自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 仏教徒は宇宙を夢幻視し、泡沫視する。成る程その中に張り詰めてある蜘蛛網に引っ掛かり、その中の全てを支配する法則に拘束され、その中に充ち充ちている物質、又は超物質的エーテル体に制御せられている間は、宇宙は夢幻的であり、非真実的であるに相違ない。
 夢幻は虚偽を意味し、欺瞞を意味する。魂がそれ自身を何等かの形態の中に表現する以上、当然その形態の為に拘束されない訳には行かぬ。彼は形態の牢獄の中に監禁された囚人である。従って到底真理は掴み得ない。私が挙げた七大世界の中で、最初の五つの世界は、結局形態の世界であるから、その視界は勿論局限されている。丁度目隠しを施された馬と同じく、彼は自己の環境につきて、極めて不完全なる観念を有するに過ぎない。自分の前面に展開されたる、特殊の道路しか見えないという所に、非真実性の主因が存する。仏教徒が宇宙を夢幻視するのは、或る意味に於いては全く正しいと言える。
 しかしながら涅槃の中に入りて寂滅を遂げるのが、それが人生至高の目標であると主張するのは当たらない。少なくとも、その主張には危険が伴っている。釈迦の真意もそこにはないらしく思われる節がないではない。彼は宇宙からの離脱、換言すれば宇宙の非真実性から離脱した、無条件の存在を以って目標としているらしい。
 事実、我々が第七界に於いて、大本源の無上意思と一体となった時にのみ、初めて宇宙の真実性を悟り得るのである。宇宙が魂(ソール)を拘束し、霊(スピリット)を拘束している間は、宇宙の真実性は判らない。首尾よくその拘束から離脱して、純粋叡智の絶対自由の中に住するに及びて、初めてその真実性を悟り得る。
 一旦その境涯に到達したとなれば、我々は全体としての宇宙の真面目が掴めるのである。隠の極、現の極、小の極、大の極、一切の見透しがつく。全体的観念と同時に、局部的経綸が判って来る。その時我々は一の預言者でもあれば、又一の賛美者でもある。全ての生命、全ての経験は自家の所有に帰する。物的宇宙も真実であるが、同時にその奥に控えている他の反面-心的宇宙も又真実であることが判る。我々は決して寂滅に帰したのではない。我々はただ全体的調和の中に自我性を没却したまでである。我々は神の創造の賛美者たる資格に於いて、依然として個性を有っている。
 我々は物的宇宙の局部的経綸に当たる所の、無数の霊達から、大小一切の相(すがた)につきての完全なる印象を受ける。かかるが故に、我々は初めて真正の意義に於いて生きているのであって、断じて涅槃的失神状態に捕えられてはいない。我々は現在の宇宙の破壊、創造、生命、寂滅-これを要するに、永遠に亘りて行なわれる一切の宇宙の経綸につきての瞑想の中に、世にも活発なる生活を享受しつつあるのである。諸子は『宇宙』という言葉の中に含まれる、二次的存在を忘れてはならない。その会得さえ出来れば初めて生命の真義が掴める。
 宇宙には物的原子と同時に、心霊的原子がある。心霊的原子は物的原子の内にも、又外にも存在して、生命の種々相を造る。物的原子がどこまで微細に赴いても、その中には必ず心霊的原子が宿りて、これを左右する力を有っている。最後にこの心霊的原子は、物的原子から脱出して、宇宙の大本体の中に帰するが、これは決して滅亡を意味しない。それは一にして同時に多、全体にして同時に個体なのである。
 かかるが故に、宇宙が夢幻的であるというのは、結局汝が宇宙の張り詰めている蜘蛛網、形態の中に捕われている事を意味する。一旦これ等の遮蔽物の外に超脱しさえすれば、宇宙は徹頭徹尾真実性を有っているのである。
 (評釈)ステッドの通信中に、こんなことが書いてある。『私達は現在欧州に起こりつつある、諸々の運動を観望しているが、それは丁度芝居を見物する気持である。幽界から観て初めて事物の真相が判る。事件の起こりは、常に大衆の動きであって、故人の働きではない。運動の頂辺に立つ人達は、全然周囲の事情によりて左右され、その他の群衆に比して、格別善くもなければ又悪くもない。ただ一層目立つだけのことである。天下公共の仕事に於いて、全部の人間は自分以外の或る力-先天的に人類に具えつけられている、或る力と考えとによりて、勝手にこき使われる操り人形に過ぎない・・・』これは現世の楽屋ともいうべき幽界から、欧州の国家社会の動向を覗いて見た感じであるが、もし我々が宇宙最奥の楽屋-マイヤースの所謂第七界に歩み入れて、座附の脚本作者である神と一体となり、以って宇宙の内部を覗いて見たとしたら、恐らく同様の感を催すに相違ないであろう。踊る訳者も、それを観ながら泣いたり笑ったりする見物人も、共に皆脚本作者の方寸の裡から湧き出でた操人形、夢幻といえば夢幻であるが、真実といえば真実である。マイヤースの説明は、ほぼその間の消息を伝え得て遺憾なきに近いと思う。