自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
霊魂が意識の階段を降りる代わりに、成るべく上方に昇ろうと心掛けるようになると、従来とは打って変わった新しい知覚、新しい能力が授けられる。
地上生活にありては、平凡人の平凡なる自我は、主として肉体の欲求によりて支配せられ、霊的の閃きは、極めて稀に人間の頭脳の闇を照らす位のものである。それが自我に与える印象たるや甚だ微弱である。ところが第四界となると、ずっと強烈に魂の深部に透徹する。何にしろその知能が地上の人間よりは遙かに鋭くなっているので、感受性も加わり、又精神統一の力量も増している。その間地上生活の記憶などはしばしば放擲(ほうてき)され、専ら新しき世界の生活に没頭する。無論魂がまだ形態を離れぬ間は、宇宙の律動に服するので、従って彼は或る形式の『時』の支配を受ける。即ち『時』と『形』とが一つの象徴(シンボル)となって彼を支配するのである。
一面から言うと、この色彩界は『形像の破毀』の時代ともいえる。意識のこの階段に於いて、彼は無数の経験の結果、あらゆる物体のいかに夢幻的であるかを知り、次第に形態の統制が上手になって来る。最初は形態によりて左右され勝ちであるが、次第に上魂の活用によりて、任意に自分の姿を破毀し、同時に又一切の周囲の形態から離脱することをも覚えて来る。
無論器量次第で、各自の経験には雲泥の相違があるのは言うまでもない。優秀な『魂の人』はどしどし向上進歩するが、多くの平凡人は、生みのうねりが高くも又低くもなるように、容易に目立った進歩は出来ない。しかしそれでも幾分ずつは前進する。
さて優れた『魂の人』が何より先に感ずるのは、自分の置かれた世界が、千万無量の色と、光と、音との不思議な世界であることである。そこには人体とは全然異なった形態が見出される。それは想像だも及ばないような光と色との合成体で、その輪郭は意識の深所に印象された、その人物の過去の行為によりて様々に違う。したがってそこには、世にも珍怪不思議を極めた姿もあれば、又世にも優婉(ゆうえん)美麗を極めた姿もある。醜の極、怪の極、美の極、麗の極、それは到底筆舌に尽くす限りでない。
この多彩の世界では、どの姿も皆極度の烈しさを以って振動している。これは心がそれ自身を直接形の上に現すからである。従って我々は、他人の思想を聴き取ることが出来る。最初は一時に一人だけだが、暫くすると、極めて分明に一時に多数の思想を聴き取り得る。或る意味に於いては、それは地上と同じく形態の世界であるが、ただこの形態の世界は、その規模が比較にならぬ程巨大であり、そしてこれを受け取る『魂の人』の性質次第で、いかようにも感ずる。慨して全ての物が、地上に比して遙かに流動性を帯び、非実体的である。
この多彩界を養う光と生命とは、地上のそれ等に比して遙かに純潔であり、その振動数も途方もなく迅い。従ってもしも『魂の人』が、強烈なる敵意を懐いて他を呪えば、光と色とで出来上がった相手の体は、或る程度壊滅もし兼ねない。なのでこの世界では、防衛光線を造る方法が講ぜられるのである。かつて現世生活中互いに憎み合ったりしたものが、もしもこの世界で会合したとすれば、必ず昔の憎念が呼び覚まされるので油断がならない。何となれば愛も憎しみも、共にその関係者を引き寄せる働きがあるからである。こうして各自は、永遠の綴織の中に、間断なくそれぞれ特殊の模様を織り込んで行く。
こんな次第で、各自はその世界に於いて、再び喜怒哀楽を経験するのであるが、無論地上の喜怒哀楽とは趣を異にする。それは一層精巧であり、又一層精神的であり、その欲求が大きければ大きい程、遂げられぬ時の失望も、又遂げた時の満足も共に比較にならぬ程強大である。
(評釈)私の所謂幽界生活の中堅ともいうべき境涯の模写である。説いて必ずしも尽くしているとは言い得ないが、心を潜めて玩味すれば、さすがに棄て難い箇所がある。この界の住人を光と色との合成体であると説き、他人の思想を聴き取ることが出来ると説くあたり、さすがに要領を得ていると思わせる。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
霊魂が意識の階段を降りる代わりに、成るべく上方に昇ろうと心掛けるようになると、従来とは打って変わった新しい知覚、新しい能力が授けられる。
地上生活にありては、平凡人の平凡なる自我は、主として肉体の欲求によりて支配せられ、霊的の閃きは、極めて稀に人間の頭脳の闇を照らす位のものである。それが自我に与える印象たるや甚だ微弱である。ところが第四界となると、ずっと強烈に魂の深部に透徹する。何にしろその知能が地上の人間よりは遙かに鋭くなっているので、感受性も加わり、又精神統一の力量も増している。その間地上生活の記憶などはしばしば放擲(ほうてき)され、専ら新しき世界の生活に没頭する。無論魂がまだ形態を離れぬ間は、宇宙の律動に服するので、従って彼は或る形式の『時』の支配を受ける。即ち『時』と『形』とが一つの象徴(シンボル)となって彼を支配するのである。
一面から言うと、この色彩界は『形像の破毀』の時代ともいえる。意識のこの階段に於いて、彼は無数の経験の結果、あらゆる物体のいかに夢幻的であるかを知り、次第に形態の統制が上手になって来る。最初は形態によりて左右され勝ちであるが、次第に上魂の活用によりて、任意に自分の姿を破毀し、同時に又一切の周囲の形態から離脱することをも覚えて来る。
無論器量次第で、各自の経験には雲泥の相違があるのは言うまでもない。優秀な『魂の人』はどしどし向上進歩するが、多くの平凡人は、生みのうねりが高くも又低くもなるように、容易に目立った進歩は出来ない。しかしそれでも幾分ずつは前進する。
さて優れた『魂の人』が何より先に感ずるのは、自分の置かれた世界が、千万無量の色と、光と、音との不思議な世界であることである。そこには人体とは全然異なった形態が見出される。それは想像だも及ばないような光と色との合成体で、その輪郭は意識の深所に印象された、その人物の過去の行為によりて様々に違う。したがってそこには、世にも珍怪不思議を極めた姿もあれば、又世にも優婉(ゆうえん)美麗を極めた姿もある。醜の極、怪の極、美の極、麗の極、それは到底筆舌に尽くす限りでない。
この多彩の世界では、どの姿も皆極度の烈しさを以って振動している。これは心がそれ自身を直接形の上に現すからである。従って我々は、他人の思想を聴き取ることが出来る。最初は一時に一人だけだが、暫くすると、極めて分明に一時に多数の思想を聴き取り得る。或る意味に於いては、それは地上と同じく形態の世界であるが、ただこの形態の世界は、その規模が比較にならぬ程巨大であり、そしてこれを受け取る『魂の人』の性質次第で、いかようにも感ずる。慨して全ての物が、地上に比して遙かに流動性を帯び、非実体的である。
この多彩界を養う光と生命とは、地上のそれ等に比して遙かに純潔であり、その振動数も途方もなく迅い。従ってもしも『魂の人』が、強烈なる敵意を懐いて他を呪えば、光と色とで出来上がった相手の体は、或る程度壊滅もし兼ねない。なのでこの世界では、防衛光線を造る方法が講ぜられるのである。かつて現世生活中互いに憎み合ったりしたものが、もしもこの世界で会合したとすれば、必ず昔の憎念が呼び覚まされるので油断がならない。何となれば愛も憎しみも、共にその関係者を引き寄せる働きがあるからである。こうして各自は、永遠の綴織の中に、間断なくそれぞれ特殊の模様を織り込んで行く。
こんな次第で、各自はその世界に於いて、再び喜怒哀楽を経験するのであるが、無論地上の喜怒哀楽とは趣を異にする。それは一層精巧であり、又一層精神的であり、その欲求が大きければ大きい程、遂げられぬ時の失望も、又遂げた時の満足も共に比較にならぬ程強大である。
(評釈)私の所謂幽界生活の中堅ともいうべき境涯の模写である。説いて必ずしも尽くしているとは言い得ないが、心を潜めて玩味すれば、さすがに棄て難い箇所がある。この界の住人を光と色との合成体であると説き、他人の思想を聴き取ることが出来ると説くあたり、さすがに要領を得ていると思わせる。