自殺ダメ
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
私にとりて、神は愛だとか善だとか、もしくは又妬むものとか、悲しむものとかいう言葉程、不思議に感じられるものはない。神は『必至』であり、一切萬有の終結である。が、神は善でもなければ又悪でもない。無慈悲でもなければ又親切でもない。神は一切の目的の背後の目的である。神には愛もなければ憎みもない。神を完全に表現し得る思想はどこにもない。何となれば、神は一切の創造であると同時に、又一切から離れたものであるからである。彼は無量の世界、無限の宇宙の背面の『思想』である。
我々が愛とか憎みとか言う時には、我々は決まり切って人間的の筆法で考える。その際胸に描くのは、恐らく、幼児に対する慈母の愛、妻に対する夫の愛、さては民衆の為に注がれた勇士の血涙等で、それ等が愛の象徴となる。それから憎みの代表としては、自分を騙り、自分を傷付けたものに対する烈しい憎悪、さては何らかの凶行を犯した悪漢に対する嫌忌の念-大体先ずそんな性質のものである。
ところが人間的の愛又は憎みは、よしそれが最高潮に達した時でも、到底神の属性とは思考さるべくもない。人間が知っている限りの愛には、そこに何らかの汚斑(しみ)、何らかの欲望の條脈(すじ)が入っている。そんな不純な愛は、到底神の愛たるべき資格はない。同様の最も高尚な人間の憎みの中にも、又多少の汚れがあり、これを以って神の名を傷つけるべきでない。
これを要するに、この方面に於いて、我々は神に対して適用すべき、ただ一つの言葉の有ち合わせもない。我々は神を無限の或者と呼び得るかも知れぬが、神は決して祈祷者の所謂『我等の愛する父』でも何でもない。神はもっともっと高尚な、もっともっと偉大なる存在である。一人の愛する父は、ただ彼自身の子を愛する父である。さればにや、かの大戦に際して、英人は神の愛を自国のみで独占せんとし、同様にドイツ人も、又神の愛を一手に買占めようとした。人間が『愛』という言葉を用いる時には、常にそこに或る特殊の愛の目的物がある。成る程人間は、機械的に、神はその手に創造せる全てを愛し給う、などと言わぬではない。が、人間は実は自分の使っている言葉の意義を知らないのである。愛は相対の場合にのみ成立する。絶対の場合には、そこに愛も不愛もない。で、私としては、造物主を『愛』の神などと呼んで、その神格を汚したくない。もしそんな真似をすれば、それは必然的に神の観念を局限することになる。換言すれば、神を人間並に取り扱うことになる。
敢えて言う、神は決して愛しない。愛は人間の徳性であって、それは火焔の如く上下に浮動する。それは或る時期には光であるが、その光は必ずしも永続しない。その結果、いかに優れた男女間にありても、愛はしばしば焦燥、癇癪、もしくは或る利己的の憂鬱によりて汚される。
これに反して神は決して変わらない。宇宙の父であり、又宇宙の母である神性には、そこに浮沈もなければ上下もない。もしも神が愛であったとしたら、この驚くべき萬有の生命が、かくも完全に続いている筈がない。それは必然的に、愛と称するものの変化し易い性質の影響に服したに相違ない。時とすれば物の発生が全然休止し、草木の枯死となり、土地の荒廃となり、海水は溢れ、山岳は崩壊し、幾百千万の生霊が一朝にして無惨の横死を遂げると言った悲劇が、あちこちに発生したに相違ない。然り、もしも神にして、人間の思考するが如き愛の所有者であったりしたら、世界の歴史は根本的に趣を変え、現在よりも遙かに悲惨なもの、悪性のものであったに相違ない。神は断じて愛ではない、愛以上のものである。
昔キリストはユダヤ人に向かって、『神は愛なり』と言った。キリストとしては、或はそれでもよかったであろう。何となれば彼の所謂愛は、地上の人類が慣用の愛とは、全然選を異にしていたと信ずべき理由があるからである。有限の心の所有者にとりては寧ろ『神は愛よりも大なり』という言葉の方が、一層適切に神性神格に対する理解を高めると自分は信ずる。
(評釈)神の絶対性につきて、昔から教えられて来た東洋民族にとりて、この章に述べてあることは、初めから判り切った事であるが、『神は愛なり』の慣用語に浸潤し切って、何の批判も考慮も働かぬように習慣付けられて来た西洋人の意見としては、正に破天荒の卓見と称してよい。かくいう私も、先年日本人までが無自覚的に、『愛』という言葉を濫用するのを遺憾に思い、『愛の検討』と題する一文を発表したことがある。それは昭和八年十月号の『心霊と人生』に掲載されているから、何卒参照されたい。本章と対照すれば、一層の真意義がはっきりすると思う。
(自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)
私にとりて、神は愛だとか善だとか、もしくは又妬むものとか、悲しむものとかいう言葉程、不思議に感じられるものはない。神は『必至』であり、一切萬有の終結である。が、神は善でもなければ又悪でもない。無慈悲でもなければ又親切でもない。神は一切の目的の背後の目的である。神には愛もなければ憎みもない。神を完全に表現し得る思想はどこにもない。何となれば、神は一切の創造であると同時に、又一切から離れたものであるからである。彼は無量の世界、無限の宇宙の背面の『思想』である。
我々が愛とか憎みとか言う時には、我々は決まり切って人間的の筆法で考える。その際胸に描くのは、恐らく、幼児に対する慈母の愛、妻に対する夫の愛、さては民衆の為に注がれた勇士の血涙等で、それ等が愛の象徴となる。それから憎みの代表としては、自分を騙り、自分を傷付けたものに対する烈しい憎悪、さては何らかの凶行を犯した悪漢に対する嫌忌の念-大体先ずそんな性質のものである。
ところが人間的の愛又は憎みは、よしそれが最高潮に達した時でも、到底神の属性とは思考さるべくもない。人間が知っている限りの愛には、そこに何らかの汚斑(しみ)、何らかの欲望の條脈(すじ)が入っている。そんな不純な愛は、到底神の愛たるべき資格はない。同様の最も高尚な人間の憎みの中にも、又多少の汚れがあり、これを以って神の名を傷つけるべきでない。
これを要するに、この方面に於いて、我々は神に対して適用すべき、ただ一つの言葉の有ち合わせもない。我々は神を無限の或者と呼び得るかも知れぬが、神は決して祈祷者の所謂『我等の愛する父』でも何でもない。神はもっともっと高尚な、もっともっと偉大なる存在である。一人の愛する父は、ただ彼自身の子を愛する父である。さればにや、かの大戦に際して、英人は神の愛を自国のみで独占せんとし、同様にドイツ人も、又神の愛を一手に買占めようとした。人間が『愛』という言葉を用いる時には、常にそこに或る特殊の愛の目的物がある。成る程人間は、機械的に、神はその手に創造せる全てを愛し給う、などと言わぬではない。が、人間は実は自分の使っている言葉の意義を知らないのである。愛は相対の場合にのみ成立する。絶対の場合には、そこに愛も不愛もない。で、私としては、造物主を『愛』の神などと呼んで、その神格を汚したくない。もしそんな真似をすれば、それは必然的に神の観念を局限することになる。換言すれば、神を人間並に取り扱うことになる。
敢えて言う、神は決して愛しない。愛は人間の徳性であって、それは火焔の如く上下に浮動する。それは或る時期には光であるが、その光は必ずしも永続しない。その結果、いかに優れた男女間にありても、愛はしばしば焦燥、癇癪、もしくは或る利己的の憂鬱によりて汚される。
これに反して神は決して変わらない。宇宙の父であり、又宇宙の母である神性には、そこに浮沈もなければ上下もない。もしも神が愛であったとしたら、この驚くべき萬有の生命が、かくも完全に続いている筈がない。それは必然的に、愛と称するものの変化し易い性質の影響に服したに相違ない。時とすれば物の発生が全然休止し、草木の枯死となり、土地の荒廃となり、海水は溢れ、山岳は崩壊し、幾百千万の生霊が一朝にして無惨の横死を遂げると言った悲劇が、あちこちに発生したに相違ない。然り、もしも神にして、人間の思考するが如き愛の所有者であったりしたら、世界の歴史は根本的に趣を変え、現在よりも遙かに悲惨なもの、悪性のものであったに相違ない。神は断じて愛ではない、愛以上のものである。
昔キリストはユダヤ人に向かって、『神は愛なり』と言った。キリストとしては、或はそれでもよかったであろう。何となれば彼の所謂愛は、地上の人類が慣用の愛とは、全然選を異にしていたと信ずべき理由があるからである。有限の心の所有者にとりては寧ろ『神は愛よりも大なり』という言葉の方が、一層適切に神性神格に対する理解を高めると自分は信ずる。
(評釈)神の絶対性につきて、昔から教えられて来た東洋民族にとりて、この章に述べてあることは、初めから判り切った事であるが、『神は愛なり』の慣用語に浸潤し切って、何の批判も考慮も働かぬように習慣付けられて来た西洋人の意見としては、正に破天荒の卓見と称してよい。かくいう私も、先年日本人までが無自覚的に、『愛』という言葉を濫用するのを遺憾に思い、『愛の検討』と題する一文を発表したことがある。それは昭和八年十月号の『心霊と人生』に掲載されているから、何卒参照されたい。本章と対照すれば、一層の真意義がはっきりすると思う。