自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 『生命の書』を書くのには、各章毎に多少の象徴法を採用する必要がある。なので自分は『光焔』の一語をこの第五界の表現に使用した。ここで魂は独り自己のみならず、その属する類魂の全てに通暁する。彼はやはり彼であるが、同時に又その他の全てでもある。彼は、最早人間の想像するような形の内には生活しない。が、彼は依然として一の輪郭の内に生活する。その輪郭はその所属の類魂の過去の一切の思想、感情等によりて作られるもので、言わばこの大集団を動かすところの大火焔である。
 この第五界に住む時に、その経験はいかにも雑多であり、いかにも複合性を帯びているので、或る意味に於いては、何やら統一性を失ったようにも見える。彼の生活は言わば燃える火の生活である。絶大なる智情の飛躍もあれば、無限の自由と甚大なる不自由の交錯もあり、そして無辺際なる、種々の水平線の瞥見も伴い、要するに彼にとりて最も厳格なる訓練の時代である。思索の悩み、想像の呻き-ドウやら自己の心は存分に活動する暇なく、他の類魂達の烈しき生活の情熱が、その全身に燃え移ると言った生活。-要するに彼はかくして層一層、その統一原理たる霊(スピリット)の活動の中に近付きつつあるのである。
 兎に角今までに全く類例のない、猛烈な幸福、歓喜、悲哀、絶望の感じが、彼の生命の中に注ぎ込まれて来るのであるが、それにも係わらず、彼は依然としてそれから離れている。彼は決してこの激越性の嵐の中に巻き込まれはしない。要するに彼はその嵐を自覚しているが、しかしその上を乗り切っていると言った状態である。
 この意識の第五階段に於いて、魂は連続的に自覚している。そこには何の間隙も休息もない。彼は意識の諸々の階段に居住する類魂達の智情両面の生活に接触して、その苦楽に浸るのである。そしてその最高潮に達した時には、自我の出発点たる本霊の境域に迫りて、その光明に浴することも出来る。さればとて彼は決して自己の独立を失った訳ではない。彼は或る意味に於いて、自己の傑作の醍醐味に浸る所の独りの芸術家である。次第に進展し、変化する創作の新鮮味の中に、到底筆舌に絶する、かの一種不可思議なる至楽境を見出して、無上の幸福を満喫するのである。これは真の創造的天才者が、極めて微弱ながらも、その地上生活中に、時として味わうことの出来る境地である。
 この第五界の境涯は人間の心を以ってして、よく想像は出来ても、到底如実に把握し得る状態ではない。ここに至りて自己の存在の意義が、初めてはっきりと腑に落ちる。神、宇宙、人生-その真面目が何やら彷彿として判りかけて来る。が、最後の神秘の解決は依然として一の宿題として前途に残される。
 兎に角この第五界は、或る面白からぬ一面を有ちつつも、実に素晴らしい存在である。が、『魂の人』は容易にこの世界を後にして、第六界へと前進することは出来ない。それは彼一人の問題ではない。他の類魂が肩を並べて意識の同一水準線に達するまで、そこに待たねばならない。何となれば、それが永遠の織物に編み込まれるべき模様の完成を意味するからである。そうしておりながらも、彼は同系の他の幼稚な魂達-自分よりも遙かに濃密な物質に宿りて経験を積みつつある類魂-の情的生活に通暁する。これを要するに彼は自己を養い、自己を導く統一原理-本霊-の直属の全生活と密接不離の関係に置かれる。その関係は独り人間には限らない、同一系統の世界に属する一切の花、虫、鳥、獣その他の潜在生活とも共鳴するのである。
 (評釈)私が言ったら、マイヤースの第五界は幽界の上層を指しているものと考えられる。この境涯の魂は地上に免れざる利己主義、個人主義からの、全部的解放を以って眼目としているらしく見える。それが日本神道の所謂和魂の大成であろう。枝葉の点に疑問は免れないが、大体に於いて首肯される説明振りである。なかんずくこの世界の居住者が、自分よりも進化の後方を歩みつつある類魂の情生活に通暁するということは、私の交霊実験の結果から見て、特に興味深く感ずる。これは蓋(けだ)し『生』の問題を合理的に説明すべき大切な鍵ではあるまいかと思う。