自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
幸福を論ずるに当たりては、全てに亘りて均衡の観念を失わず、人類が決して一列平等でないことを忘れてはならない。甲に対して、いつまでも変わらざる、誠の歓喜の種となる一つの生活が、乙にとりては、ただ不満と、不幸との源泉であるかも知れないのである。
由来多くの学者達は、幸福につきて、厳密周到なる法則を規定すべく努力したのであるが、不幸にして彼等は、謬れる前提の上に、無益の労苦を重ねた憾(うら)みがある。人間の性情は千差万別であるから、いかなる階級、いかなる国民、又いかなる男女を問わず、自分の提示せる法則にさえ従えば、皆幸福を見出すことが出来る、とは言い得ない。それ等の法則を、自己の日常生活に適用するには、或る一部の個人又国民は、物質的にも、精神的にも、又心霊的にも、まだ充分発達を遂げていないかも知れない。たとえそれが出来ているにしても、それ等の法則は、これを実際に当てはめてみると、単に退屈の源泉であり、激しい幻滅の種に過ぎないかも知れない。
一例を挙げれば、キリスト教、並びに仏教の神秘的禁欲論者の唱道する幸福への道は、ほぼ一致している。彼等は口を極めて、真の幸福は決して五感を通じて獲られるものでなく、又金銭や権勢では、決して買われるものでないと教える。彼等の推薦するのは完全なる放棄であり、ありとあらゆる種類の富、権力、美の軽蔑である。彼等は何れも口を揃えて、真の幸福はただ静思内観、神との直接の交通あるのみであるという。つまり彼等は神そのものは尊重するが、しかし人間の五感を歓ばせ、人間の欲望を満足させるべく、神から賜る所の一切の事柄は、全部これを軽蔑せよというのである。
私の視る所によれば、彼等の意見には、幾多の重大なる抗議の余地があると思う。神秘家自身には、或いはこの種の内的生活が、唯一の真の幸福の種であるかも知れない。が、百人中の九十人は神秘論者でも何でもない。彼等は月並みの平凡人であって、右の如き勧告を実行に移そうとしても、とても出来ない素質を有っている。もし強いてそんな真似をしてみようものなら、彼等はいたずらに自分の性情を狭め、苦しめ、又歪曲せしむるだけである。で、普通一般人士に対する幸福は節制、克己、及び自由等の言葉の中に見出されると思う。彼は何より先に、自分自身を支配する事を学ばねばならない。一旦その力が修得されると、今度は続いていかに賢明に他人を支配し、又境遇を支配すべきかを学ばねばならない。それで初めて自分の自由が獲得される。第二に彼は自分というものが、広大無辺なる天地間の大機構の中の、極めて微弱なる存在であるかを知らねばならない。第三に必要なのは、天賦的に自分に備わる所の、特殊の創造力を開発することである。
一旦人間が自制の力さえ習得すれば、そこで初めてある程度の心の落ち着きが出来て来て、日常の片々たる不幸災厄の為に、進退度を失うような、下手な事はしなくなって来る。又他人に対する統制力が備われば、物質上の損害又は欠乏等から救われ、又悪意を以って色々画策する者が現れても、何とかこれを切り抜ける道がついて来る。もしそれ自身に対する謙虚なる評価は、自然他人との折り合いを良好にし、それだけで幸福の種子となるであろう。一時的にもせよ、自己を忘れ、必要なる同情を他人に分かつ仕業程、世にも麗しい仕業はないのである。
次にかの創造的本能-これは人間性情の概要部を構成するもので、その賢明なる活用こそ、彼にとりて何よりも重要なる業務の一つとなるのである。この本能は或る程度、性的刺激に起因する。が、往々性と離れた仕事の上にも働き、それが最大の幸福の基となることがある。その人の性的生活が何であろうとも、彼はすべからく何等かの方法で、創造的本能のはけ口を求めるがよい。よし彼が一つの構成的想像力の所有者でないとしても、絵画の翫賞(がんしょう)とか、山水の探訪とか、兎も角も何物かの上に、自己の創造的本能の満足を求め、自己の感官に適当の快楽を与えることが出来る。が、何より幸福なのは、真の創造力と同時に、適当の自制力をも兼ね備えた人達である。表現すべき媒体の高下などは、少しも問題とするには足りない、その楽しみたるや、誠に言うに言われぬものがあろう。
かの禁欲論者は、皆口を揃えて、金銭を軽視すべく諸君に教えるであろうが、実は夫子自ら金銭上に顧慮を要せぬ連中なのである。彼の友人又は崇拝者が必要品の全部を供給するとか、親譲りの立派な資産があるとか、禁欲者とは大概そんな境涯の人達だと思えばよい。
かるが故に、自分としては、幸福を求むる者に向かって、金銭に対する適度の尊重を力強く忠告するものである。金銭がなければ餓死するか、さなくとも、非常なる肉体的欠乏、又は不愉快極まる衰弱を余儀なくせられ、肉の宮に鎮まれる魂の光を、充分に発揚せしむることは覚束ない。彼は最早自由の身ではない。何となれば、彼は時々刻々かまびすしき肉体の要求から苛まれる、哀れむべき身の上であるからである。又彼が薄給で、長時間労役に服せねばならぬとすれば、これが為に時間も体力も共に乏しく、とても自己本来の面目を発揮したり、他人の快楽に向かって寄与したりする余裕はない。
で、適度の金銭欲は寧ろ一の道徳である。それは完全なる人間となるべき希望の現われであり、従って間接には、他人を埤益(ひえき)せんとする希望の現われでもあるのである。
全て幸福は努力の結果であり、賢明にして統制ある五感的快楽の満足の結果であり、肉体の完成の為の体育的活動の結果であり、精神的開発に対する勉学の結果であり、又寛容性、博愛性のもたらす安心の結果である。で、これ等の発達を講ずることは、結局霊性の開拓ともなる。
これを要するに、普通人にとりて、幸福なるものはその人の一切の才能、一切の力量-体力、感受力、霊力等の、賢明にして且つ持続的なる活用の中に見出されるものと思えばよい。
最後に、近代人としては、叡智の中にこそ人生の秘鍵、安心立命の秘鍵が見出されると思う。信念、希望、仁愛-これ等の全ては、この崇高なる叡智の中に包蔵せられ、そして全ては、叡智の光によりて色彩を添えるのである。叡智の伴わざる信念にも、希望にも、又仁愛にも、そこに何等人を惹き付ける光はない。全て闇の中に埋もれているものが、健全なる発達を遂げることは絶無である。
(評釈)例によりて穏健、周到、着実の議論、そこに一点の申し分がない。普通人に向かって、五感の適度なる満足を勧め、その天賦的特徴の発揮を勧め、更に身分相応の蓄財の必要を進める辺りは、甚だ傾聴に値すると思う。かのいたずらに実行不可能の禁欲を勧める口頭説法程キザで、高慢で、且つ不健全なるはない。物欲の奴隷となるのは固より唾棄すべきであるが、さりとて消極的の乞食生活、托鉢生活などを鼓吹するに至っては、正に言語同断である。全て世の中は、霊と肉との七分三分の兼ね合い、賢明なる調節協調以外に健全なる道はない。その点に於いてマイヤースは立派に及第点を取っている。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
幸福を論ずるに当たりては、全てに亘りて均衡の観念を失わず、人類が決して一列平等でないことを忘れてはならない。甲に対して、いつまでも変わらざる、誠の歓喜の種となる一つの生活が、乙にとりては、ただ不満と、不幸との源泉であるかも知れないのである。
由来多くの学者達は、幸福につきて、厳密周到なる法則を規定すべく努力したのであるが、不幸にして彼等は、謬れる前提の上に、無益の労苦を重ねた憾(うら)みがある。人間の性情は千差万別であるから、いかなる階級、いかなる国民、又いかなる男女を問わず、自分の提示せる法則にさえ従えば、皆幸福を見出すことが出来る、とは言い得ない。それ等の法則を、自己の日常生活に適用するには、或る一部の個人又国民は、物質的にも、精神的にも、又心霊的にも、まだ充分発達を遂げていないかも知れない。たとえそれが出来ているにしても、それ等の法則は、これを実際に当てはめてみると、単に退屈の源泉であり、激しい幻滅の種に過ぎないかも知れない。
一例を挙げれば、キリスト教、並びに仏教の神秘的禁欲論者の唱道する幸福への道は、ほぼ一致している。彼等は口を極めて、真の幸福は決して五感を通じて獲られるものでなく、又金銭や権勢では、決して買われるものでないと教える。彼等の推薦するのは完全なる放棄であり、ありとあらゆる種類の富、権力、美の軽蔑である。彼等は何れも口を揃えて、真の幸福はただ静思内観、神との直接の交通あるのみであるという。つまり彼等は神そのものは尊重するが、しかし人間の五感を歓ばせ、人間の欲望を満足させるべく、神から賜る所の一切の事柄は、全部これを軽蔑せよというのである。
私の視る所によれば、彼等の意見には、幾多の重大なる抗議の余地があると思う。神秘家自身には、或いはこの種の内的生活が、唯一の真の幸福の種であるかも知れない。が、百人中の九十人は神秘論者でも何でもない。彼等は月並みの平凡人であって、右の如き勧告を実行に移そうとしても、とても出来ない素質を有っている。もし強いてそんな真似をしてみようものなら、彼等はいたずらに自分の性情を狭め、苦しめ、又歪曲せしむるだけである。で、普通一般人士に対する幸福は節制、克己、及び自由等の言葉の中に見出されると思う。彼は何より先に、自分自身を支配する事を学ばねばならない。一旦その力が修得されると、今度は続いていかに賢明に他人を支配し、又境遇を支配すべきかを学ばねばならない。それで初めて自分の自由が獲得される。第二に彼は自分というものが、広大無辺なる天地間の大機構の中の、極めて微弱なる存在であるかを知らねばならない。第三に必要なのは、天賦的に自分に備わる所の、特殊の創造力を開発することである。
一旦人間が自制の力さえ習得すれば、そこで初めてある程度の心の落ち着きが出来て来て、日常の片々たる不幸災厄の為に、進退度を失うような、下手な事はしなくなって来る。又他人に対する統制力が備われば、物質上の損害又は欠乏等から救われ、又悪意を以って色々画策する者が現れても、何とかこれを切り抜ける道がついて来る。もしそれ自身に対する謙虚なる評価は、自然他人との折り合いを良好にし、それだけで幸福の種子となるであろう。一時的にもせよ、自己を忘れ、必要なる同情を他人に分かつ仕業程、世にも麗しい仕業はないのである。
次にかの創造的本能-これは人間性情の概要部を構成するもので、その賢明なる活用こそ、彼にとりて何よりも重要なる業務の一つとなるのである。この本能は或る程度、性的刺激に起因する。が、往々性と離れた仕事の上にも働き、それが最大の幸福の基となることがある。その人の性的生活が何であろうとも、彼はすべからく何等かの方法で、創造的本能のはけ口を求めるがよい。よし彼が一つの構成的想像力の所有者でないとしても、絵画の翫賞(がんしょう)とか、山水の探訪とか、兎も角も何物かの上に、自己の創造的本能の満足を求め、自己の感官に適当の快楽を与えることが出来る。が、何より幸福なのは、真の創造力と同時に、適当の自制力をも兼ね備えた人達である。表現すべき媒体の高下などは、少しも問題とするには足りない、その楽しみたるや、誠に言うに言われぬものがあろう。
かの禁欲論者は、皆口を揃えて、金銭を軽視すべく諸君に教えるであろうが、実は夫子自ら金銭上に顧慮を要せぬ連中なのである。彼の友人又は崇拝者が必要品の全部を供給するとか、親譲りの立派な資産があるとか、禁欲者とは大概そんな境涯の人達だと思えばよい。
かるが故に、自分としては、幸福を求むる者に向かって、金銭に対する適度の尊重を力強く忠告するものである。金銭がなければ餓死するか、さなくとも、非常なる肉体的欠乏、又は不愉快極まる衰弱を余儀なくせられ、肉の宮に鎮まれる魂の光を、充分に発揚せしむることは覚束ない。彼は最早自由の身ではない。何となれば、彼は時々刻々かまびすしき肉体の要求から苛まれる、哀れむべき身の上であるからである。又彼が薄給で、長時間労役に服せねばならぬとすれば、これが為に時間も体力も共に乏しく、とても自己本来の面目を発揮したり、他人の快楽に向かって寄与したりする余裕はない。
で、適度の金銭欲は寧ろ一の道徳である。それは完全なる人間となるべき希望の現われであり、従って間接には、他人を埤益(ひえき)せんとする希望の現われでもあるのである。
全て幸福は努力の結果であり、賢明にして統制ある五感的快楽の満足の結果であり、肉体の完成の為の体育的活動の結果であり、精神的開発に対する勉学の結果であり、又寛容性、博愛性のもたらす安心の結果である。で、これ等の発達を講ずることは、結局霊性の開拓ともなる。
これを要するに、普通人にとりて、幸福なるものはその人の一切の才能、一切の力量-体力、感受力、霊力等の、賢明にして且つ持続的なる活用の中に見出されるものと思えばよい。
最後に、近代人としては、叡智の中にこそ人生の秘鍵、安心立命の秘鍵が見出されると思う。信念、希望、仁愛-これ等の全ては、この崇高なる叡智の中に包蔵せられ、そして全ては、叡智の光によりて色彩を添えるのである。叡智の伴わざる信念にも、希望にも、又仁愛にも、そこに何等人を惹き付ける光はない。全て闇の中に埋もれているものが、健全なる発達を遂げることは絶無である。
(評釈)例によりて穏健、周到、着実の議論、そこに一点の申し分がない。普通人に向かって、五感の適度なる満足を勧め、その天賦的特徴の発揮を勧め、更に身分相応の蓄財の必要を進める辺りは、甚だ傾聴に値すると思う。かのいたずらに実行不可能の禁欲を勧める口頭説法程キザで、高慢で、且つ不健全なるはない。物欲の奴隷となるのは固より唾棄すべきであるが、さりとて消極的の乞食生活、托鉢生活などを鼓吹するに至っては、正に言語同断である。全て世の中は、霊と肉との七分三分の兼ね合い、賢明なる調節協調以外に健全なる道はない。その点に於いてマイヤースは立派に及第点を取っている。