自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 意識の集団

 類魂(グループ・ソール)はこれを単数と見れば単数、複数と見れば複数でもある。全てに共通する、『霊(スピリット)』の力によりて同系の『魂(ソール)』達が一つに集合するのである。これは多分前にも一度述べたと思うが、脳の中に幾つかの中心があると同一筆法で、心霊的生活に於いても又、一個の霊によりて結び付けられたる幾つかの魂があり、そしてそれ等の魂は、栄養素を右の霊から供給せられるのである。
 私が地上生活をしていた時にも、私は勿論或る一つの類魂に属していた。が、自分以外の他の魂と、又全てを養う霊とは、悉く超物質の世界に置かれてあった。もし諸子が心から霊的進化の真相を掴もうとするならば、是非この類魂の原理を研究し、又理解してもらいたい。この類魂説を無視した時に、到底解釈し得ない難問題が沢山ある。なかんずく最大難件の一つは現世生活の不公平、不平等なことで、これは各自の生の出発点に於いて、既に宿命的に決められている。これを合理的に説明すべく、古来かの全部的再生説が唱えられていたのであるが、類魂説は更に一層合理的にこれを説明する。これによれば、現世生活は自分の生活であると同時に、又自分の生活でない。換言すれば、自分の前世とは、結局自分と同一系の魂の一つが、かつて地上で送った生涯を指すもので、それが当然自分の地上生活を基礎付ける事にもなるのである。
 現在私の居住する超物質の世界には、無限に近い程の生活状態があるので、私はただ私が知っているだけしか説明出来ない。私は決して絶対に誤謬をせぬと言わないが、大体これから述べる所を一の定理と考えてもらいたいのである。
 私は先に帰幽者を大別して『霊の人』『魂の人』及び『肉の人』の三つに分けたが、右の中『魂の人』となると、その大部分は再び現世生活を営もうとする所存は有たない。しかしながら彼等を支配する霊は、幾度でも自分自身を地上に出現せしめる。そしてこの霊が、上から同系の類魂達の結束を行なうので、霊的進化の各階段に置かれたる之等の魂達は、相互の間に盛んに反射作用を営むのである。かるが故に、私が霊的祖先と呼ぶのは、決して自分乃肉体的祖先のことでなく、実に同一霊によりて自分と結び付けられたる、魂の祖先の事を指すのである。同一霊の内に含まれる魂の数は二十の場合も、百の場合も、又千の場合もあり、その数は決して一定していない、各人各様である。仏教徒の所謂業(ごう)(羯磨(かつま))-あれはその通りに相違ないが、しかし大概は自分自身の前世の業ではなく、自分よりはずっと以前に地上生活を営み、そして自分の地上生活の模型を残してくれた、類魂の一つが作った業なのである。同じ筆法で、自分自身も又、自分の地上生活によりて、同系の他の魂に対しての模型を残すことになる。かくて我々は、何れも独立的存在であるが、同時に又、種々の界で連繋的に働いている所の、他の類魂の強烈なる影響を免れないのである。
 仏教徒が唱導する再生輪廻説、あれは反面の真理しか述べていない。この反面の真理は、往々全体の誤謬よりも悪影響を及ぼすことがあるから警戒を要する。私自身は決して二度と再び地上に現れることはない。が、自分と同系の他の魂は、私がかつて地上で制作した同一模型、羯磨の中に入ることになる。但し念の為に断っておくが、私の述べる模型は、仏教の所謂羯磨とは全然同一のものではないらしい。大体に於いて個々の魂は一大連邦所属の一王国と観ればよい。
 私がかく述べると、論者或は言わん、『魂の人』にとりて一回の地上生活は充分でないと。が、我々がこちらの世界で進化を遂げる時に、我々は同一系統の魂達の記憶と、経験との中に入り込めるのである。我々は必ずしも自身で幾度も地上生活を繰り返さなくてもよい。
 私はこの類魂説が、一般的通則として規定さるべきであるとは極言しまい。が、私が知れる限り、私が経験せる限りに於いて、それは断じて正確である。
 それは兎に角、このスペキュレエション(諸子は恐らくそう呼ぶであろう)は、これを天才の場合に適用した時に甚だ興味が深い。我々よりも以前に地上に出現した魂達は、精神的にも又道徳的にも、自然我々に何等かの印象を与えるに相違ない。従ってある特殊の類魂の内部で、或る特殊の能力が連続的に開拓されたとしたら、最後にはきっとその特殊の能力が、地上の代表者の上に顕著に現れる。即ち幾つかの前世中に蓄積されたる一切の傾向が、驚嘆すべき無意識的知識となりて、一人の地上の代表者の所得となる。かの非凡な音楽家、その他の天才児の出現を最も合理的に説明するものは、この類魂説以外に絶無ではないかと思う。
 我々は死後の世界に於いて、次第に進歩を遂げれば遂げる程、一層この類魂の存在を自覚して来る。そして窮極に於いて、我々はその類魂の中に入ってしまい、仲間の経験を自己に吸収するのである。かるが故に、私の魂としての生活は当然二重である。即ち、一つは形の世界に於ける生活、他の一つは主観の世界に於ける生活である。
 地上の人達は、私の提唱するこの類魂説を、直ぐには受け容れようとせぬかも知れぬ。彼等は恐らく死後の世界に於ける不壊の独自性に憧れるか、又は神の大生命の中に、一種の精神的気絶を遂げるのを理想とするか、大抵そうした傾向に出るであろう。ところが私の類魂説は、その中にこれ等一切の要素を含んでいる。我々は個性の所有者であると同時に、又全体の一員でもある。一部分であると同時に又全部分でもある。第四の世界(色彩界)から第五の世界(光焔界)に進むに従って、一つの存在の内面に於けるこの協調生活のいかに美しく、又いかに楽しきかがしみじみと判って来る。これによりて生命の深みと強さとは一段と加わり、これによりて地上生活に免れざる利己的精神-自己の物質的生命を維持する為には、間断なく他の物質的表現を破毀して行かねばならぬ、かの残忍酷薄性-からの解説が初めて実現する。
 前にも一言した通り、第四の世界に到達した時に、各自は初めて類魂の真相が判りかけ、その結果ここに一大変化を遂げることになる。彼は一歩一歩に経験の性質、精神の威力を探り始める。その際もしも彼が『魂の人(ソールマン)』であったとすれば、時としてとんでもない誤謬に陥り易い。これは非常に大切な問題であるから、詳しく説明を加えておく。彼が類魂達の智的並に情的の経験に通暁して来るのは結構であるが、時として類魂中の或る一部分に作りつけの雛型に逢着することがある。うっかりすると、彼はその雛形の中に嵌り込んでしまい、幾千萬年に至りて、一歩もその中から踏み出せない。右の『雛型』というのは、つまり地上生活中に築かれた宗教的信条と言ったような種類のもので、全ては迷信的空想が生み出した、単なる夢であり、幻であるから、勿論そこには何の進歩も発達もあり得ない。謂わば章魚(たこ)の触手に吸い付かれた形で、二進も三進も行かないのである。
 かかる境涯が進歩の大敵であることは、ここに断るまでもないであろう。モウ一つ別な譬喩(たとえ)を引こうなら、それは一種の智的牢獄で、そこでは過去の地上の考が、金科玉條として墨守(ぼくしゅ)されているのである。向上の途に於ける魂達が、客観的にその境涯を考察するのは差し支えない。しかし断じてその中に引き留められたり、又拘束されたりしてはならない。
 (評釈)マイヤースの通信中、この類魂の説明は特に重要無比の一節であるから、読者の精読を希望する。マイヤースも述べている通り、地上の人間生活にありて、何人も逢着する最大の疑問は、一見因果律を打破するような人間生活の不公平、不平等なことである。これを合理的に説明し得ざる哲学は、哲学としての価値がなく、これをきれいに解釈し得ざる宗教は、宗教としての役目を果たさない。なのでインド式の全部的再生説が提唱されたのでもあろうが、これには理論的にも、又実験的にも見逃し難き欠陥がある。同一の魂が再び胎児として母胎に宿り、下らない未成年期の二度の勤めを行なうということは、進化の法則違反であり、これを大自然の一般的法則と考える訳には行かない。又我々が霊媒を機関として他界を調査する時に、再生の為に籍を失ってしまったという実例にぶつからない。全部的再生説が総体の真理を掴んでいない証拠である。
 なので全部再生説の反対論者は、今尚依然として『子供を創造するのは人間の父母だけの仕事である』と主張するのであるが、この父母万能説が、理論的に到底容認し難き欠陥を有していることは前述の通りで、その結果今日のような忘恩的、怨嗟的、自暴自棄的の危険思想の発生を促したのである。『誰も頼みもしないのに、こんな貧乏な家庭に自分を勝手に生みつけやがって・・・・』そう言った不平不満が現代の青年子女の精神的堕落の最大原因を為していることは確かで、そしてこれに対して、父母万能説は当然責任を負わねばならないのである。同時にこの説は、心霊実験の上からも確実に否定し得るのである。新時代の指導原理を以って任ずるものは、いまさら何の暇ありて、そんな非論理的、非科学的、又非道徳的な主張に未練を残していられよう。
 不敏ながら私も心霊学徒の席末を汚すものである。従って私の最大関心事の一つは、いかに幽明交通の活用により、這間の真相を明らかにするかにあり、年来実験を重ねた結果、最後に思い切って提唱することになったのが、取りも直さず私の所謂『創造的再生説』である。それは事実全部的再生説に訂正を加えたものであるから、『再生』という文字を踏襲したのであるが、実を言うと必ずしもこの文字を使わなくともよい。寧ろ『創造的地上降臨説』とでも命名した方が正当であるかも知れない。私の調査した所によると、超現象の世界には、各自の自我の本体-所謂本霊がある。そしてその本霊から分かれた霊魂-所謂分霊は沢山あり、それぞれ違った時代に地上生活を営んでいる。これ等の分霊中、普通地上の人間を直接守護しているのは、その人間と時代も近く、又関係も最も深い或る一個の霊魂で、それが私の所謂守護霊である。即ち守護霊というのは、多くの分霊中の最も親密な一代表者を指したので、無論同一系統に属する他の霊魂とても、悉く連動的関係にあることは言うまでもない・・・・。
 以上が私の『創造的再生説』の梗概(こうがい)であるが、今マイヤースの『類魂説』を読んでみると、表現の方法に多少の相違があるのみで、その内容は殆ど一から十まで同一であると謂ってよい。ここに一個の中心の霊があり、それから幾つかの魂が分かれて、それぞれ違った時代に地上生活を営んでいる。霊的進化の各階段に置かれたるこれ等の魂達の間には反射作用が行われ、謂わば連帯責任を有っているのである。なかんずくそれ等の類魂の中で、自分と最も関係の深い魂-霊的祖先がある。『自分の前世とは結局自分と同系の魂の一つが、かつて地上で送った生涯を指すもので、それが当然自分の地上生活を基礎付ける事になる・・・』マイヤースはそう説いている。
 マイヤースは『守護霊』という文字を特に使用していないが、私の所謂守護霊説の内容は、マイヤースも立派にこれを認めている。自分の地上生活の模型を残し、自分の作った前世の業を伝えている類魂の一つ-これが私の守護霊以外の何者であり得よう。
 私は無論マイヤースと同じく、この『創造的再生説』に固執するものではない。理論的又実験的にこれを打破し得るものがあったら、いつでも歓んでこれを撤回するに躊躇するものでない。殊にその名称などは、よりよきものが見つかり次第、いつでもそれに改めてよいと思っている。しかしながら、今日こうしてマイヤースの類魂説を紹介するにつけても、この説が恐らく今後人間界の定説となるのではないかと考えられる。