自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 永遠に通ずる我等の行旅の間に、我等は三様の仮装を採る。すなわち肉体に宿った時代、肉体を離れた時代、及び光焔の時代で、それ等の何れの形態も、意識の同一水準線、又はより以上に達せるものには立派に認識し得る。但しこの三つは謂わば基礎的形態であって、細別すればまだ幾つかに別れる。尚別に光明体もある。が、この光明体は一の仮装とも謂い得ないところがある。何となれば、それは一つの全的想像の個性的表現、真善美の一結晶体ともいうべきもので、要するに人間の思索以上の或物だからである。
 自分には、まだこの最後の神秘につきて、物語ろうとする勇気がない。自分はそれ以下の、三つにつきて述べてみたいのである。大体に於いて魂の殿堂は、三階段の表現形式によるのであるが、それ等は樞要の点に於いて互に相違している。肉体に宿る時代には、普通は何人も自己の思念によりて、その形態を変えることが出来ない。勿論そこに多少の例外はある。東洋の優れた行者達の間には自己の本霊を呼び寄せて、或る程度自己の変貌に成功したものもないではない。又何れの時代、何れの地方にも、時に異常の信心のお蔭で、偉大なる神明の加護に浴し、跛者(はしゃ=足が悪い人)にして起ち、盲者にして明を獲たような場合もある。但しこれは千百萬人中に、ただ一人か二人しか見出されない極度の例外に属し、普通人は、到底地上生活中に、自己の意念によりて自己の肉体を変形せしむる力はないのである。然るに死後の世界に在りては、事情がすっかり違って来る。夢幻界は、東洋人の所謂蓮のうてなの極楽浄土で、死後の世界の最下層に属するものであるにも係わらず、そこの居住者達は、意念の力で、任意に自己のエーテル体を変えることが出来るのである。地上の人間が恒星であるなら、帰幽霊は言わば遊星に該当する。更に進んで第四界(色彩界)に入れば、外貌の変化は自由自在、単なる想像の力で、自分の姿を自分の望み通りに造り得る。無論それは各自の器量だけのもので、御本人がいかに得意でも、より高き精神的飛躍を遂げた人達から見れば、それは一向に醜悪な姿であるかも知れないのである。
 兎に角各自は夢幻界の高層に於いて、初めて心の威力を味読する。そして或る特殊の心境、或る特殊の性格を開拓することによりて、色彩、面貌、又形態の上に根本的の変化を起こし得ることを充分に体験する。
 但し蓮のうてな式の夢幻界の下層に於いては、まだまだ過去の記憶の殻から脱出する事は出来ない。彼はただ外面的の変化に満足するだけで、精神的、人格的の大変化を遂げるまでには至らない。彼の最も得意とするのは、一種の若返り法で、普通二十五、六歳位の元気な、若々しい生前の姿をとるのである。
 ただ困ったことに、その想像力が尚貧弱であり、又その性格が尚未完成である為に、彼は単なる地上生活中の若者の姿しか造り得ない。換言すれば、彼は平凡な地上の人格の型を破り得ず、何等溌剌(はつらつ)たる創造も、又何等豊満なる変化も為し得ないのである。
 大体人生の行旅に疲れた人達の共通の渇望は、何等の努力、何等の苦労もなしに、親しき人達と膝を交えて、酔生夢死の安逸を貪り得ることである。かるが故に帰幽者の多くは、少なくとも或る期間、古代の神学者流の想像せるような、一の極楽境に留まることを歓ぶのであるが、無論そこにはただ安楽があるのみで、進歩は見出されない。で、彼等が意識の第三界(夢幻界)に達した時は、往々にして、それが善人の達すべき終局の目的地であるかの如く推定する。東洋の或る宗派では、これに『蓮のうてな』の名称をあたえるが、誠に似つかわしい名称である。エジプトの所謂水連の世界、-これも又同工異曲である。うつらうつらとせる夢心地、動かぬ水、変わらぬ景色、努力なき満足・・・思慮浅き人達には、全くそれが永世の象徴とも見えるであろう。
 が、この推定は勿論間違っている。魂は一度物質的肉体に宿りて、努力と昂奮の苦い経験を嘗めて来た。彼にとりて一時の休養は悪くもないであろうが、彼は更に別種の物体(エーテル体)に宿りて、更に更に深刻な無数の経験を積まねばならぬ。水連の生活では、到底いつまでも心の満足は獲られないのである。
 かくの如くにして、永遠の世界は、到底在来の宗教家などの愛用したような、簡単な概念的辞句を以って、手っ取り早く片付けてしまうことは出来ない。我等が地上生活に別れを告げた当座は、その思想感情がいかにも狭隘(きょうあい)で、そのままでは到底真の飛躍は望まれない。我等はここで覚醒一番、進歩に対する精神的欲求のまにまに、善かれ悪しかれ、猛然として向上の一路を辿ることになる。が、我等が尚人間的性情の羈絆(きはん)に縛られている間は、とても真正の進歩は望まれない。その必然の結果として、努力が起こり、煩悶が起こり、苦悩が起こり、又憤慨が起こるのである。
 最初の二つの仮相、肉体とエーテル体との相違は、まだまだ深刻とは謂われない。それは思想が外物に対して及ばず威力の相違でしかない。第三の仮相、光焔体を採るに及びて、ここに初めて根本的の相違が起こる。我等はこの形態を以って第五界(光焔界)の旅を続けるのである。
 (評釈)ここに説く所は、形態につきての親切な解釈で、幽明交通を試みる人、特に霊視能力の所有者にとりて、最も有力な参考資料である。一知半解の仏教徒などは、極めて安価に仮相だの実相だのという文字を濫用するが、厳密な意味に於いて、殆ど用を為さない。彼等の所謂実相は実は実相でも何でもなく、単に超物質的エーテル的仮相を指しているに過ぎない場合が多いのである。私は多くの実験の結果に基づき、死者の姿を動静の二つの分け、前者は生前そのままの形態を採り、後者は細かな振動を有する光球状を執ると述べているが、マイヤースの述べているところも、叙述の方法こそ異なれ、全然これに符合しているようである。マイヤースは第三の仮相に重きを置き、帰幽霊達は、その形態を以って第五界の旅を続けると言っているが、それは取りも直さず、帰幽霊が精神統一状態に於いて採るところの球状体に相違ない。これにつけても今更驚喜されるのは日本語の神秘性である。魂は『球(たま)』であり、又『球の火』である。これ程深遠なる言葉が、果たしてどこの国に見出されるか!日本国民が言霊の幸ふ国と讃えるのも、全く無理もない次第だと思う。