自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 私がまだ地上に居った頃は、強固なる『愛(ラブ)』の礼讃者であった。新約聖書の中で、聖ポールは別に『慈悲(チャリティ)』と訳してよい言葉を使っているが、しかし大体それは、『愛』という言葉と同意義に見られるのであった。ところが今日死後の世界に生活してみると、これ等両語の何れもが、しっくりと我々が伝えんとする全意義を表現するに足りないことを感ずる。それは右の両語が多年に亘りて、人間の有限の心によりて狭く解釈せられ、甚だしく歪んでしまっているからである。
 一部の人士にとりて、『愛』は単に男女間に発生する所の情熱を意味するに過ぎない。他の一部の人士にとりて、それは意気投合せる二つの魂、親友の間に発生する交情を意味する。最後に愛は広く同胞間の親善関係、人類愛を意味するのである。
 が、これ等の観念は、何れも尚理想を距(へだ)てることが遠いかと思われる。いかに優れたる男も女も、未だかつて神の認める所の、かの崇高深遠なる愛の全貌を把握することは出来ないかと考えられる。私がこちらの世界から、地の世界の状況を通覧し、幾千年かに跨る世界の歴史を回顧する時に、私はドウあっても、この際一つ適当な新語、一段又一段と意識の階段を上昇すべく、我等の心霊(サイケ)を刺激する所の、魂の根本的欲求を過不及なく言い現す所の、そして入手によりて汚されないところの、新用語の必要を感ぜずにはいられない。
 そもそも進歩とは、取りも直さず叡智が加わることである。そして叡智とは結局、『真理に対する正しき判断』を意味する。
 何れの界にありても真理の観念は、その界特有の生活状態、魂が帯びる所の形態によりて、必然的に制限されるを免れない。魂が更に一段の飛躍を遂げて、秋の木葉の散る如く、一切の形態を棄つるに及べば、その時には真理の把握が更に一層拡大する。
 人間の住む鈍重な物質世界に於いて、今日尚最も神聖であり、又最も神聖視されている用語は、蓋し『真理(ツルース)』という文字であろう。で、キリストが福音書の中で使用せる、所謂『愛』の内容を一番よく表現する言葉は、この真理という文字ではあるまいかと思考される。但しその中に『正しき判断』の意味も加わらなければ、無論完全とは言われない。
 この際我々がよく考えてみなければならないのは『叡智』という言葉である。何となれば、この崇高なる言葉の中にこそ、明らかに、男女間の高尚なる愛も、智的友愛も、人類愛も、又かの透徹せる洞察力も、悉く包含されるからである。全てこれ等の性質は、真理を悟り得る男女の特質で、彼等が何れの界に置かるるにしても、常に鈍重なる物質界に下降するよりも、一層精妙高潔なる上層界に前進、向上すべき魂の欲求に駆られる。他なし叡智がその原動力となっているからである。
 『汝の敵を愛し、汝を苦しむる者を祝福せよ』という含蓄に富める言葉は、これを実生活に適用せんとする純真なキリスト教徒にとりて、確かに難題中の難題に相違ないが、ただ叡智の力があれば、これを行為の上に実現し得ると思う。何となれば、右の思想は確かに叡智の内に含まれ、真理に対する正しき判断さえ出来れば、これを実生活の上に表現することも、決して困難でないのであるから・・・。
 あの素朴なる農夫でも、又あの卑賤(ひせん)なる労働者でも、もしもこの精神的、霊的の悟りの力さえ有っていれば、彼等は正しく賢者と言ってよい。キリストの所謂『愛』というのは、確かにこの鋭い悟りの力、叡智のことである。
 叡智こそは、正に愛に向かって形と生命とを与える光であり、正に隠れたる愛の源泉であり、又正に向上前進の最高の刺激物であり、これを要するに『心霊の進化』は、専らこの叡智によりて遂げられる。
 (評釈)キリストの山上の教訓中に、たまたま『愛』という文字が使用された結果、無批判的に『愛』という言葉を濫用するものが続出し、欧米人士は、正に愛の熱病に罹っていると言ってよい。日本にも、これにかぶれたものが中々少なくない。仔細に彼等の使用する愛の内容を検討するに、めいめい勝手放題を極め、正にマイヤースの分類した通りである。『愛』の宣伝の為に、多少社会人生に裨益(ひえき)をもたらした点もあるには相違ないと思うが、しかしその弊害たるや実に大きく、甚だしきは、低級なる動物的本能の無茶苦茶な行動奨励の種子にさえなる傾向がある。マイヤースの意見も、まだ充分具体的に代用の新語を提示するまでに至らないが、確かに『愛』の濫用者にとりて、一の有益なる苦言に相違ないと思われる。