自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 肉体の内と外

 自分はここで、記憶の種々相につきての所見を略述して、諸君の参照に資したい。先ず第一に、諸君はまだ肉体に包まれている人間に起こる所の記憶の真相を知りたいであろう。自分はこれから、自分の心霊眼を以って目撃する所を述べることにするが、真っ先に働くのが意志である。即ち諸君は、トム・ジョーンズならトム・ジョーンズという姓名を記憶しようと決心し、右の影像に意念を集中する。するとその影像から肉眼には見えない所の、極めて精妙な幽的物体が、自分の所に引き寄せられる。科学者に言わせたら、右の幽的物体は電気よりも微妙な、しかし電気と同性質のものであるという定義を下すであろう。ところで、もしも意志の力が充分強烈であれば、今度は右の幽的物体が働いて、何やら一種流動性の液体らしいものに、必要な印象を与えることになる。この流動性の幽的液体は、容易に物質を貫通することが出来るので、前記の幽的物体の援助の下に、脳の細胞と接触を開き、以ってこれに感応を与える。即ち人間の意志は、これ等二種類の要素の援助によりて、トム・ジョーンズの影像をば、脳細胞に連結せしむることになるのである。従って幾百万とも知れぬ小影像が、同時に幾百万とも知れぬ脳細胞の中に印象されている訳であるが、物質に包まれた人間の空間的観念は、甚だ歪曲されているから、そうとは少しも気付かずにいるのは、是非もなき次第である。手っ取り早くいえば、諸君は自分の周囲に、一の巨大なる蜘蛛網を想像してもらいたい。その全ての糸が、丁度電線が電信を運ぶような具合に、記憶又は思想の影像を脳へ運び込む仕掛けなのである。
 要するに全ての仕事は、皆それぞれの材料を使用することによりて遂行されるのであるが、困ったことに、人間界には右の材料、例えば印象を受け取る所の幽的流動体に附すべき用語が、まだ出来上がっていない。致し方がないから、暫くこれを幽泥(クレエ)とでも呼んでおこう。この幽泥こそ、実に思想が構成される所の原料なのである。無論それは、人間界で考えるであろうような材料でも何でもないのだが・・・・。
 兎も角もこう言った一種の幽泥が、耳目その他の感官によりて伝達される所の、一切の印象を受け取る材料であり、そしてその材料と脳との連絡は、諸君の意志の作用がこれを営む、という次第なのであるが、ここで諸君は当然、然らば意志とは何ぞや、という疑問を起こすであろう。そもそも意志とは、諸君の体外に在る所の自我の本体から、諸君の体内に向かって注ぎ込まるる所の、エネルギーが主体であるのだが、勿論それには、物質的脳細胞の働きも加わっている。意志と物質的肉体とは、決して没交渉ではない。が、今も述べる通り、意志の源泉は自我の本体であって、これが実に無限の微妙なる幽的原子の実像であり、そしてその原子は、お粗末な地上の機械-肉体の死によりて、少しも影響を受けないのである。ここで原子というのは、こちらの世界に居住する自分の言う言葉で、地上の諸君から言ったら、それは恐らく一種の流動体らしく見えるであろう。兎も角も諸君を構成する中枢体は、諸君が地上生活を送っている限りは、一の複合物たるを免れないものと思ってもらいたい。それは物質的なものと、非物質的なものとの連合体である。物質的の肉体は、勿論物質としての素質上、或る物的欲望を有っている。物的欲望は汝自身ではない。が、欲望は汝を支配する。何となれば物質的なものは、或る程度非物質的なものを圧倒し、脳細胞の内部に起こる所の指揮判断に、強力なる干渉を加えるからである。元来脳細胞は非常に鋭敏で、いくらでも外来の刺激に感じ得る。又汝の意志なるものは、元来一の物体と言わんよりは、寧ろ一の運動であるから、それが間断なく働いて、一切の影像を合同し、整理し、そしてそれ等の影像に付着せる幽紐を、脳に接触せしめようとする。が、あくまで忘れてならないのは、全てが相持ちの働きであることである。これが肉体に包まれている、人間に起こる所の記憶の実相で地上の人間には容易に会得されぬかも知れぬ。
 次に肉体を離れてからの記憶となると、それは全然別問題である。死後の人間は、地上の影像から非常にかけ離れて来る。何となれば、脳細胞と称する物質的媒体に依りての連絡が、失われてしまうからである。言わば連絡の紐が切れてしまうのである。かくいえばとて、無論一旦印象された影像が、破壊されるという意味ではない。彼等は依然として存在する。が、手続きがすっかり違って来る。我々は一種の統一状態の下に、是非モウ一度逢いたいという意志の力で、所期の影像を造り出すのである。地上に居った時は、非常な努力と困難とに打ち勝ちながら、影像を自分の手許に引き寄せたのであるが、今度は引き寄せるのでも何でもない。我々はそれに必要な方法を講じさえすればそれでよい。そうすると、自分の望む影像が、比較的容易に目撃し得るのである。
 但し我々が霊媒によりて通信する時は、又全然趣が違う。それは至難中の至難事である。我々はそれ等の影像から、全然絶縁してしまっている。故に霊媒にして我々の記憶が要求する事柄を吸収するだけの、心霊的能力を具有するにあらずんば、我々は、到底諸君が求むる所の、証拠物件を提供する事が出来ないのである。普通人にはこの特殊の能力がない。元来この能力なるものは、人間の肉体そっくりの形態を有し、そして人間を取り巻いている所の、一つの無形の流動体の過剰物ともいうべきものなのである。
 兎に角、そうした場合に、影像は全然頭脳の外部・・・・肉体の外部にあるのだが、ただ無形の紐で、こちらの体と連絡を取っている。我等は多少触覚には感じないではないが、よほど意念を集中するにあらずんば、滅多にその形態を認めるまでにならない。よし多少は成功しても、通常意識には到底上って来ない所の、沢山の影像があることを忘れてはならない。イヤ、ドウも説明が困難で、果たして自分の意味が通じたか否かが危ぶまれる。
 さて記憶の解釈に移るが、それは丁度海に譬えられると思う。記憶は汝を包囲しており、そしてそれは海の水の如く逃げ易い。地上生活をしている時の我々は、丁度手に小さいバケツを提げて、海水を汲まんとする子供にも似ている。その中に掬い上げる砂の数は幾何もない。そして何の雑作もなく、我々は再びそれを地面に撒き散らしてしまう。が、我々の背後には、一望渺茫(びょうぼう)たる海面が、依然としてうなりを立てて海岸を打っているのである。
 兎に角諸君は、記憶をばこの大海の如きものと考えてもらいたい。記憶は年がら年中それ自身を地球に投げ出している。従って記憶が諸君を包囲している状態は、正に水蒸気が包囲しているのに似ている。地上生活をしている間にも、諸君は不知不識の間に、この目に見えない記憶を、どれだけ吸い取っているか知れない。そして、或る一国が他の一国よりも湿気に富み、雨量が多いように、或る一人は他の一人よりも、多量の記憶を吸収する。無論記憶は人間の頭脳によりて濾過されるので、必然的にその人の色彩を帯び、個性を具え、最後に恰も一の独創物であるが如き形態をとりて、その人の意識に上って来る。が、しばしばそれは何とひどい非独創物、取るにも足らぬ焼き直しに過ぎぬものであろう。蓋(けだ)し普通の凡人は、生者の頭脳から放射された、手近に転がっている記憶の残滓のみを収集するに過ぎない。大思想家と言われる者にして、初めて人間性の深部に潜める、真の強力なる記憶を吸収する資格を有っている。迅速に放擲(ほうてき)されるような記憶には、決して永続性はない。永遠の生命ある記憶は、常に精妙なる努力、情熱性のものに限る。
 見様によりては、人間は一の発電所のようなもので、間断なく新規の記憶を発生せしめ、そして間断なくこれを発送している。人間が個性に固着しようとするのは、そこに無理ならぬ点もある。が、間断なき崩壊に堪えて後まで存続するものは、実はよくよく根本的なる自分-つまり自己の核心のみであることを忘れてはならない。記せよ、人生の行路に於いて、我々は精神的に絶えず死しつつあるのである。換言すれば、秋毎に草木がその葉を振り棄てるが如く、我々は年々歳々、絶えず我々の記憶を振り棄てるのである。従って、我々は著しく変わって行くのである。試みに生まれて漸く十歳のトム・ジョーンズと、春風秋雨六十年の星霜を重ねたトム・ジョーンズとを、鼻突き合わして座らせて見るがよい。彼等はどんなにはにかみ、どんなに意思の疎通を欠くことであろう。が、心胸の奥深い箇所には、何やら一種不可思議の共鳴、何やら一種名状することの出来ない、感応と言ったようなものがむらむらと発生し、外面的相違の甚だしきに係わらず、十歳の少年と六十歳の老人との間には、丁度磁石と鉄との間に起こるような、妙な親しみが感ぜられるに相違ない。何故そうなるかは、恐らく本人達にも判らないであろう。彼等の間には、記憶の共通点などは殆ど存在しない。彼等は言わば赤の他人に過ぎない。が、両者を結びつくる、深い深い人格の核心が両者をして、どうあっても会心の親友たらしめずんば止まないのである。
 これと同様の事柄が、数十年の間隔を置いて、幽界で再会する親子、兄弟、夫婦、朋友等の間にも起こる。外面的事実の記憶からいえば、彼等の間には殆ど何等の共通点もない。が、彼等の間には、そんな記憶よりも遙かに遙かに深い共通の或る物があるので、一瞬にして相互の認識が可能である。愛と憎、沈着と性急・・・そう言ったような、人間性の根底に横たわる所の一切の本質は、歳月の経過位で容易に変わるものでない。この基本的知識さえ残っていれば、相互の認識はおろか、場合によりては、古い古い関係の復活も出来る。但し後者は、双方の魂が、本質的に不可分的関係に在る時に限ることは言うまでもない。
 兎に角私自身につきていえば、私は死後決して一ヶ所に足踏みしていなかった。私は外部的に大いに変化し、進化し、新しい葉も付ければ、又新しい花も付けた。が、内部的には依然として少しも変わらない。かるが故に、私の記憶の一部分が埋もれた位のことで、私の妻や子供達が、私を認識し得ないという心配は毛頭ないのである。
 私は今私の地上の記憶が埋もれてしまったと述べたが、それは決して永久に放棄されてしまったという意味では少しもない。ただ現在の自分にとりて、地上の記憶が何の用途もないままである。自分は今第四界に於いて、新規な形態の経験を積むことによりて、新規な印象を造り出そうと精進努力中である。しかし、第四界と第五界との中間境に達した暁には、私は再び地上の記憶のおさらいをせねばならなくなる。
 (評釈)少々難解かも知れぬが、記憶に関する内面的説明として、これ程力瘤の入った、又これ程懇切丁寧なものは滅多に見当たらない。従来の心理学的説明などは、この説明の前には、全く影が薄いと謂わねばならぬ。
 マイヤースは肉体のある人間の記憶と、肉体のない幽界人の記憶と、それぞれ区別して説いているが、これは私の霊的実験から考えても、正にその通りに相違ないと思う。人間の記憶力は、いかに優れていても、多寡が知れている。これはその手続きが非常に面倒な為である。そこへ行くと他界の居住者は、その運用する媒体が自由である為、実に素晴らしい威力を発揮する。これは心霊実験の実証する所であるから、議論の余地がない。
 それからマイヤースが、意志に下した定義は甚だ卓見である。自我の本体から人間の体内に注ぎ込まれるエネルギーが、その主体であるというのは、私もこれを承認するものである。我々が深い精神統一に入る時に、合流合体するのは、実に自我の本体(守護霊、本霊)である。抽象的概念論者は、直ぐそこで宇宙の大霊、神、絶対等を持ち出したがるが、それは事実に反し、又理論にも反している。内面の世界は一段又一段と、奥深く階段を為しており、そうお易く最後の窮極に達し得るものでない。実をいうと、自我の本体との合体さえも至難中の至難事で、うっかりすると、幽界の入り口辺に彷徨する低級劣悪な人霊、自然霊、又は動物霊に共鳴する。
 それから、マイヤースが、地上生活の記憶の価値に対して下した見解も甚だ痛切である。欧米の心霊家の一部は、外面的の証拠材料(エヴィデンシャルマター)の収集を以って、殆ど心霊研究の全部と考えようとするが、あれは余りに偏狭な考えである。証拠材料も結構だが、しかし人間性の内面には、それ以上に有力な宝玉的存在が潜んでいることを忘れてはならない。