自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
前章の記事は、潜在的自我の一切の働きを尽くすに至らなかった。何卒あれを一の序説位に軽く取り扱って頂きたい。あの問題をいかに論じてよいか、私自身にもよく判らなかったのである。
さてここでは睡眠につきて述べる事にするが、生前地上生活を送っていた時に、私は睡眠とは、結局霊の一時的退却であると考えていた。即ち霊が暫く脳から脱出して他界で休養するか、それとも、寧ろ一種の精気が外部から注入せられるかであってこれが為に翌朝眼を覚ました時に、心気の爽快を覚えるのであろう位に考えていた。私は生時から顕幽両界の生活を確信しており、その点に於いては、私に何等の手落ちもなかった。が、睡眠中にいかなる手続きが起こるのかは、こちらの世界に来てから漸く判りかけて来たに過ぎない。これからその説明を試みる。
実際をいうと、睡眠という状態は、魂と肉体とが分離する現象なので、その結果霊と脳細胞とは連絡を失うことになる。ここが肝要な点である。肉体というものは、主としてこの魂(エーテル体)によって支配され、それが脱出した時に、肉体は殆ど静止状態に陥ってしまう。その間に於いて魂の方では、諸君の所謂エーテルと称するものから、必要なる刺激又は栄養素を受け取るのだが、エーテルというのは非常に広義の言葉で、睡眠中に魂を養うものは、エーテルの中の特殊の要素なのである。仕方がないから私はここで新熟語を製造し、その特殊のものを『エーテル精(イーゼリック エッセンス)』と呼ぼうかと思う。物理学者達は有形無形、一切の元素に命名することを、自己の権能と考えているらしいから、私が今こんな真似をするのは、越権の沙汰であると言はるるかも知れないが、さし当たり致し方がない。ところで魂の不在中、霊(スピリット)の方はどうかというに、それは依然として肉体に接近している。ただ仲介者がいないので、直接脳に何等の作用をも及ぼし得ないまでである。但し高級の神経中枢が、特に敏感になっている場合には、霊は魂(ソール)の残滓を利用して、稀に何等かの影像を脳に印象せんとすることもある。睡眠者が、時として未来の出来事の正しい予覚(よかく)などを掴むのは、そうした場合に起こるのである。
ここで諸君は、夜な夜な睡眠者に起こる、かの混沌たる雑務の起因は、何であるかと訊かれるであろう。が、夢はこれを開くべき鍵さえあれば、決して不可解なものでもない。諸君は日中しばしば強烈なる神経的衝撃、例えば感情の抑圧などをやる。それ等の衝撃が、時として神経網の上に強き印象を作り、夜間支配者である魂の不在に乗じて、反射的に混乱せる模様を織り出すことになるのである。従ってそれ等の夢は、一つの神経性の幻影であって、決して高所から出発した、意義ある影像ではないのである。
私は既に注意とは、神経的エネルギーを、脳の或る特殊の細胞に向けることだと説明した。ところでもしこのエネルギーの流れが、日中に於いて強く且つ連続的であったとしたら、その振動は後まで続き、その余波が、他の何等かの印象と混合して、奇妙な結果を孕むことになる。例えば諸君が日中一つの婦人帽を見て、ふと死んだ祖母の事を想起したとする。日中には格別の事でもなかったが、夜間支配権が緩んで眠りに落ちると、忽然としてその祖母が夢の中に出現する。これは結局脳の内部で、監督者の不在に乗じて、祖母の影像と神経とが、一種の隠れんぼの遊戯に耽る訳である。かの夢遊病なども、結局神経が昂奮しているか、又は脆弱であるかに乗じて、部分的副意識が刺激を与えた結果である。夢遊病患者が慨して何等の危険にも陥らないのは薄弱ながら、右の副意識が働いているからで、まさかの場合には、体外に離脱している魂に警報を与え、大急ぎでこれを体内に呼び戻すようなこともやる。
私の説明は大分粗雑に流れたので、モウ一度繰り返しておく。仲介者の魂は、栄養摂取の必要上、一時肉体を離脱するが、それが取りも直さず睡眠という現象である。霊(スピリット)の方では睡眠中にも、依然肉体に生気を付与するが、仲介者不在の為に、脳の中枢に働きかけることは滅多に無い。疑もなく睡眠中にも、潜在的自我の一部-或る層だけは、脳に滲み込んでいるらしい形跡はある。例えば日中何等かの出来事によって、昔の連想又は昔の情念が喚び覚まされたとする。が、日中は魂が他事に忙殺されている為に、これを抑制して識域に上させずにおく。丁度それは水の流れがせき止められた形である。然るに夜間支配人たる魂が不在なるに乗じ、これ等の記憶は堰を破って、どッと脳の中に奔流して、ここに少時の間昔ながらの影像を活躍させる。
次に催眠と睡眠との相違につきて一言述べておきたい。両者の間には、少なくとも一の肝要な相違点がある。他なし催眠現象にありては、多くの場合に於いて、被術者の魂が、ただ抑え付けられるだけで、滅多に体外に退去することのない事である。従って催眠術者は、神経がある病的状態に陥っている場合の外は、通例被術者をして、その意志を放棄せしむる迄には至らない。つまり催眠術がかかった場合には、潜在的自我と肉体とが、言わば大変に接近したような状態になり、平生埋没されている記憶などが、ヒョロヒョロ表面に現れて来る。無論その間、媒介役の魂が抑え付けられている為に、自我の統体としての活動は不可能で、僅かに自我の断片のみが現れるだけである。
(評釈)用語の不備の為に、説明がやや難解に陥らんとするは致し方ない事である。マイヤースの所謂霊(スピリット)とは『自我の本体』の分かれで、超個性的のものと思えばよいであろう。又魂(ソール)又は神経魂(ナープ ソール)というのは、要するに本人の個性の中枢で、その用具として特殊の媒体(エーテル体)を使用している。それからモウ一つの肉体-これは勿論本人が地上生活に於いて使用する用具である。要するに人間生活は霊=魂=体、この三つの使い分けであると考えれば考えられる訳である。兎に角右の観念を腹に入れて、マイヤースの解説を読めばよく意味が判ると思う。最後の催眠に関する説明も簡単ながら頗る要領を獲ている。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
前章の記事は、潜在的自我の一切の働きを尽くすに至らなかった。何卒あれを一の序説位に軽く取り扱って頂きたい。あの問題をいかに論じてよいか、私自身にもよく判らなかったのである。
さてここでは睡眠につきて述べる事にするが、生前地上生活を送っていた時に、私は睡眠とは、結局霊の一時的退却であると考えていた。即ち霊が暫く脳から脱出して他界で休養するか、それとも、寧ろ一種の精気が外部から注入せられるかであってこれが為に翌朝眼を覚ました時に、心気の爽快を覚えるのであろう位に考えていた。私は生時から顕幽両界の生活を確信しており、その点に於いては、私に何等の手落ちもなかった。が、睡眠中にいかなる手続きが起こるのかは、こちらの世界に来てから漸く判りかけて来たに過ぎない。これからその説明を試みる。
実際をいうと、睡眠という状態は、魂と肉体とが分離する現象なので、その結果霊と脳細胞とは連絡を失うことになる。ここが肝要な点である。肉体というものは、主としてこの魂(エーテル体)によって支配され、それが脱出した時に、肉体は殆ど静止状態に陥ってしまう。その間に於いて魂の方では、諸君の所謂エーテルと称するものから、必要なる刺激又は栄養素を受け取るのだが、エーテルというのは非常に広義の言葉で、睡眠中に魂を養うものは、エーテルの中の特殊の要素なのである。仕方がないから私はここで新熟語を製造し、その特殊のものを『エーテル精(イーゼリック エッセンス)』と呼ぼうかと思う。物理学者達は有形無形、一切の元素に命名することを、自己の権能と考えているらしいから、私が今こんな真似をするのは、越権の沙汰であると言はるるかも知れないが、さし当たり致し方がない。ところで魂の不在中、霊(スピリット)の方はどうかというに、それは依然として肉体に接近している。ただ仲介者がいないので、直接脳に何等の作用をも及ぼし得ないまでである。但し高級の神経中枢が、特に敏感になっている場合には、霊は魂(ソール)の残滓を利用して、稀に何等かの影像を脳に印象せんとすることもある。睡眠者が、時として未来の出来事の正しい予覚(よかく)などを掴むのは、そうした場合に起こるのである。
ここで諸君は、夜な夜な睡眠者に起こる、かの混沌たる雑務の起因は、何であるかと訊かれるであろう。が、夢はこれを開くべき鍵さえあれば、決して不可解なものでもない。諸君は日中しばしば強烈なる神経的衝撃、例えば感情の抑圧などをやる。それ等の衝撃が、時として神経網の上に強き印象を作り、夜間支配者である魂の不在に乗じて、反射的に混乱せる模様を織り出すことになるのである。従ってそれ等の夢は、一つの神経性の幻影であって、決して高所から出発した、意義ある影像ではないのである。
私は既に注意とは、神経的エネルギーを、脳の或る特殊の細胞に向けることだと説明した。ところでもしこのエネルギーの流れが、日中に於いて強く且つ連続的であったとしたら、その振動は後まで続き、その余波が、他の何等かの印象と混合して、奇妙な結果を孕むことになる。例えば諸君が日中一つの婦人帽を見て、ふと死んだ祖母の事を想起したとする。日中には格別の事でもなかったが、夜間支配権が緩んで眠りに落ちると、忽然としてその祖母が夢の中に出現する。これは結局脳の内部で、監督者の不在に乗じて、祖母の影像と神経とが、一種の隠れんぼの遊戯に耽る訳である。かの夢遊病なども、結局神経が昂奮しているか、又は脆弱であるかに乗じて、部分的副意識が刺激を与えた結果である。夢遊病患者が慨して何等の危険にも陥らないのは薄弱ながら、右の副意識が働いているからで、まさかの場合には、体外に離脱している魂に警報を与え、大急ぎでこれを体内に呼び戻すようなこともやる。
私の説明は大分粗雑に流れたので、モウ一度繰り返しておく。仲介者の魂は、栄養摂取の必要上、一時肉体を離脱するが、それが取りも直さず睡眠という現象である。霊(スピリット)の方では睡眠中にも、依然肉体に生気を付与するが、仲介者不在の為に、脳の中枢に働きかけることは滅多に無い。疑もなく睡眠中にも、潜在的自我の一部-或る層だけは、脳に滲み込んでいるらしい形跡はある。例えば日中何等かの出来事によって、昔の連想又は昔の情念が喚び覚まされたとする。が、日中は魂が他事に忙殺されている為に、これを抑制して識域に上させずにおく。丁度それは水の流れがせき止められた形である。然るに夜間支配人たる魂が不在なるに乗じ、これ等の記憶は堰を破って、どッと脳の中に奔流して、ここに少時の間昔ながらの影像を活躍させる。
次に催眠と睡眠との相違につきて一言述べておきたい。両者の間には、少なくとも一の肝要な相違点がある。他なし催眠現象にありては、多くの場合に於いて、被術者の魂が、ただ抑え付けられるだけで、滅多に体外に退去することのない事である。従って催眠術者は、神経がある病的状態に陥っている場合の外は、通例被術者をして、その意志を放棄せしむる迄には至らない。つまり催眠術がかかった場合には、潜在的自我と肉体とが、言わば大変に接近したような状態になり、平生埋没されている記憶などが、ヒョロヒョロ表面に現れて来る。無論その間、媒介役の魂が抑え付けられている為に、自我の統体としての活動は不可能で、僅かに自我の断片のみが現れるだけである。
(評釈)用語の不備の為に、説明がやや難解に陥らんとするは致し方ない事である。マイヤースの所謂霊(スピリット)とは『自我の本体』の分かれで、超個性的のものと思えばよいであろう。又魂(ソール)又は神経魂(ナープ ソール)というのは、要するに本人の個性の中枢で、その用具として特殊の媒体(エーテル体)を使用している。それからモウ一つの肉体-これは勿論本人が地上生活に於いて使用する用具である。要するに人間生活は霊=魂=体、この三つの使い分けであると考えれば考えられる訳である。兎に角右の観念を腹に入れて、マイヤースの解説を読めばよく意味が判ると思う。最後の催眠に関する説明も簡単ながら頗る要領を獲ている。