自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 私は心の潜在的内容を説明すべき約束をしてあるから、ここでその責を果たそうと思うのである。それには順序として、人間を一つの生きた有機体と考え、そこから話を進めるのがよいと思う。一体有機体などという言葉は、現在の私には何やら奇妙に響くが、出来るだけ諸君の用語を使用して行かねばならないので骨が折れる。先ず第一に注意しておかねばならぬ事柄は、意識即ち魂と、肉体とが別個の存在であることであるが、現代の科学者はこの両者をごっちゃに取り扱いたがる。肉体というものは、これは遠い遠い過去から到来した遺伝物で、それ自身一つの生きた王国である。肉体は人間の想像以上に複雑なものであって、神経なども、上級、中級、下級の三段階から成立している。そしてこれ等の神経こそ、実に我々の意識が操縦する所の鍵なのである。
 ところで我々幽界の居住者とても、或る程度肉体の機関に相当したエーテル体を有っている。バイブルには、言葉は神であり、言葉が肉体となって我等の中に宿ったのであるとあるが、その文句には、多大の真理が籠もっている。物質的有機体は、実際ある程度超現象的実在の反映なのである。私は全てに、一の統一原理が存在することを述べた。それから又私は、意識の小中心が沢山存在し、これが焦点となることも述べた。即ち幽界人が地上と交通する場合には、これ等の意識の小中心の一つが霊媒に憑りて、一時その肉体を占領するのである。その際我々は、通例霊媒の統一原理までは占領しない。そんな真似をすれば霊媒は発狂してしまう。何にしろ統一原理の占領は甚だ危険な仕事で、所謂幽界の悪霊でもなければ、滅多に試みない。私はここで地上の一例を引いて、判り易く説明することにしよう。例えばここに英国という国がある。国内にはそれぞれ自治自給の多くの都府があるが、しかし何れも大首都のロンドンに一般的の指揮を仰ぎ、又ロンドンから何等かの重要な刺激を求める。幽界居住者の状態は、正にこれに類似する。彼は薄紗状(ブエール)の雰囲気で包囲されたる一つの独立王国である。但し地上の王国のように、全てが造りつけにはなっていないで、右の微妙なる雰囲気は、任意にその形態を変更し得る。その他にも色々違った点がある。兎に角我々の包囲物は、一つの気象的熱的性質を帯びたもので、従って極めて弾性に富んでいる。それは極度に微細なる原子を含んでおり、平気で人間の体などを突き抜ける。
 ここで諸君は質問を提出されるであろう。『幽界と物質界とは一体どんな具合に異なるか?』と。その相違点は実に大きい。何となれば幽界の組成原質は、何等定形を有っていないからである。従って、帰幽後に於いて我々が、充分の発達を遂げさえすれば、我々は、全然潜在的自我(自我の本体)の中に埋没してしまうのである。生前私などは、意識に二様の形式があると考えた。即ち甲は潜在的精神、乙は顕在的精神であって、後者は一般的世俗的事務を指揮し、前者は識域以下に潜む所の、一種の微妙なる創造的原動力だと思考した。ところが、帰幽後に於いてよくよく調べてみると精神としては、別に顕在精神などというものはないことを知った。そこに見出されるものは、内面の精神の働きに鋭く感応する所の、一の微妙複雑なる機械-肉体あるのみである。換言すれば精神はただ一種だけで、肉体という機械に感応したものを、人間が勝手に顕在意識などと呼ぶに過ぎないのである。
 兎も角私は、この所謂顕在意識、もしくは通常意識と称するものの内容を解剖して見ることにする。第一の要素は、遺伝的の神経記憶、第二の要素は、右の神経記憶の大影響を受ける体的欲望、第三の要素は、内在的自我の反射-以上の三つであるが、勿論最も重要なるは最後のもので、それが人格の基本を成すのである。この内在的意識の反射をば、真っ先に受け取るものは、私の所謂神経記憶と称する液状体で、その液状体が、続いてこれを脳に伝達する。従って液状体の状況次第で、内在的意識が漸く強く脳に響いたり、又弱く響いたりする。兎に角通常意識なるものは三重体である。即ち内在的意識と、これを影像に翻訳する所の神経記憶と、これから右の影像を受け取る所の物質的脳との合作なのである。勿論その際、脳は出来るだけ受身の状態に置かれねばならない。受身の状態に置かれない脳は、内面から送られる思想をば妙に歪ませたり、潤色を施したりするばかりでなく、甚だしきは全然感応力をも失ってしまう。言うまでもなく、そこには右と全然逆の作用も営まれる。即ち脳が物質界の印象を同化吸収して、これを奥へ奥へと伝達する仕事で、人間はその覚醒時に於いて間断なく、これ等二種の働きを繰り返しているのである。
 ここで諸君は更に疑問を起こすであろう。『一体あの積極的な、時とすれば感服しかねる存在-自我(エゴ-)とは何か?』と、これは全ての総計である。即ち(一)人間の物質的要求、(二)遺伝的記憶の累計、(三)内在的精神と交通能力、これ等諸要素の総計が、つまりその人の個性を成すのである。時とすれば一部の人間は、途方もなく優れたる独創的天才を発揮するが、これは結局その人の脳が神経記憶の奥に控えている所の、内在的精神の刺激に鋭く感応する、不思議の素質を有っている為である。普通人にありては神経的液状態が、中間に於いて媒介を務めるので、印象が兎角混濁して鮮明を欠くが、特殊の人には、脳と内在的精神との間に、直接の交流が営まれるのである。無論それに加えて、豊富な知識の貯蔵もなければならない。さもなければ、立派な創作物は出来上がらない。創作というのは決して単純なものでなく、多くの要素の持ち寄りで出来上がる。即ち内在的精神が原動力となりて、記憶並びに観念の想念を然るべく取り纏め、更に遊離状態にある所の外来の思想をも取り入れると言う按配である。同一の発明、同一の真理が、時として同時に、地上の二人乃至三人の天才によって唱道せらるるのは、つまりその結果である。
 所が通常意識の場合には、右に反して、あの液状体が最も重要なる役割を演じ、それが『自我』の主体を為している。液状体はしばしば他界の居住者から材料を摂取し、幾多の部分的意識を造ることもあるが、しかしその大部分は、統一原理(自我の本体)と連絡を有し、言わばその付属物に過ぎない。その小意識が何かの拍子で、統一原理と関係を失すると、それがとりも直さず人格の分裂である。しかし、これは適当の処置を講ずることによって、大抵回復出来るものである。
 ここで私は、諸君が私の所説に基づきて、人間の進化につきて一考察を遂げて欲しい。より大なる精神、即ち自我の本体は宇宙の大初から存在していた。原始的人類の発生並にその発達は皆その受持ちにかかる。要するに自我の本体が、人類の彫刻師なのである。人類が未発達の時には、勿論うまくこれを使いこなすことが出来ず、稀に微弱なる反射作用を与え得る程度に過ぎなかった。が、やがて人類は発達を遂げたので、往古に比べれば、遙かに強力なる交流作用が、両者の間に営まれるようになった。つまり神の言葉が、段々容易に肉体に宿った訳である。
 ここで諸君は『何故に心が表現を求むるか?』と訊ねるであろう。他なし心が『個性』を求め、又『形態』を求むるからである。個性といい、又形態といい、大体心と物との間に行われる間断なき接衝の所産である。が、ここで諸君として忘れてならない事は、人類の行動の支配権を握るものが、どこまで行っても物質の精-神経並に神経記憶である事である。故に『自我』とは、結局肉体精神が骨子となり、これに統一原理から派出さる、影像が加味して出来上がったものである。それがとりも直さず言葉が肉体に宿ったのである。

 (評釈)この一章は非常に用心深く、盛んに抽象的文字を使用しているので、真意を掴み難いかと思うから念の為に、もっと判り易く私の言葉で解釈してみよう。第一に標題の『潜在的自我』とは、勿論『自我の本体』、私の所謂『本霊』のことである。『統一原理』というのもつまりそれである。もっと具体的に言えば、これは、各自の魂の親、出発点である所の一つの自然霊である。日本では古来『人は祖に基づき、祖は神に基づく』と言っているが、この『神』がつまり潜在的自我である。マイヤースが『言葉が肉体となり我等の中に宿る』というバイブルの文句に与えた説明は妥当である。日本ではこれを神の分霊が、我々に宿ると言っている。次にマイヤースが潜在意識と、顕在意識とを同一物とせるは正しき見解である。意識は一と色である。ただ媒体次第で、その働きに色々に等差がつくまでである。彼が通常意識を、一の複合体と見做しているのも甚だよい。人間の通常意識が、玉石混交である所以がよく判ると思う。天才の説明も大体に於いて首肯される。天才とは結局一種の片輪者、変態者であり、優れた霊媒も同一である。彼の所謂『神経的液状物』とは幽界人としての実際的観察に基づいた名称で、現界人からいえば、つまり常識の要素であり、人間味である。天才者にはそれが欠乏しているのである。
 最後に彼が述べる所の進化論は、非常に良いと思う。私の流儀にこれを説明すれば、自然霊がその分霊を降ろして、人類の種子を植え付け、幾十百万年に亘る多大の年月の間に、段々これを進化せしめ、以って地上に於ける自分の代表者-肉の宮としたのである。現在の人類はまだお粗末であるが、しかし太古の原始時代の人類に比すれば、どれだけ進化しているか知れない。人間が宇宙の大霊と同化するなどというのは、単なる観念説で、実際問題とすれば、人間が自己の本霊と合流することが出来れば、それは理想の極致と称してよい。