自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
『全てのものが眠りはせぬが、全てのものが変わる』とは、死後の生活につきて聖書の教える所である。これは自分の所見と一致する。全てのものが眠りはせぬということは、つまり多くのものが眠るという事である。然らばそれ等の所謂『眠る人』は一体いかなる世界、いかなる境涯に置かれるのか?
鳥類が空に棲むのと同じく、これ等の魂は地球を包囲するエーテル界に生息する。その世界こそ取りも直さず私の所謂夢幻界である。この世界の特質は争闘及び努力の絶無なことで、従ってそこには真の創造がない。多数の人類は、かかる境涯を以って何よりも願わしき理想の生活と考え、地上生活を送りつつある時代から、その境涯を渇望した。つまりそれが彼等の所謂天国、又は極楽なのである。従ってそれ等の人達は、死後夢幻界に達した時に、心からそれに満悦し、世界の最後・・・聖書の所謂『最後のラッパが鳴るまで』そこに淹留するのである。この聖書の言葉は、無論これを譬喩的に解釈せねばならぬ。古代にありて、それは一種特殊の意味を有っているのであるが、近代に入りて、その意義が失われたに過ぎぬ。自分の観る所によれば、第三界に住む者はこれを『眠る人』と称してもちっとも差し支えないと思う。何となれば、何等意識的の争闘も努力もない生活、これが一種の睡眠でなくて何であろう。
無論それは文字通りの睡眠ではない。それは多くの点に於いて、地上の生活と類似した現実性を有っている。異なるところがただ一つある。つまり、奮闘抜き、真剣味抜きの絶対的気楽さがそれで、そこでは一切の欲求が、単に思うだけで達せられてしまう。従って下の地上界、又は上の色彩界で生きるのとは、全然生き方が違う。これを一種の睡眠者と称して差し支えない所以である。
が、聖書の言葉が示す通り、死者の或る者は決して眠らない。換言すれば、彼等は断乎としてこの酔生夢死の夢幻の生活を排斥するのである。彼等の求むるものは争闘であり、創造であり、努力であり、向上である。その結果或る者は地上に再生し、或る者は一層意義ある生活を味わうべく、意気軒昂として色彩の世界に入る。
(評釈)マイヤースの説くところは、大体事実に近いようである。我々がいかに霊媒を用いて幽明交通を試みても、これはと感心する通信には容易に接しない。多くは夢の国、御伽噺の国からの音信かと感ぜられるようなものばかりである。殊に既成宗教のアヘン的観念に捕えられて死んだ善男善女の他愛なさ加減ときては、全くお話にならない位である。これが恐らく現在多数の人類の相場であろう。我々が決して死者を買いかぶってはならない所以である。よほどの傑物にして、初めて観るべき通信、観るべき警告を地上の人類に伝え得る。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
『全てのものが眠りはせぬが、全てのものが変わる』とは、死後の生活につきて聖書の教える所である。これは自分の所見と一致する。全てのものが眠りはせぬということは、つまり多くのものが眠るという事である。然らばそれ等の所謂『眠る人』は一体いかなる世界、いかなる境涯に置かれるのか?
鳥類が空に棲むのと同じく、これ等の魂は地球を包囲するエーテル界に生息する。その世界こそ取りも直さず私の所謂夢幻界である。この世界の特質は争闘及び努力の絶無なことで、従ってそこには真の創造がない。多数の人類は、かかる境涯を以って何よりも願わしき理想の生活と考え、地上生活を送りつつある時代から、その境涯を渇望した。つまりそれが彼等の所謂天国、又は極楽なのである。従ってそれ等の人達は、死後夢幻界に達した時に、心からそれに満悦し、世界の最後・・・聖書の所謂『最後のラッパが鳴るまで』そこに淹留するのである。この聖書の言葉は、無論これを譬喩的に解釈せねばならぬ。古代にありて、それは一種特殊の意味を有っているのであるが、近代に入りて、その意義が失われたに過ぎぬ。自分の観る所によれば、第三界に住む者はこれを『眠る人』と称してもちっとも差し支えないと思う。何となれば、何等意識的の争闘も努力もない生活、これが一種の睡眠でなくて何であろう。
無論それは文字通りの睡眠ではない。それは多くの点に於いて、地上の生活と類似した現実性を有っている。異なるところがただ一つある。つまり、奮闘抜き、真剣味抜きの絶対的気楽さがそれで、そこでは一切の欲求が、単に思うだけで達せられてしまう。従って下の地上界、又は上の色彩界で生きるのとは、全然生き方が違う。これを一種の睡眠者と称して差し支えない所以である。
が、聖書の言葉が示す通り、死者の或る者は決して眠らない。換言すれば、彼等は断乎としてこの酔生夢死の夢幻の生活を排斥するのである。彼等の求むるものは争闘であり、創造であり、努力であり、向上である。その結果或る者は地上に再生し、或る者は一層意義ある生活を味わうべく、意気軒昂として色彩の世界に入る。
(評釈)マイヤースの説くところは、大体事実に近いようである。我々がいかに霊媒を用いて幽明交通を試みても、これはと感心する通信には容易に接しない。多くは夢の国、御伽噺の国からの音信かと感ぜられるようなものばかりである。殊に既成宗教のアヘン的観念に捕えられて死んだ善男善女の他愛なさ加減ときては、全くお話にならない位である。これが恐らく現在多数の人類の相場であろう。我々が決して死者を買いかぶってはならない所以である。よほどの傑物にして、初めて観るべき通信、観るべき警告を地上の人類に伝え得る。