。彼氏は精神的にはまだおしめに包まれた幼児である。従って死後の世界でこの種の人物を取り扱うのは、丁度現世で赤ん坊を取り扱うのに酷似している。成るべく強い風にも当てないで、大事に看護介抱を加えてやると言った按配なのである。
 死後彼等はまず過去の記憶の快き夢に浸るのを常とする。それが究極の目的でも何でもない。そうした期間に、次第に前進向上の英気と能力とを培養されるのである。
 無論優れた霊魂-教会人はこれを天使等と呼ぶが、私から言えば単に賢い魂に過ぎない-はそういった下らない夢幻境に置かれるようなことはない。彼は稀薄精妙なるエーテル体に包まれて、広大無辺なる空間を縦横自在に駆け回り、驚くべき活発な生活を営むのである。が、普通平凡の霊魂達が、そうした境涯に置かれたら、一度に眼が眩んで気絶してしまう。
 かくいう私などは、ホンの少しばかり普通よりも進歩した境涯に置かれて居るので、平生死の関門の所に控えて新来者の見張り役、案内役を務めることになっている。途中二、三の準備的境地を経て、やがて我々が新来者を案内するのは、決まり切って夢の国、記憶の国である。何人にも自分自身の中に、その地上生活の全部を回想し得る能力が備わっている。そして彼の渇望するのは日頃親しめる環境であって、決して現世離れのした瑠璃のうてなや、金銀の調度でも何でもない。平常見慣れた地上の山河-それが懐かしくて仕方がない。無論そんなものが実際的には幽界に存在しない。が、本人が望めば、それ等の幻影は自由自在に出来上がる。
 それなら何人がそう言った幻影を造ってくれるのか。外でもない、それは優れた霊界居住者達の役目である。彼等は容易に、新来者が日頃地上で親しめる光景を具象化する能力を有っている。その原本は勿論新来の霊魂達の記憶の中に見出される。が、単に原本の複写に止めるというような、下手な真似は決してしない。或る程度までこれを理想化し、日頃地上で見慣れた光景に似てはいるが、しかしそれよりも遙かに美しい景色を造り、その中に新来者を置くのである。夢の国、記憶の国は決して実在の世界ではない。が、新来者自身にとりて、それは立派な実在境に相違ない。ここで彼は日頃愛せる親戚故旧とも会合して、情話を交えることにもなるのである。
 前にも述べた通り、この夢の国、記憶の国こそ、実に平凡人の為に設けられた一の保育場である。弱々しい植物の若芽を育てる為の温床であり、そしてその園丁の役目を務めるのが、とりも直さず優れた霊魂界居住者-先達連なのである。
 夢の国、記憶の国はかく大体に於いて地上生活の複写ではあるが、しかし又地上生活と相違した箇所もある。なかんずく顕著なのは業務の相違である。ここには地上生活に於けるが如き機械的の業務がない。地上生活にありては人間は肉体の奴隷であり、従って『暗』の奴隷であった。ところがここでは、食物並にその相当物件である所の金銭の要求が全然ない。ここでは食物に相当する無形の栄養素が、無尽蔵に存在している。これでは何人も『光』の従僕たらざるを得ない。換言すれば生計の為にあくせくしないで、極めてのんびりした気分で、恣(し)に心の糧を貪ることが出来るのである。
 地上生活で一番恐ろしかったのは飢であった。ところが、その飢の心配が失せたというのは、何と素晴らしい特徴ではあるまいか!
 が、食物以外にも、まだまだ考えねばならぬ大切な要件がある。飢の次に来るのが『性』の問題である。この性の要求までが、果たして肉体の崩壊と同時に消失したか?
 これに対する私の答は大体に於いて『ノー』である。性欲は決して肉体と共に消失はしない。が、その発展の様式が変わっている。これはこの過渡期に於いて解決を要する最大要件の一つである。
 性的欲望にも色々の種類があり、従って一般にも言われないが、ここに一例として、試みに地上生活中に淫蕩な性的経歴を有する男(又は女)の場合を挙げることにする。全て肉体を失った者の心の働きは、一層先鋭化するを常とするので、従って死後の淫蕩心は、生時よりも一層強烈である。そして淫蕩心は淫蕩心を呼ぶことが、地上よりは遙かに自由な為に、ここに性的楽園ともいうべきものが出現する。記憶の及ぶ限り、想像の及ぶ限りの淫蕩な相手が無数に集まって、痴態の限りを尽くすことが出来るのである。地上とは異なって金銭も要らない、努力も要らない、警戒も要らない、又見栄や外聞の顧慮も要らないのである。
 それがあまりにも容易であり、安価であり、又豊富でもあるので、ここに必然的に襲来するのが恐ろしき飽満感である。飽満の極は決まり切って嫌悪となる。いかなるその道の猛者でも、最後には必ずウンザリする。努力の伴わぬ満足には決して永続性がない。ところが、ここに甚だ困るのは、厭で厭で堪らぬ淫蕩の相手が、容易に離れようとしないことである。糯(もち)にかかった小鳥のように、もがけばもがく程ますます粘着する。
 こんな次第で、『夢幻界』の最終の状態は、ダンテの所謂煉獄的境涯である。およそ天下に何が苦痛だと言っても、飽満の苦痛程深刻なのはない。不満足も苦痛であるが、満足の苦痛は更にそれ以上である。
 勿論これはホンの一例に過ぎぬ。全てを律する一つの通則というべきものはなく何人も『冥府』及び『夢幻界』に於いて、それぞれ異なった方式の試練に会うのである。で、中にはその欲望を満足すべき何等の機会を与えられないのもある。例えば冷酷にして利己的な人物の中には、往々暗く寂しい所に縮まり込み、欲望満足の快夢に耽ることを許されないでいるのを見出す。つまり死の打撃が、一層彼を内へ内へと追い込んだのである。『万事休す』-彼は死の瞬間にそう思い込んでしまった。従って彼は外界との一切の接触を失ってしまった。こんな人物はその陰惨な損失の観念が抜けない限り、いつまでも暗黒の夢魔の中から脱出し得ないであろう。
 兎に角大概の人の魂は、暫くは夢幻の状態に生活するを常とする。人類の大多数はその死に際して、物質が実在であるという観念にあまりにも強く支配されている。彼等には新生活に対する心の準備が充分に出来ていない。彼等は猛烈に地上の生活を理想化したような境涯を望んでいる。かるが故に、彼等の生活欲というのは、結局過去の生活を生活することである。これでは私の所謂夢幻界に入るより外に途がないではないか。彼等は地上生活に於いて、上等な葉巻を喫(の)みたく思った。夢幻界では只でその葉巻が喫める。彼等は地上生活に於いて思う存分ゴルフを遊びたく思った。これも容易に夢幻界が満足させてくれる。が、これはただ最も強烈な地上の欲望が生める、空夢以外の何物でもあり得ない。暫くすれば、この果無(はかな)き快楽は彼等を満足し得なくなる。その時こそ彼等が考える時、新しき未知の世界を望む時である。かくていよいよ向上飛躍の準備が成りて、今迄の愉快なる、しかし甚だ茫漠たる夢が俄然として消える。
 (評釈)帰幽後に於ける平凡人の境涯がどんなものであるかを、極力説明しようと試みているところが甚だ嬉しいと思う。霊媒を通じての通信のこととて、その表現法は頗る蕪雑で、冗漫であるが、マイヤースが何を言わんとしているかは充分に諒解される。兎に角一段の高所から達観する人物にして、初めて道破し得る貴重なる通信であることに何人も異存はないであろう。