自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 自然霊の世界にありて、思想を伝達するには、声音と同時に色を用いる。なかんずく思想伝達の主要なる媒体は色であって、文字ではない。で、地上の印刷物に相当するものは、つまり絵画なのであるが、ただその絵画は、到底名状し難き性質のもので、ここに詳説の限りでない。それは地上の厳格なる意味に於ける絵画と異なり、それからそれへと、けじめも分かず溶け合い、又組み合っている一種の絵画的表現法なのである。しかもそれには、相当の耐久性があり、幾時代もの保存に耐えるから不思議である。無論そこには書物係の専門家も居り、何やら特殊の装置を施して、太陽原子の消散を防ぐ方法を講ずる。そうした人達は、丁度地上の図書館係に相当しているものと思えばよいであろう。兎に角、彼等の計算能力は驚くべく優れており、そして一種の磁気を用いて、適宜の色素を引き寄せ、あくまで原本に忠実なる新絵画書を製出するのである。無論異常に変動性に富める世界の絵画であるから、歳月の経過に連れて、多少の変化は免れないが、歴史も、詩歌も、又その他の記録も、それが精神の籠もれる作品であればある程、いつまでも原作者の意念を伝えて亡びないのである。
 星辰界の居住者にとりては、彼等の環境が各別不安定とも、又不定形とも感じられない。何となれば彼等自身が、形而上的にも又形而下的にも、驚くべき速度で活動しているからである。要するに、全ては比例の問題でしかない。尚ここで忘れてならないことは、世界がいかに異なり、環境がいかに変わっても、宇宙引力の法則に、何の相違もないことである。かるが故に日界人として見れば、自分達がそうした途方もなく、突飛な世界に住んでいるというような感じは、少しもないのである。
 で、基本的原則としては、日界人の生活と、人間のそれとの間に、類似の点が決して少なくない。例えばその生存期間中、日界人の魂は決してその体躯を離れて活動することがない。それは丁度人間の魂が、生きている時に、その肉体を離れないのと同様である。異なっているのは、ただ日界人の体躯が間断なく変化を遂げ、人間の肉体のように、殆ど作りつけでないことである。但し前にも述べたように迅いといい、又遅いといい、それはただ比例の問題で、日界人の眼から見れば、彼等は自分の体躯の変化を、格別無常迅速であるとは考えない。丁度人間が自己の緩慢なる肉体の変化を、格別遅いと思わぬのと同様であろう。
 自分は星辰界の社会組織につき、又星辰界の居住者の職務につきて、詳しく述べるべき知識を有しない。ただ自分が確言し得るのは、彼等が地上の人類と同じく客観、主観両様の生活を送りつつあることである。各種各様の善と悪との争闘の結果、星辰界にも、やはり熾烈なる情念の発作があり、同様にそこでも又宗教が、生活の第一義的重要素となっている。星辰界の居住者は、『神の子』の存在を知り、これを自分達の主宰者と仰いでいる。但し彼等は、地上の人間とは比較にならぬ程豊富な想像と、博大な視野との所有者であるから、人間のように、深くは君臣上下の関係に拘らない。入神した時の彼等は、一路直ちに普遍の実在に近付いて、宇宙の創造的精神と冥合せんばかりになっている。が、神秘の奥には更に又神秘がある。いかに無上の歓喜に浸ろうとも、宇宙は依然として一の解かれざる謎であることに変わりはない。
 さてここに起こって来る疑問は、人間の宗教と、日界人の宗教とが、どう異なるかの問題であろう。自分の見る所によれば、両者の最も重要なる相違点は、『宇宙的知識と宇宙的信念』の厚薄如何であると思う。恒星の居住者達は、既に人間の第一階段を突破し、統体としての宇宙につきて、極めて該博なる観念を有している。つまり地上の同胞に比べれば、比較にならぬ程精妙な心身の所有者であるから、彼等はよく造化の機構の偉大性を味読する能力を有し、苦もなく隠れたる実在の堂奥に遡り、かくて彼等の信仰、彼等の知恵は、人間のそれのように不純なる交雑物を、殆ど混えていないのである。
 日界人の間にも、勿論悪の要素は存在する。悪とは結局不完全を意味し、思い違いを意味し、その結果罪となり、悩みとなる。が、日界人の悪の観念は、人間のそれよりも、もっと深刻である。自分の観るところによれば、それはより高き意識の水準を、目指す進出への反逆を意味するらしい。換言すれば、それは生命に対する逆行である。宇宙的には不動の法則があり、従って一歩一歩向上の道を辿る為には、全身全霊を打ち込みて、真と美との追求に当たらなければならない。これに反するものがとりも直さず悪なのである。
 若しも魂の思念の働きが不完全であれば、各自は必然的に過誤に陥り、為に意識の低き階段へと引き降ろされる。所謂人類の堕落は、ひとりアダムのみの問題でない。現幽両界を通じての、一切萬有の間に、今も依然として繰り返される問題である。全ての魂は、自由選択の権能を有している。で、若し各自がその想像力と、信念とに欠陥があれば、彼は向上前進の希望を失い、現在の局限されたる生涯に、満足していることになるであろう。全て低き世界程、その生活は不自由であり、孤立的なのである。
 かくの如くにして、日界人中の相当多数は、恒星界の生涯を終わった後で、一時的の逆戻りをするのである。これはその生活中に、何らかの大自然法則の違反を行いたる結果、その錯へる内的自我の均衡を取り戻すべく、後退を余儀なくせらるるのである。それ等の一部は、確かに地上界の付近に留まり、蔭から人類その他の監視に当たっているようである。中には又第四界(色彩界)は、何れも向上前進の登路を辿り、地上人の所謂死の過程を通過した後、類魂生活の中に入り、以って宇宙の内面機構に與(よ)かるべき、大直感能力の獲得に努める。その理想的境地こそ、とりも直さず意識の第六階段、光明界なのである。
 この大準備期につきては、到底これを一言に述べ尽くすことは出来ない。何となれば、意識の第五階段に留まる間に、経験せねばならぬ事物は、実に千種萬様、殆ど筆舌の尽くすところでないからである。その詳しい説明は、暫くこれを他日に譲り、ただここで一言したいと思うのは、それ等の日界人の多数が、一度太陽のような自然体に於ける生活を終わった後で、更に他の種類の恒星界に於ける経験を獲得せんとすることである。思うに彼等は、過去の恒星生活の経験が、あまりにも身に沁みて嬉しく、更にもって深刻なる楽しみを味読せんことを希ふのでもあろう。
 そうした魂が、新たに選める恒星の生活は、しばしば前の恒星の生活とは、本質的にひどく相違しており、従って彼等は、通例多くの新知識に接することになる。例えば太陽のように炎々と燃える天体と、死灰の如く冷え切った恒星とでは、いかに何でも大いに勝手が違うのである。ここに彼等が一度の経験で満足せぬ理由があるのである。思うに両者の相違は、幾分地上の人等が遭遇する夜と、昼との相違に該当しているでもあろう。
 (評釈)高級の霊界人の使用する通信機関が、文字又は言語でなくして、一種の絵画であるということは、他の有力な霊界通信の教える所でもある。私自身も、恐らくそんなことであろうと想像している。『それが精神の籠もれる作品であればある程、いつまでも原作者の意念を伝えて亡びない』は、確かに至言であると思う。
 次に自然霊達にとりて、無常迅速なる恒星の生活が、別に目まぐるしいとも、又不安定とも考えられないとあるが、これも当然過ぎる程当然の事かと思考される。思うに大自然の根本原則は、何れの世界に於いても同一であり、ただ振動数の如何によりて大小、高下、遅速、軽重等、千種萬様の生活の変模様が出来るだけのことであろう。その点に於いて、マイヤースの説く所は極めて合理的、常識的であり、何人にも首肯し得る事ばかりである。神秘を神秘として玉手箱に取り扱わんとする古代の教示に比して、正に格段の進歩と言ってよかろう。マイヤースが『神の子』の実在を説いているのも、誠に愉快である。これにつきての彼の説明は頗る概念的で、その神の子が何であるかはよく判らないが、我々日本民族は、これを日本古典の記録と対照することによりて、そこに多大の暗示を感得せぬ訳には行かぬ。これにつきては、私自身の一つの解釈もあるが、時期尚早と思うので、モウ暫く沈黙を守ることにしよう。
 宇宙意識にとめる自然霊の宗教と、物質的観念に捕われている人間のそれとの間に、多大の懸隔があるべきは、言うまでもない話だが、マイヤースが両者の区別を、宇宙的知識と、宇宙的信念の厚薄浅深如何にあると喝破しているのは、確かに正当である。人間の口にする宇宙は、しばしば歪曲された、特殊部落式のものでしかない。従って人間の唱える宗教、並びに宗教心には、まだまだ大いに訂正増補の必要がある。その点に於いてマイヤースの通信は確かに多くの示唆に富んでいる。仏教を以って、キリスト教を以って、又神道を以って一つの完成品と心得、過去を謳歌することを知りて、向上前進の何物たるかを知らざるものは、この際大いに反省熟慮して欲しいと思う。
 これを要するに、マイヤースがここに説く所は、徹頭徹尾暗示的の価値で持ち切っている。地上生活中の人間には、到底充分に腑に落ちかぬることばかりであるが、しかし一読の後、心の底に何物かが力強く残るのは、誠に不思議である。本物と偽物との相違は、恐らくそうしたところに存するのであろう。