自殺ダメ



 ヒューズ女史も子供の頃から心霊体験があった。いつも〝物が見える〟と言うので、メソジスト派の信者であった両親は「この子は少しおかしいのではないか」と密かに心配していた。父親はガラス細工の仕上げ工で、ヘレンは七人の子供の一番上であった。
 ヘレンが目に見えない遊び友達の話をしたり、特にその子達が玄関から入ってきて裏口から出て行くところを語った時などは〝馬鹿げた空想〟もいい加減にしなさいと叱られたものだった。
 しかし、いくら叱られても自分ではやっぱり見えるし声も聞こえることを確信していた。というのは実際にその子達と一緒に遊んでいたからである。学校でも先生から同じようなことで叱られている。もっとも、他の生徒にもヘレンと同じものを見た人が大勢いたらしい。
 それはヘレンが十一歳の時のことだった。校舎の入り口を入りかけた時、教室の中の窓際に一人の生徒の姿が見える。生徒達はみんなこれから教室に入るところで、まだ中にいる筈はない。ヘレンは十二、三人いた友達に「あれ見て!」とその窓の方を指差した。すると不思議に全員にその姿が見えるのである。多分うっかりカギをかけられて出られなかったんだろう、ということに話が落ち着いた。
 そこへ先生が近付いて来て何を騒いでいるのですかと聞いた。みんな窓の方を指差して教室の中に生徒が一人いると言った。ところがその時はもう姿はなかった。本当にいたんです、とみんなで説明しても先生は聞き入れてくれなかった。そしてヘレンが悪ふざけの〝主犯〟にされて〝幽霊を見た罰〟として、その姿が見えたという窓際に立たされたのだった。
 この話には面白い後日談がある。何年かしてヘレンも結婚してシェパード姓からヒューズ姓になってからのことであるが、優れた霊媒として各地で活躍していた時、グラスゴーでのデモンストレーションで一人の女性がヘレンに歩み寄って成功の賛辞を述べた。その女性こそヘレンを罰として窓際に立たせた先生その人だった。ちょっぴり後悔の情を見せながらこう言った。「まあ、ヘレン・シェパードさん、この大成功があの幽霊騒ぎから始まったなんて夢みたいですわね」
 さて話は再び子供時代に戻って、その幽霊騒ぎから三年ばかり経った頃また不思議な体験をした。友達と通りで遊んでいた時、ふと空を見上げると〝熱病が流行っている〟という文字がはっきりと見えた。この時は友達の誰一人として見える者がいなかった。帰ってからそのことを母親に聞かせると、又そんなことを言う、と言って叱られた。が、三週間後にヘレンは熱病にかかっている。
 その後、学校を出てから仕立て屋に奉公に出るようになってからも、相変わらず物が見えたり聞こえたりした。そして十八歳という若さで鉱夫のトーマス・ヒューズと結婚した。働く婦人としての義務と、もう直ぐ四つになる子を頭とする三人の子供の出産と育児に、さすがの異常現象も奥へ追いやられたかにみえた。三人目の子を産んでからは背骨に痛みを訴えるようになり、やがて回復不能の重病患者になってしまった。
 それからヘレンにとって悲惨な暗い時代が続く。痛みに加えて、再び心霊現象が起きるようになり、自分で自分の精神を異常ではないかと疑うようになった。彼女が素晴らしい霊能を秘めた未完成の霊媒であり大きな使命を持っていることを指摘してくれる人が周りにいなかったのである。次の体験はその使命を物語っている。
 病状がいよいよ悪化して、最早死を待つばかりの状態になった。親戚の者や友人が別れを告げに集まった。ところが死の床に横たわる病身とは打って変わってヘレン自身は目も眩まんばかりの色とりどりの美しい花園の中を歩いていた。驚いたことに、とっくに死んだ筈の中年の婦人に出会った。再会出来た嬉しさに長々と話が弾んだ。その時ふとこれまでの惨めな身の上とは裏腹に何か新しい活力が湧いてくるような意識がした。それからのことをこう語っている。
 「その何分かの会話の後、ふと、その言い様のないほど美しい花園の中でもひときわ美しい花が目に入ったので、思わずその花に近付いたのです。すると〝まだだ。お前にはまだ為すべき仕事がある〟という声に遮られました」
 目を覚ますと親戚の者や友人達が心配そうに覗き込んでいる。今見た光景に感動したヘレンは「私は絶対に死にませんよ」と言った。みんな口では「そうとも、死ぬものですか」と言いながら、内心では「まず駄目だろう」と観念していた。が、確かに死ぬことはなかったが、それで直ぐ回復に向かってはくれなかった。それから二年もの間歩くことが出来ず、車椅子を使わなければならなかった。
 絶望と痛みに耐えながら横になっていると、再び死んだ筈の人達の声が聞こえ始め、次にはその姿まで見かけるようになった。彼女は怖くなり、長い闘病生活で正気を失いつつあるのではないかと心配した。多くの医者に連れて行ってもらったが何の救いにもならなかった。
 その内その〝声〟が「起き上がって歩け」と命令するようになった。当時はとても歩ける状態ではなかった。が、何とかして立ち上がってみた。そして足を床の上に置いてみると、すっかり麻痺していると思い込んでいた足にまだ生命が通っていることが分かった。〝声〟が頑張れと励ます。その頃から彼女の健康は薄紙を剥ぐように快方に向かい始めた。
 医者が往診に来た時ヘレンはその〝声〟の話をしてみた。すると精神に少し異常を来たしたのかも知れないと思った医者は、どこか遠くへ休養に行ってはどうかと勧めた。が、彼女は〝声〟にますます自信を深め、心を鼓舞されつつあった。人生の曲がり角はもう回り切ったと感じていた。初め杖を頼りにゆっくり歩いていたが、やがて杖をかなぐり捨てた。健康は日増しに回復し、〝声〟は強く大きくなり、しかもより頻繁になっていった。
 その頃から新たな現象が加わるようになり戸惑うことがあった。壁を叩く音がしたり、ベッドが揺さぶられたりした。その内一人の見知らぬ女性が規則正しく姿を見せ、その容貌をはっきりと認めることは出来るのだが一言も喋らない。ドアから入って来て又出て行くのであるが、時には忽然と消えることもある。そんなことが何ヶ月も続いたが、ヘレンには理屈はともかくとして、それがこの世の人でないことだけは分かっていた。
 ついに彼女は、そんな眠れない夜から逃れるにはその幽霊屋敷を出るしかないと決意し、他の家を探しに夫と連れ立って炭鉱事務所を訪れた。まず彼女がいきさつを話すと、一笑に付されると思いきや、逆にそこの役人は大いに理解を示してくれた。ヘレンが「どうか私を気狂いと思わないでください」と言うと、理解のある笑顔で「あなたは気狂いなんかじゃありませんよ」と言ってくれた。この役人がヘレンの悩みに真の理解を示した最初の人だった。
 役人はヒューズ氏に向かってこう言った。「奥さんの小指には他の人の体全体よりも多くのものが詰まってますよ」(知恵とか才能が豊かであることの西洋的表現)
 ヘレンは後にその役人は奥さんがスピリチュアリストだったから理解してくれたことを知った。が、その時は残念ながらその役人はスピリチュアリズムについては一言も触れなかった。そして別の家をという要求を聞き入れてドードンという所の家を紹介してくれたに留まった。
 もしもヘレンが新しい家なら異常現象も起きないと考えていたとしたら、それは大きな見当違いだった。なくなるどころか、ますます頻繁になったのである。が、移転によって一つだけ予期しなかった重要なことが生じた。それは夫のトーマスも〝物を見る〟ようになったことであった。お蔭で何ヶ月もの間ヘレンに出現した見知らぬ女性を自分でも見ることによって、真面目に取り合ってくれなかった夫も信じるようになった。
 さて、運命がついにその奥の手を出す時が来た。それは、見かけは冴えないが心霊的知識を持った一人の男が立ち寄ったことに始まる。
 心霊現象に悩まされた夜が明けた早朝のことである。ドアをノックする音がした。外で道路工事をしていた男が紅茶を温めさせてくれないかというのである。どうぞといってヘレンは招き入れた。
 男を見るとヘレンはなぜか夜中の不思議な現象を打ち明けたい衝動に駆られた。そこで長々と喋った。死者の声が聞こえたり姿が見えたり、一人の女性が毎晩のようにただ訪れては帰っていくので、この調子では頭が変になってしまうのではないかと心配だと語った。
 男はヘレンの話を親身になって聞いた後、ダーラム州訛り丸出しでこう言った。
 「それは奥さん、あんたはこの町一番の果報者ですな。奥さんを毎晩訪ねて来る女性は奥さんを救いにやってくるんです。奥さんはその内偉い霊媒になります」
 そして、今度その女性が出て来たら話しかけてみることですと言った。ヘレンは一度も話しかけたことはなかった。その男はスピリチュアリストだったのである。彼は手短にヘレンの現象を解説し、その目的を説明した。「奥さんは普通の五感とは別の感覚を使っているだけです。超能力というやつですな。千里眼と呼ぶ人もいます」
 彼がそう言った時、ヘレンはある体験を思い出していた。何年か前にシーハムという港のカフェで手伝っていた時、ノルウェー人の船員がヘレンを見て「ねえさん、あんたは天使とお喋りが出来るね。お母さんのマーガレットがあんたとあんたの家族を見守っていると、言ってますよ」
 母親の名前がマーガレットだということはその通りだし、それをその船員が知っているのは変だとは思ったが、船員の言っていることの本当の意味はその時は分からなかった。今道路工夫が懇切丁寧に、しかも論理的に説明してくれたお蔭で、ヘレンはいよいよ人生の曲がり角に来たことを悟った。
 それから六ヶ月、その男は毎日のように訪ねて来てヘレンを何かと励ました。そして最後にスピリチュアリスト教会へ行ってみるように勧めた。行ってみると霊視家からメッセージを授かった。その人は全く知らない人であったが、ヘレンのそれまでの体験を全部言い当て、その内あなたも立派な霊媒になりますと言った。
 それはやがて見事に実現することとなった。