自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 『記憶の本体』と言おうか、『大記憶』と言おうか、それとも詩的表現法を用いて『記憶の木』とでも稱(たた)えようか、それは何れにしても、世界の発端から現在に至るまでの細大の歴史は、悉くその中に潜在的に保存されていることは確かである。既に潜在的に保存されているのであるから、人間でも霊界の住人でも、潜在意識を以ってこれに臨まなければ、この歴史を読むことは出来ない。人間に潜在意識がある如く、霊界居住者にも勿論潜在意識がある。換言すれば、精神統一状態に於いてのみ交渉を起こし得る所の、『より深い自我』がある。それを極度に奥深く掘り下げると、結局大我-世界意識と合流するが、そこには過去、現在、未来の事柄が悉く記憶されているのである。
 かく述べると諸君は反問するであろう。『未来の事件はまだ起こっていないのではないか、それがどうしてエーテルの上に印象付けられているのか?』が、それは既に神の想像の中に生まれているのであるから、人間の所謂未来は、神からいえば過去である。換言すれば、全ては神のプログラムの中に規定されているのである。但し未来の歴史を読むことは、人間のとりて至難の業であることはここに言うを待たない。神がたった一度きり考えて、二度とは考えない事であるから、未来の記憶が、無形無時のエーテル体の上に残されている印象は、決して深くない。それは通例極めて幽玄微妙である。かかるが故に、よほどの優れたる内観的聴力を具えたる人のみが、その余響を捕え得る。これに反して過去の記憶は、人間のお粗末なる主観が、間断なくそのおさらいをやっているから、従ってその印象がエーテルの中に鮮明なる印象を造り、第六感者にとりて、比較的容易にこれを捕えることが出来るのである。
 私はここで、この『記憶の本体』が、諸君の所謂死者、つまり永遠の生命を有する、我々霊界居住者に対して、いかなる意義を有するかを説明しておきたい。霊界居住者は一切の過去の記憶から離れて住まうとすれば、それはその人の随意である。つまりすっかり過去を忘れてしまうことが出来るのである。が、彼等は『記憶の本体』から因縁の糸を手繰り寄せて、過去の人格を再現せしむることも、又同時に可能なのである。その場合には、すっかり過去に再生したようになる。但し死者が地上の人間と交通を試みるには、この仕事は中々容易でない。時とすれば、過去の生活のホンの一小断片のみを、記憶の倉庫から抽出して、ちょっとの間、これを皆様にお目にかけ得る位に過ぎない。
 この事に関連して、ここで是非諸君の注意を促したい一の大切な事柄がある。外でもない、それは我々幽界居住者も、又地上の諸君も、右の『記憶の本体』の中には、皆同一の項に記載されていることである。で、我々が霊媒を通じて、地上の諸君と交通しようとせば、その準備として、丁度俳優が脚本のおさらいをやるように、先ず自分の過去の役割のおさらいをしておかなければならない。ところが通例幽界居住者はこの準備をしていないので、いざ準備に際して、性急な質問でも受けると、大いにヘドモドすることになる。要するに我々は、消え失せてしまっており、又消え失せてしまわずにいる。この二重性はちょっと説明に困難を感ずる。根本的にいえば、我々は現世に於いて愛する妻、子、親達に訣別(けつべつ)を告げた時と、全然同一人格である。我々は生前嫌いであった事物人物に対しては、依然として不快の感情を有し、又生前愛好せる事物人物に再会した場合には、昔の愛情が油然として湧き出るのを感ずる。が、もしも『人格』という言葉が、我々の現世的記憶、物質的知識の総計を意味するものとせば、その時は、我々は大いに変わっている。何となれば現世の我々は『記憶の本体』の中から、そう言った昔の記憶を復活せしむるに過ぎないからである。しかし我々は、依然として昔の心情、昔の性向を保有している。我々の性格の中の絶対必要でない部分、もしくは付随的な部分のみが、死と共に失われている。これを要するに永久に残る記憶は、情緒的のもので、それは源を創造的生命の中に発し、我々の魂の主要部を構成しているのである。
 (評釈)宇宙の内奥には過去、現在、未来を通じての細大の事物が、只一つの遺漏もなしに全部保存されている。換言すれば、一切の記録(レコード)が出来上がっている、という事は仏教思想中にも見出され、決して今に始まった考え方ではないが、我々が現在敏感な霊媒を用いて、超現象世界を探れば探る程、どうもこの考えが正しいように推断したくなる。例えば北村霊媒の背後に控えている、月真と称する古代僧の霊魂によると、彼は数十年前、乃至数百年前に死んだ人達の姓名はもとより、その生死年月日、性格、職業、等を細かく報告してくれる。どうしてそんな仕事が可能かと月真に訊くと、霊界の記録につきて調査するのであると答える。間部子爵の所には、祖先伝来の詳しい過去帳があるので、それと月真の報告とを一々対照して見たが、実によく符合しているのを発見して、我々は感嘆これを久しうした。『小桜姫の通信』なども、確かに数百年前の過去の時代の、正しき絵巻物であると認むべき証拠が、随所に見出される。かく考えた時に、マイヤースの通信は、確かに嘘を言っていないと思う。尚マイヤースが、未来の出来事も、結局神の過去の記憶の中に見出される、と述べているのは確かに至言である。神の想像の記録の中には、大は天下国家の治乱興亡から、小は一草一木の栄枯盛衰に至るまで、悉く確定されているに相違ない。悲しい哉、物質の世界に出頭没頭する鈍眼凡骨者流には、その記録の一端をすら読破する力がないので、一寸先は暗闇、泣いたり、笑ったり、悲しんだり、憎んだりして、覚束なきその日その日を送っている。これは神界が秘密を厳守する訳でも何でもないらしい。神界はいつも明けっ放しなのであるが、ただ明きめくらの人間に、それを捕える霊能がないまでである。この点は心霊学徒としては、よくよく留意すべき事柄であると思う。似非非霊術者流、又は宗教者流は、何ぞ秘密の呪文や、何等かの戒律でも修むれば天地間の秘事が掴み得るようなことを述べるが、これは単なる客引きの好餌に過ぎない。純真無垢の深い深い内観以外に、天地間の神秘は永久に掴めない。