自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 『日界人』(Solar Man)なる用語は、太陽系所属の天体に見出される超物質的自然霊を指すので勿論普通の物質的肉体を有った人間とは、全然その選を異にする。幼稚な古代人には、内面の世界につきての観念が乏しく、従ってよしやそれ等の存在に気の付くものはあっても、いたずらにこれを理想化し、又英雄化するより外に、詮術(せんすべ)を知らなかったが、我々としては、急いでその修正に当たらねばならない。
 さて、或る一つの魂が、新たに天体のどれかに発生するにつけては、何は措いてもその発生の当事者、親がなければならぬが、この場合の親というのは、実に光焔体を有つ一群の自然霊なのである。天上の愛は地上のそれに比して、遙かに共通的、団体的の性質を帯び、所有欲、独占欲と言ったようなものが極めて少ない。つまり日頃共鳴的に働いている日界の年若き一群の男女が、生々の愛念に刺激せられ、互いに心を合わせ、力を合わせて熾烈なる思慕と、想像との疑念を送り出すことによりて、玆(げん)に忽然として、一個の独立せる、光焔的存在を創造するのである。無論それは容易の業ではない。それは実に芸術的の努力と、奮闘と、長期間に亘る忍耐との最後の結晶なのである。かるが故に、この世界の出生は、寧ろこれを『生命の具象的創造』と称した方が当たれるに近い。何となれば、それは人間のように、一つの魂が母の胎内に宿るのでなくして、体外に放射されたる、想像の雰囲気内に宿るからである。創造の原則には、そこに何等の相違もない。しかしその手続きの上には、正に天地の相違がある。
 人間には、容易に相愛する一対の男女の懸念を棄て難いが、これをそのまま自然霊界に当てはめることは、絶対に禁物である。そこでは六人懸り、八人懸り、十人懸り、又は十二人懸りの場合となる。無論それが類魂中の男女一対から成立することは、必要条件であるが、しかし全てが一様に、創造の労苦を分担せねばならぬのである。この際くれぐれも銘記せねばならぬことは、嬰児の出生が、想念の世界に於ける純精神的、純審美的、又純情緒的の仕事である事で、肉的要素は少しもこれに加味されていないのである。一群の若き男女間に醸成された情熱の暴風雨と陶酔、至醇至粹の天人的の戀-それのみが実に一個の新しい独立体の完成に必要なのである。
 無論こうして発生した新自然霊は、そのままでは未完成である。それは人間の幼児と同じく、間断なき進化発達を遂げ、漸くにしてその丁年期に到達するのであるが、ただこれに要する歳月の如きは、全然人間界のそれとは桁違いである。同時にその形態の変化も又無常迅速、到底限りある人智には諒解も信用も出来ない位である。
 日界人の生活が、かくも変化性に富んでいるのは、結局日界人が、太陽原子と同一諧律(リズム)で動く結果である。地上の天文学者は、天体の物質的要素のみを視るから、これを単なるガス状態であるなどというが、実をいえば、その中には溌剌(はつらつ)たる生命が宿っていて、盛んに創造進化の大業に当たり、その規模の偉大なることは、到底人間の窺知を許さないものがある。ここでは、心と外形との反応が瞬間的なので、対内と対外、可視と不可視とが殆ど同一歩調で進行する。現界で見るように、鈍重なる肉体が鋭利なる智能、敏活なる感覚に随伴し得ないで、後ろへ瞠着たるような醜態はどこにも見られない。

 自然霊も人間と同じく、形体のあるのと、無いのとの二種類に分かれるが、ただ両者の隔離は人間のように大きくはない。自然霊の中身体は、物的原子から成立しているから、その必然の結果として、原子的構造によりて束縛され、単なる思念の力で、自己の形態を任意に改造するようなことは出来ない。その点幾分か地上の人間と似ているが、自由といい、又不自由といい、要するにそれは程度の問題で、自然霊と人間とを同日に論ずる事は到底出来ない。既に述べた通り、自然霊の形態は非常な変化性に富み、前の形態は直ちに後の形態の内に流れ込み、そしてそれ等は、順次に陸離たる光焔の中に迅速に飛散してしまう。私は先に意識の流れということを説いたが、自然霊にありては、その形態も又一の流れであるといえる。要するにその迅められたる想像、研ぎ澄まされた敏感性は、自然霊をして時に対する観念を著しく縮小せしめ、こうした急変化の生活を、格別不安定とも考えしめぬのであろう。
 御承知の通り、人間の肉体は七ヵ年の星霜を閲してすっかり一変する。然るに日界人の形態は、地上の一秒時の何分の一かの間に、全体的変化を成し就げてしまい、後にはただ一粒の微分子さえも残さないのである。人間と自然霊とでは、正に天地の相違である。人間の意識は物質的の緩慢なるリズムと調子を合わせ、これに反して、日界人の精神は超物質的の、極度に迅き生命と経験とに調子を合わせる。前者をナメクジの歩みとすれば、後者は飛ぶ燕のそれであろう。・・・・イヤこれでもまだすっかり当てはまらない。星辰の世界に於ける思想、行動の迅さは、とても地上界のそれとは全然比較にならないのである。
 それ等の世界の表面に於いて演出せらるる奇妙な活劇は、幾分か地の物質界に行なわれる生活様式に類似した点が絶無でもない。原則的には両者は恐らく同一でもあろう。-が、日界人の情熱と、人間の情熱とでは、全然相撲にならない。で、若しも日界人から充分にその情熱を浴びせられたとしたら、それは足元に爆破する砲弾と同じく、地上の人間を木葉微塵に粉砕せねば措(お)かぬであろう。
 結局天上と地上との二つの世界の生活は、殆ど比較以上の或る物である。例えば地上の人間界を訪れる-夜の帷(とばり)-日界人としては、全然そんなものの存在を知らない。例えば又地上の人間を悩ます諸々の疾病-これも日界人には全然不可解の謎である。それから地上の人間の頭から離れぬ死の悩み-これも日界人には全然想像の外に属する。勿論日界人とても、永遠に形態に包まれている訳ではなく、或る時期が来れば、その魂の動きが、その体躯のリズムと歩調を合わせて行くことが出来なくなり、ここで必然的に両者の分離作用が起こる。これを死といわば言われぬこともないであろうが、しかしそこには所謂死の悩みも、又悲しみもない。魂は荘厳無比の歓喜に慄へつつ、今は用なきその形態から脱出して、無限に広がる宇宙意識の中に混じって行くのである。かかる経験は、これを死と言わんよりは、寧ろこれを『宇宙的人格への伸展』とでも言った方が適当であろう。
 (評釈)マイヤースの通信は、いよいよ出でて、いよいよ高遠の度を加えるかの感が深い。『日界人』という新熟語は、誠に耳新しいが、しかし考えてみると、中々適切な言葉であると思う。日本には古来天津神だの、国津神だのという言葉があり、これに適切妥当なる神霊主義的解釈を加えれば、非常に結構であるが、何分にも多年偏狭固陋(ころう)な神道家、国学者達が、物質臭の紛々たる解釈を下して、世人の頭脳に面白からぬ先入的観念を注入してしまったので、日本国はこの際何とかして、大々的血清療法を施し、本来の日本精神に立ち返るべき必要が大いにあるのである。この秋に当たりて、突如としてマイヤースの卓抜なる通信に接したのであるから、我々は実に嬉しいのである。不敏ながら私は年来微力の限りを尽くして、正しき幽明交通の途を樹立することに努め、お蔭で私の手元には、マイヤースの所謂日界人に関する報告が、沢山集められている。その一部は既に発表され、又これを手掛かりとして、日本古典の神代の巻に対する新解釈ともなったのであるが、日本にも西洋にも、まだそこまで突っ込んだ研究を行なっているものが極めて少なく、為に私の意見は、容易に唯物主義的思想に凝り固まった現代に容れられず、以って今日に及んでいる。
 見よ現在の日本では、今尚超物質的神霊界の存在にすら眼が覚めず、畏(かしこ)くも太陽神界の主宰にまします天照大御神、又地球神界の統治の責に当たらせたまう皇孫命をはじめ奉り、その他の神霊を単なる『古代人』と解せんとする、頑愚な学究が多いではないか。又見よ、現在の日本にも性懲りもなく活神気取り、活仏気取りの不健全極まり、不都合極まる山師を中心とした、似非非信仰団体が、お膝元の帝都の真ん中にまでのさばり返っているではないか。
 こんな唾棄すべき風潮は、勿論一時も早く我等の神聖なる国土から、綺麗に掃討せねばならない。それには何は措いても心霊科学の発達、又神霊主義的精神の普及以外に、絶対に手段方法はないと思われるが、こうした時に、マイヤースの通信の如き立派なものが出現したのは、正に大旱(たいかん)の雲霓(うんげい)以上に有り難い。私としては今頃自国の霊媒を通じてのみ通信を受け取り、英国の霊媒カミンズ嬢とは、全然交渉を有っていないのに、双方の通信内容が、あたかも符節を合するが如く、ピタリと一致しているのだから実に愉快なのである。こうして見ると、真理はどこまでも真理、事実はどこまでも事実、断じて洋の東西、時の古今を問わないのである。これに反して、かの迷信者流の振り回しているトンデモ霊界通信、トンデモ教義教条に至りては、彼等所属の特殊部落以外にはさっぱり通用しない。ここに真信仰と偽信仰、本物と偽物との厳然たるけじめがあるのである。
 御承知の通り、日本古典中の最も重要なる項目の一つは、所謂『むすび』の神事である。最初がイザナギ、イザナミ二神の間に行われた『みとのまぐはひ』、次に天照大御神とスサノオとの間に行われた『うけい』の神事、それから日本国民の夢寐(むび)の間にも忘れてならぬ、皇孫邇々藝命の御出生と御降臨、その外日本の神代史の至る所に、神々の誕生の物語が出て来るのである。心霊科学が超物質の世界に探求のメスを進めるまでは、いかにこれ等を解釈してよいか見当がとれず、そこで苦し紛れに、神話の人間的解釈が試みられたり、空疎な宇宙大霊説が提唱されたりしたのであるが、勿論そんなゴマカシものは、全然役に立たない。大体大自然界裡の神秘は、単なる人間の頭脳のみを以ってこれを忖度(そんたく)すべく、余りにも深遠、微妙、複雑、多岐なのである。
 人間にとりて、到底不可抗力ともいうべき、この大欠陥を補うには、ドウしたところで優れた啓示、優れた霊界通信の力に待つ外はない。この際マイヤースの通信は、我等日本国民に対して、特に貴重たる指示をあたえる。何となれば、それは宛然(えんぜん)日本古典の神霊的解釈書たるの観があるからである。
 無論私は、この通信を細大漏らさずそのまま鵜呑みにせよとは言わない。かかる通信の常として、ややもすれば断片的に流れ、説いてその意を尽くすに至らざる憾(うら)みも決して少なくない。が、大体に於いて、兎に角この通信は人文史上に、あまり類例のなき、大文字であると言ってよいようである。私の訳筆は、ただ原意を伝えるに急で、甚だ卑俗蕪雑(ぶざつ)であるが、読者が松明の如き眼光を以って、その紙背に潜める真義を汲み取られん事を心からん望で止まない。
 念の為に、ついでにここで一言注意しておきたいと思うのは、人間の懐胎の問題である。物質医学からいえば、受胎作用の当事者は、勿論一対の男女だけである。しかしながら心霊的にその内面装置を調べると、人間の男女の背後には本人達の守護霊、支配霊、又時とすれば憑依霊等が控えて居り、更にその上には、産土の神霊が監視の任に当たっており、甚だ以って複雑を極め、人間は寧ろそれ等の傀儡(かいらい)に近いのである。この事実を抜きにして考えるから、恋愛の問題も、懐胎問題も、今以って本当の解釈が出来ないのである。
 マイヤースが本章で説いているところも、是非右の事実を考慮に入れて味読して頂きたい。そうすると、読者は初めてよくその真義に触れ得るかと思う。