自殺ダメ


 [霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より

 (自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)

 昭和六年の秋には、満州事変が突発した為、幽明交通の機関も、ある程度そちらの方面に向けられましたが、しかし私の主たる研究題目は龍宮界であって、新樹は、彼の母の守護霊と共に、絶えずその仕事に使われました。
 初めての龍宮行きは、九月二十二日の午後に行なわれました。新樹はその時の模様を、かく通信して来ております-
「今日は突然お母さんの守護霊さんから通信がありまして、これからあなたも私と一緒に、龍宮界へ出掛けるのです。色々あちらで調べることがある、と殆ど命令的の口調なのです。僕その剣幕にいささかびっくりして、どうした訳で、急にそんな話が持ち上がったのかと訊いてみますと、守護霊さんの仰るには、これはあなたのお父さまからの依頼です。龍宮という所は、いかに書物で調べても、他人に尋ねてもどうしても腑に落ちない箇所が多くて困るから、是非子供を連れて行って、詳しく調べさせてくれとのご注文で、それで急に思い立ったのだ、というお返事なのです。僕龍宮なんて、実際そんな境地が、果たしてあるか無いかも知らない位で、一向自信がありませんでしたが、守護霊さんがえらい意気込みなので、僕大人しく付いて行くことにしました。間もなく守護霊さんは、僕の住居へ誘いに来てくれました。いつもの通り、足利時代の道中姿で、草履を履いておられます。僕は例によって洋服だ・・・龍宮行きだからとて、洋服を着て行っていけないという理由も、別になさそうに考えたからです。
 それにしても、龍宮探検とは随分振っていると、僕色々考えました。 龍宮は一体海の底の世界なのかしら・・・。子供の時分に読んだおとぎ話には、確かにそう書いてあったと思うが、もし海底だとすれば、どんな按配式にそこへ潜り込むのかしら・・・。こいつァ少々薄気味悪くもあるが、同時に又面白い仕事でもある・・・。事によると、大きな海亀が自分達を迎えに来るかもしれない・・・。僕思案に余って、とうとう守護霊さんに龍宮はどんな所かと伺いを立てると、守護霊さんは軽くお笑いになって、あなたは色々の事を想像しておられるが、黙って付いてお出でなさい。行ってみれば、どんな境地か直ぐ判ります。と言って、一向詳しい説明をしてくださらない。僕の好奇心は自然最高潮に達した訳です-先方に着いてからの見聞記は、僕よりも守護霊さんの方が詳しいかと思いますから、成るべく守護霊さんを呼び出して、一度その物語を聞いてください。足りないところがあったら、僕が後で補充することにしましょう」

 折角新樹がそう言うものですから、私は妻の守護霊を呼び出すことにしました。守護霊はいつもより気乗りした調子で、元気よく私の問に答えるのでした-
 問「今日は色々お骨折りでした。今ちょっと子供からお出掛けの様子だけ聞きましたが、子供も龍宮には大分面食らった模様ですね」
 答「はい、大変に可笑しうございました。子供は、龍宮の話は幼い時分におとぎ話で聞いたり、又歌唱でも習ったりしたが、一体本宮にそんな境地があるのかしら・・・・よもや亀が迎えに来るのではあるまいなど、色々の空想を起こして気を揉むのでございます。余り可笑しうございますから、わざと説明せずに少しじらしてやりました。地上の人は、龍宮を海の底だと考えていますが、実はそうではございません。龍神様は海にも、陸にも、ここにでもおられます。龍神様と海との間に、特別の関係なんか少しもございません。龍宮とはつまり竜神様のお宮のある世界という事でございます」
 問「一体、龍神の本体は何なのですか?」
 答「先へ行ってお調べになれば、追々お判りになりますが、竜神様はつまり神様・・・・元の生神様で、一度も人間のように肉体を有して、地上にお現れになられたことの無い方々でございます。で、その御姿なども自由自在でございます。私が拝みますと、その御本体はやはり我々同様、白い丸い美しい球でございますが、何かの場合に、力強いお働きをなされます時は、いつもあの逞しいお姿・・・あの絵にあるような龍体をお現しになられます。それから、私共が龍宮へ参ってお目にかかる場合などには、又その御姿が違います。御承知の通り、あの神々しい理想の御姿・・・・それはそれは御立派でございます」
 問「すると龍神さんは変化する名人で、到底我々人間には歯ぶしが立ちませんね」
 答「何しろ神様と人間とは、大変に階段が違いますからね・・・」
 問「すると、全ての神様は、ことごとく龍神様と思えばよい訳でしょうか?」
 答「さあ、全てという事は、到底私などの分際で申し上げ兼ねますが、少なくとも、人間受け持ちの神様は、龍神様であると考えて宜しいと存じます」
 問「そしてその龍神様と人間との関係は?」
 答「地上の人類は、最初は皆龍神様の御分霊を頂いて生まれたように承っております。つまり龍神様は、人間の例の御先祖様なのでございますね・・・」
 問「イヤ大体見当が付いて来ました。詳しい説明は先へ行って伺うことにして、早速龍宮探検のお話を願いましょうか」
 答「承知致しました。では申し上げます・・・。あれから私達二人は、なにかと物語りながら、随分長い道中を致しました。白い清らかな砂地の大道、それがズーッと見渡す限り続いております。歩いても歩いても、中々歩き切れそうもなく感じられましたが、つまり私達の境涯と、龍宮の所在地とは、それ程までに隔たりがあるのでございましょう。それでもとうとう辿り尽くして、ふと彼方を見渡しますと、行方遙かに龍宮の建物が夢のように浮かび出ました。私にはさして珍しくもございませんが、それを発見した時の子供の驚きと歓びは、大変なものでございました。「ヤア大きな門がある!いくらか旅順方面にある中国式の門に似ているナ。ヤア内部の方には大きな建物がある!反り返った棟、朱塗りの柱廊、丸味がかった窓の恰好、こいつも幾らか中国趣味だ。イヤどうも素敵だ・・・」としきりにはしゃいでおりました」
 問「さぞ久しぶりで、子供も気が晴々としたでしょう。元来陽気の資質の子ですから、たまには面白い目にも会わしてやりたいと思います」
 答「その通りでございますとも!それには今度の龍宮見物は、大当たりでございました。伊勢大廟の参拝などとは又気分が違います。伊勢は世にも尊い神様のお鎮まりになられるところで、身が引き締まるような神々しい感じに打たれますが、こちらは、立派ではあるが、何やらソノ、そう申しては相済みませぬが、面白い、晴々しい、親しみの深い感じが致します」
 問「お話を伺っただけでも、ほぼその状況が察せられます。境内もさぞ立派でしょうね」
 答「そりゃ立派でございます。随分広いお庭があって、そこには塵一つ留めません。樹木は松、杉、檜その他が程よくあしらわれ、一端には澄み切った水を湛えた、大きな池もございまして、それには欄干のついた風雅な橋が架かっております。全て純粋の日本風の庭園でもないが、さりとて中国風でも、又西洋風でもない。やはり一種独特の龍宮風でございます。大きな、面白い恰好の岩なども、あちこちにあしらわれてあります。裏の方は、こんもりと茂った山に包まれて、中々奥深く見えます。が、概して神社と申すよりかも、寧ろ御殿・・・御住居と言ったような趣が漲っております。で、子供も大変に陽気になりまして、生前かねて噂に聞いていた龍宮の乙姫様に、早く会わしてくれと申します。私も今日は是非、乙姫様にお目通りを願いたいと思いました・・・」
 問「乙姫様と申すと一体どなたの事で」
 答「それは豊玉姫様のことでございます。私の方の系統の本元の神様で、そう申しては何でございますが、この方が龍宮界の一番の花形でおられます・・・」
 問「それで、あなた方は、その豊玉姫にお会いなされたのですか?」
 答「はい、お目通しを致しましたが、それまでには順序がございます。先ず御案内を頼む時に、子供と私との間に一悶着起こりました。私達は正面のお玄関-立派な式台の所に立っていましたが、私が子供に向かい、あなたは男の身で、今日の責任者だから、御案内を頼むのはあなたの役目だと申しますと、子供はもじもじと尻込みをしてました。「僕は新米だから駄目です。決まりが悪い・・・」そんな事を申しているのです。致し方がございませんから、私が「御免ください」と申しますと、直ぐに一人の年若い侍女が取り次ぎに出て参りました・・・」
 問「年若の侍女と申して、幾歳位の方です?」
 答「さあ、ざっと十六歳位でもありましょうか、大そう品のよい娘さんで、衣装なども神さんのお召しになられるような、立派なものを着ておりました」
 問「その取次ぎの女だって、本体はやはり龍神なのでしょうね・・・」
 答「無論龍神さんです・・・」
 問「昔、彦火々出見命が龍宮へ行かれた時にも、一人の下女が出て来たように古事記に書いてありますが、やはり同一人物ではないでしょうか?」
 答「さあそれは何とも判り兼ねます。事によったら同じ方かも知れません。兎に角私から早速来意を申しました。「私達はかくかく申すもので、この子の父親からの依頼により、今日はわざわざ龍宮探検に参りました。お差支えがなければ、何卒乙姫様にお目通りを許されたい、とそうお取次ぎをお頼みします・・・」
 その辺の呼吸は、少しも人間の世界でやるのと相違はございません。侍女は一礼して引っ込みましたが、間もなく又姿を現して「乙姫様には、その事をつとにご存知であらせられます。どうぞお上りくださいませ」と申します。で、私は草履、又子供は靴を脱いで、式台に上り、導かれるままに、長い廊下を幾つも幾つもクネクネ回って、奥殿深く進みました。途中子供は小声で私に向かい、「僕は生前一度も宮中などへ招かれたことはなく、他人の風評を聞いて羨ましく思っていたものです。しかし龍宮の御殿へ招かれたのは、世界中で恐らく僕一人でしょう。そう思うと僕は鼻が高いです」-そんな事を申して歓んでおりました。よほど子供は身に染みて嬉しかった事と見えます」
 問「それからどうしました?」と私もつい急き込んで尋ねました。
 私から催促されて、守護霊は例のくだけた調子で、早速その先を物語りましたが、それは相当現実味を帯び、幾分人を頷かせる点もないではないが、さてその片言隻語の内に、なにやら人間離れのした、なにやら夢幻的色彩らしいものが、多量に加味されているのでした。取り扱う事柄が事柄なので、こればかりはどうあっても免れない性質のものかも知れません。
 取次ぎの侍女によりて、二人がやがて案内されたのは、華麗を極めた一つの広間なのでした。例によりてそれは日本式であると同時に、又中国式でもあり、そのくせ、どこやら地上一切の様式を超越した、一種特有の龍宮式なのでした。眼の覚めるような丹(に)塗りの高欄、曲線美に富んだ園窓、模様入りの絨毯、そこへ美しい卓子だの、椅子だのが程よくあしらわれて、何ともいえぬ朗らかな感じを漂わしている。上の格天井が又素晴らしく美事なもので、その中央の大きな桝形には、羽の生えた、風変わりの金龍が浮き彫りにされている・・・。
 室内には色々の装飾品も置いてありました。先ず目立って見えるのは卓上の花瓶、それに活けてある大輪の白い花は、椿のようであって、しかも椿ではなく、えも言われぬ高い香が、馥郁(ふくいく)として四辺をこめる。床の間らしい所には、美しい女神の姿を描いた掛け軸が掛かっていて、その前に直径五、六寸の水晶の球をあしらった、天然石の置物が置いてある・・・。
 二人が与えられたる椅子に腰をおろして待つ間程なく、ふと気がついて見ると、いつの間にやら乙姫様は、モウちゃんと室内にお現れになっておられるのでした。妻の守護霊は、その時の状況をこう述べるのでした-
 「あの時は誠に意外でございました。乙姫様は、当たり前に扉を開けて、そこからお出ましになられたのでなく、こちらが気の付かない中に、スーッと風のように、いつの間にやら、我々の頂戴した卓子から少し離れた、上座の小さい卓子にお座りになっておられたのです。で、私達は急いで椅子を離れて御挨拶を申し上げました・・・。乙姫様は申すまでもなく、龍体を有する方でございますが、この場合龍体では勝手が悪うございますので、いつもの通り、とてもお綺麗なお姫様のお姿でお会いくださいました。そのお綺麗さは普通の人間の綺麗さとは違います。何と申してよいやら、全てがすっきりと垢抜けがしており、全てが神々しく、犯し難き品位を具えておられます。目、鼻、口元と一つ一つお拾いすれば、別にこれぞというのではございません。全体としてとてもお立派で、人間の世界には、恐らくあれ程のお器量の方は見当たらないかと存じますね。体格もお見事で、従ってその御服装が一段と引き立って見えます。下着は薄桃色、その上に白い透き通った、妙のようなものを羽織っておられますので、その配合が何とも言えぬ程美しうございます。お腰には白い紐のようなものを巻きつけ、それを前面で結んで、無造作に下げておられます。全てが至極単純で、他に何の飾り気もない。それでいて、何とも言えずお綺麗なのでございます。お年は、左様でございますね、やっと三十になるかならずというところでございましょうか。勿論娘さんという風ではなく、奥様らしい落ち着きが、自然に備わっておいででございます・・・」
 それから来訪の二人は、早速乙姫様に向かい、私の代理として単刀直入的に、色々の事を質問したのですが、乙姫様は絶えずにこやかに、人間らしい親しみを持ちて、気軽くそれ等を受け流されました。成るべくありのままに、その時の問答を答え出してみましょう。

 最初の挨拶か済んだ時に、対話の糸口を切られたのは乙姫様でした-
 「あなた方お二人は、人間世界からの使者として、研究の為に、わざわざこちらにお出でなされたのであるから、こちらでも大切に取り扱って上げねばなりませぬ-ただ龍宮という所は、中々込み入った所で、一度や二度の訪問で、すっかり腑に落ちるという訳にも行きませぬから、あまり焦らずに、ゆっくりお仕事にかかってもらいます。私で足りぬところは、それぞれ受け持ちの者に引き合わせて答えさせます。今日は何ということなしに、四方八方の話なりと致しましょう・・・」
 御本家の奥方が、お目通りにまかり出でた親戚の者共に向かって、優しく話しかけると言った按配式です。今日初めて龍宮訪問をやった新樹は、これが幼い時に耳にした、あのおとぎ話の乙姫さんかと思うと、不思議で不思議で堪らなかったらしく、早速質問の第一矢を放ったのでした-
 「ぶしつけなことをお尋ねして甚だ恐縮ですが、あの浦島太郎の龍宮のおとぎ話というのは、あれは事実談なのでしょうか?僕父に報告する義務がありますし、今日は又龍宮訪問の第一日でもありますし、かたがた一つ記念に詳しいお話を伺いたいもので・・・」
 帰幽後間もない、ウブな若者から、イキナリこんな質問を発せられて、さすがの乙姫様も覚えずホッとお笑いになりました。
 「あんな事は大概人間の作り事、龍宮が海の底にあると思うから、自然亀などもお引き合いに出されたのです。龍宮が海の底にあるのでも、又陸の上にあるのでもなく、それ等全てとかけ離れた、一つの別世界である事は、あなたにもそろそろモウお分かりになったでしょう。人間というものは、自分の知恵から割り出して、色々と面白くこじつけるのがお上手です。おのおとぎ話よりか、古事記とやらいう書物に載せてある龍宮の話の方が、はるかに事実に近いようです・・・」
 「してみると、あの古事記の彦火々出見命の龍宮行も、おとぎ話の玉手箱の物語も、その種子はつまり一つなのですね!」と亡児は驚異の眼を見張り、それで幾らか僕にも見当が取れて来ました。彦火々出見命様も、浦島太郎も、どちらも龍宮の乙姫様と結婚され、そしてどちらも大変仲良くお暮しになったことになっている・・・」
 新樹がそう言いますと、乙姫様は、恥ずかしそうにさっとお顔を赤らめて、うつむかれたのでした。やはり神様でも女性は女性、どこまでもお優しいところがあるらしいです。
 それから、ちょっと主客の間の言葉が途切れましたが、それでも乙姫様は、直ぐに面を正して言葉を続けました-
 「私が結婚した事は、あなたの今言われた通りであるが、しかし話はただそれだけであって、後は大抵人間が勝手に作り上げたものに過ぎません。又自分達龍神の夫婦関係というのは、人間の夫婦の間柄とは大変な相違で、言わば霊と霊との和合なのです。そこは充分のみ込めるように、とくと人間の世界に伝えてもらいます」
 「かしこまりました」と新樹は殊勝らしく答えました。「ただそれにつけて伺いたいのは、乙姫様の御主人様のお名前は、何と申し上げて宜しいのでしょうか。やはり彦火々出見命様と仰られるのですか?」
 「そう申し上げて宜しいのです-もっとも名前というものは、ただ人間にとりて必要な一つの符牒であって、こちらの世界には、全然その必要はないのです。心に念じれば、それで全ての用事は立所に弁じてしまいます。この事もよく取り違いせぬよう、人間界に伝えてください」
 「承知致しました・・・。それでその彦火々出見命様ですが、古事記に書いてある所によると、御同棲後三年ばかり、故郷忘れ難く、そのまま龍宮界を立ち去られたように伝えてありますが、あれは一体どういう次第なのでありますか。お差支えなければ、その真相をお漏らしになって頂きたいもので・・・」
 すると乙姫様は、今までよりずっとしんみりとした御様子で、こう語り出でられたのでした-
 「あれもやはり地上の人が、例の筆法で、面白く作り上げたものなのです。新婚の若い男女が、初めて同棲することになった当座は、誰しも万事を外に、ひたすら相愛の嬉しい夢に耽ります。これは肉体の悩みを知らぬ霊の世界ほど、一段その感じが強いともいえます。が、恋愛のみが生活の全てでないことは、こちらの世界も、人間の世界も何の相違はありませぬ。女性としては、勿論いつまでもいつまでも、夫の愛に浸り切っていたいのは山々であるが、男性はそうしてのみもいられませぬ。こちらの世界の男子として何より大切なのは、外の世界の調査探究-それがつまりこちらの世界の学問であり、修業であるのです。私の夫も、つまりその為に、間もなく龍宮を後に、遠き修業の旅に出掛けることになられました。勿論それはただ新婚の際に限ったことではありません。その後も絶えずそうした仕事を繰り返しておられます。そうした門出を送る妻の身は、いつも言い知れぬ寂しい寂しい感じに打たれ、熱い涙が止めどもなく滲み出るもので、それが女性のまことまこというものでしょう。私とてどんなに泣かされたか知れませぬ。いかに引き止めても、引き止められぬ男の心・・・別れの辛さ、悲しさは、全く何物にも例えられぬように思いますが、しかしその中に時節が来れば、夫は再び溢れる愛情を湛えて、妻の懐に戻ってまいります。会っては離れ、離れては又会うところに、夫婦生活の面白い綾模様が織り出されるのです。私の夫は、元々龍宮の世界のもので、従って他の故郷などのあろう筈がありませぬ。あれはただ人間が、そういう事にして、別れる時の悲しい気分も匂わせたまでのものです。まんざら跡形のない事でもありませぬが、しかし事実とはよほど違います。一口にいうと、大変に人間臭くなっていると申しましょうか・・・」
 こんな話をされる時の乙姫様の表情は、実に活き活きとしていて、悲しい物語をされる時には、深い悲しみの雲がこもり、嬉しい時には、又いかにも晴々とした面持ちになられるので、その直ぐ前で耳を傾けている二人の感動は、とても深いものがあるのでした。
 「そんなものですかなァ」と、新樹は生前の癖で、両腕を胸に組みながら歓喜の声を放ちました。「兎に角僕そのお話で、漸く幾分か疑問が解けたように思います。人間は物質世界の居住者、それが龍宮世界の居住者と同棲するという事は、どうしても道理に合いませんからね・・・。つまり彦火々出見命様は、現在でも依然こちらの龍宮世界に御活動遊ばされておいでなさる訳なのですな・・・」
 「勿論引き続いて、こちらで御修業を積まれたり、日本国の御守護を遊ばされたりしておられます」「古事記には、豊玉姫様のお産の模様が書いてありますが、あれはどんなものですか、やはり人間の大衆文藝式の想像談でありますか?」
 「あれだけは、不思議によく事実に合っております。身二つになるということは、こちらの世界でもやはり女性の大役、その際には、自然龍体を現し、たった一人で、岩窟の内部のような所で子供を生み落とすのです。しかしそれが済んでしまえば、龍体は消えて、再び元の丸い球になります」
 「赤ん坊にお乳を飲ませるというような事は・・・」
 「そんな事は絶対にありません。生まれた子供は直ぐ独立して、母親や指導者の保護の下に修業を始めるのです・・・」
 「そうしますと、龍神の世界には、一家団欒の楽しみというようなものはないのですね」
 「無いことはないが、人間のように親子夫婦が、一つの家に同居するというような事はないのです。念じれば直ぐ通じる自由な世界に、同居の必要がどこにありましょう。あなたも早くこちらの世界の生活に慣れるように努めてください。無理もないことであるが、まだドウやらあなたは、地上の生活が恋しいように見えます・・・」
 「全く仰せの通りで・・・」と新樹はいささか沈んだ面持ちで、「僕にはまだ、こちらの世界の生活が、しっくり身に付かないで仕方がないのです。今日初めて龍宮へ連れて来て頂いても、何となしに現実味に乏しく、これが果たして本物かと思われてならないのです。立派な建築を見ても、それが何となく軽く、何となくドッシリと落ち着いた気分がしない。何やら不安、何やら物足りないように思われるのです。いつになったら、僕に真の心の落ち着きが出来ましょうか?」
 「時日が重なるにつれ、修行が加わるにつれ、心の落ち着きは自然と出来て来ます」と乙姫様は優しく亡児をいたわってくださるのでした。「あなたが龍宮で学ぶべき事は沢山ある。気兼ねせず、いつでも尋ねて来られるがよい。決して悪いようには計らわぬほどに・・・。が、初めての訪問でもあるし、今日は二人ともこの辺で引取ったら良いでしょう・・・」
 二人ははっとして恭しくお辞儀をしたが、再び頭を上げた時には、いつしか乙姫様の姿は室内から消えてしまっていたのでした。