自殺ダメ
『これが心霊(スピリチュアリズム)の世界だ』 M・バーバネル著 近藤千雄訳
霊的真理というものは、それを受け入れる用意のある人間にはいつでも授けられるよう霊界で配慮されていると私は信じている。宗教成立の過程はいわば霊と物質との相互作用である。過去幾十世紀にも亘って霊力は絶え間なくこの世に働きかけ、受け入れる用意のある者、それを必要とする者には必要なだけ授けられて来た。バイブルは他の多くの聖典と同様、その霊の働きかけの一つの証しである。その中の登場人物を預言者と呼ぼうと霊覚者と呼ぼうと、或いは霊媒と呼ぼうと、それはどうでもよいことである。要するに彼らは高級な霊の力がこの世に働きかけた、その人間的通路だったわけで、彼らの回りに起きた不思議なことや驚異的な現象が奇跡だといって騒がれたわけである。
天の啓示は必ずその時代と土地に相応しいものが授けられた。が、いつの時代にも、時代の正統派をもって任ずる者達による反対に遭った。彼らは自分達の宗教の儀文、教義、ドグマ、信条、儀式、慣行を守ろうとし、それが高級界からの新しい啓示の障害となった。新しい啓示は偉大なる霊能者に授けられるのが常で、その霊能者は衆目の前で心霊現象を見せることによって、まず民衆の注目を引いた。それからその現象の意味するもの、世界の全ての宗教の基本たるべき論理的原理を説いた。
やがて、そのリーダーが死ぬ。そして運動の硬直化が始まる。啓示が忘れ去られ、埋没し、仰々しい宗教的建造物の下敷きとなっていく。「霊は活かす」がしばし「儀文は殺す」にとって代わられる。かくして再び別の人物を通じて啓示を授ける必要が生じ、この繰り返しが何度も何度も続けられた。霊的真理をもってする以外に人生の意味を理解することは出来ないからである。
事は至って簡単なのである。世界のどこで何が起きても、それは自然法則の働きの結果でしかない。その自然法則を変えようとしたり阻止しようとしたり、無きものにしようとすることは、取りも直さず、それを支配している霊的存在を無視することである。もしも自然法則がそんなことで簡単に操られるとしたら、神は全治でもなく全能でもないことになろう。
神の法則には過去も現在も未来もない。いつの時代も同じである。パレスチナを聖地などと呼ぶが、イギリスが聖地でないのと同様、そこだけが特別に聖なる土地であるわけではない。他の年に比べて特に神のお恵みを受けた年があるわけでもない。現在のパレスチナには二千年前の霊力の働きの証拠は見当たらない。聖地パレスチナのお蔭で霊現象が起きているのではない。今日のパレスチナを見るがよい。「霊的しるしと奇跡」(使徒行伝)の代わりに今や戦争の暗雲に被われている。ユダヤ人とアラブ人の間の紛争は主として宗教的イデオロギーの違いに起因している。
同じことがインドのヒンズー教徒とイスラム教徒の間の分裂にも言える。彼らは教義上の差異から分裂し、それが原因で〝聖戦〟が起きている。戦争に果たして聖なる戦いがあるのだろうか。
神学がインスピレーションに取って代わる時、そこに生まれるのは不毛と兄弟ゲンカでしかない。霊は人類共通の要素であるが故に全てを一体化させる。神学は一宗教の占有物であり、それ独自の律法に基づく信仰であるが故に、他の宗派との間の闘争の種となり、憎しみさえ生む。人間の気ままな考えから生み出された神学が、果たして霊的根源から湧き出るインスピレーションと同一次元で論じられるだろうか。
近代スピリチュアリズムの勃興を、私は全ての宗教、全ての民族を一体化しようとする霊界の大計画の一端の現れと観ている。その証拠に、スピリチュアリズム的に観ればユダヤ教の霊とかプロテスタントの霊、ローマカトリックの霊、バプテストの霊、或いはヒンズー教の霊などといったものは存在しないのである。
死んで肉体を捨てると同時に迷いから覚めて、自分が霊的にはどの民族にもどの国家にもどの宗教にも属さないことを悟る。そして死後にも生命があるとの自覚が芽生え、何もかも地上で考えていたことと違うことを知ると、本能的に、我が愛する者達、地上に残した者達、自分と同じように何も知らずに明け暮れている者達に、是非ともこの霊的真理を教えてやりたいと思い始める。
そうした霊からの通信がここ百年余りの間に各種の霊媒現象を通じて送られて来た。まず自分の身元を証明することから始める。誰からの通信であるかを確認させる為である。身元が証明されると、新しい霊界の状況と地上との繋がりについて述べる。こうした要領で、愛の繋がりが死の淵の架け橋となって、近代スピリチュアリズムは無数の人々に新たな啓示を与えて来た。
こうしたことが、暖炉を祭壇にしつらえた何の変哲もない家庭、それも何百万という家庭で起きている。別に仰々しい宗教的御殿などはいらない。大聖堂もいらない。ステンドグラスの窓もいらない。法衣もいらない。聖像や聖画を飾る必要もない。聖遺物なども置く必要はない。私は別にそういったものを軽蔑するつもりも貶めすつもりもない。そういったものを身に回りに置いたり飾ったりすることで美しさや心の平静、また多くの場合、信仰の証しを見出す美的ないし情緒的欲求が人間にあることは私も知っている。ただ、いかに敬意を払うとしても、それは真の宗教とは何の係わりもないことだと言っているのである。
神を賛美することも、礼拝することも、神に祈ることも、それなりにある程度心の欲求を満たしてくれるかも知れない。が、それによって少しでも神に近づけるわけでもないし、霊性の自覚が生まれるわけでもない。
私の観るところでは、霊界の意図は過去一世紀に亘ってごく平凡な男女に霊的真理の証しを授けることにあったし、今もなおそうであると考える。近代スピリチュアリズムの波が丁度科学が人間を虜にし始めた時期と一致したことを私は決して偶然ではないと観ている。ビクトリア女王時代は科学と宗教の絶え間ない闘争の時代であり、常に宗教が敗者であった。科学は物的証明の出来ないものは絶対に受け入れようとしなかった。宗教はただ信仰心と希望と信念に訴えようとするから勝ち目はない。勝ち誇った科学はますます唯物主義に傾いていった。五感で認識出来ないものは認めようとしなくなっていった。
ところが現在はどうであろう。皮肉にも現代科学はどうしても非物質的分野に足を踏み入れざるを得なくなり、物質の根源はいかなる器械も捉え得ない程の極微の世界にあると主張し始めている。それほど極微でありながら、原子には地球上に恐怖と破壊をもたらすほど強烈なエネルギーが秘められている。
科学を無視した宗教は軽信と迷信を助長し、聖職者には魔力があるかに信じ込ませ、また多くの国で、宗教的独裁主義を助長する無知を生んだ。信者は、疑うことは悪である、師が禁じた書物を読むと永遠の生命が授からなくなる、などと教え込まれた。
科学を知らない宗教は信者を〝聖なる〟戦争に駆り立て、異教徒は、ここで死ねば魂が救われるのだという口実のもとに、次々と異端審問所という名の拷問室へ送り込まれた。
また科学を無視した宗教は無限なる神が小さな一個の教会の占有物であるとか、一冊の本に無限の真理が盛り込まれているとか、或いは又、神が特別に寵愛する選ばれた民がいるなどという愚か極まる考えを生み、それが今なお続いている。更には信仰は実践に優先する-つまり神学的教義を受け入れさえすれば魂は救われるのだと説き続けてきた。
科学性のない宗教は又、選ばれし者だけが許される黄金色に輝く天国などという滑稽極まる世界を想像し、あまつさえ、裁かれし者達の為の火炎地獄まで想像した。
科学を知らない宗教はまた信仰に凝り固まった人間、他を認めることの出来ない人間、そして恐怖心をもてあそんで人を説き伏せようとする人間を生んだ。スピリチュアリズムの宗教的教訓がラジオやBBCテレビは勿論のこと、他のいかなる民間放送でも取り上げてくれる可能性はない。同じことがユニテリアン派にもクリスチャン・サイエンスにも言える。
反対に宗教性を欠いた科学は一体何を成就したであろうか。核分裂の研究はついに人類を運命の岐路に立たせるに至った。科学は確かに多くの恩恵をもたらしてくれた。その発見や発明が人間の心を豊かにし、肉体も何かと楽が出来るようになった。
通信がスピードアップされた。世界が小さくなった。余暇が増えた。もっともその余暇の使い方は下手だが・・・。どこへ行くにも時間が短縮された。もっとも短縮されただけの時間の使い方もこれまた下手だが・・・。平均年齢も伸びた。多くの病気を地球上から駆逐した。もっとも、新しい病気も出て来た。それは複雑な文明が原因であることは疑いない。食料も何倍にも増えた。が、止まることを知らない人口の増加の為相変わらず各地で飢饉が発生している。
論理的ないし道徳的配慮を欠いた、宗教を知らない科学は、原子爆弾というものをこしらえてくれた。自分達のこしらえたものをどう使うかは科学のあずかり知らぬことだ-科学者達はこれまでそう弁解して来た。が、もうそんな言い訳は通用しない。その影響があまりに大きく、あまりに恐ろしいからだ。唯物主義からスタートした科学も、今や物質の有形性についての考えを棄てざるを得なくなってきた。物質とは形のあるものという考えは一種の錯覚である。
ここで思い出すのは、二十五年前ある霊媒現象の重要証人として出席したオリバー・ロッジが、この世は幻影であり霊界こそ実在界であると断言したことである。当時その答弁は軽蔑をもって迎えられたものである。が、今や科学がその半分の真実性を証明してくれている。物が形あるものと思うことは錯覚であるということである。残り半分、つまり霊界こそ実在であるということも、やがて機が熟せば証明されるであろう。
こうしたことがスピリチュアリズムとどういう関係をもつのであろうか。私はスピリチュアリズムこそ科学と宗教が手を結び協力し合っていく架け橋であると信じる。言ってみれば宗教的科学であると同時に科学的宗教なのである。死後の存続は科学的に証明出来る。そして、その意味するところは極めて宗教的である。科学と宗教とが手を結べば-これまでそうあらねばならなかったのだが-人間の進化に驚異的な一歩を印すことになろう。
スピリチュアリズムは本質的にはいかなる神学とも無関係である。係わりがあるのは真実の宗教、すなわち、全ての人間同士の霊的繋がりと、人間に生命を賦与してくれた神との繋がりを如実に悟らしめる霊的事実を提供してくれる宗教である。科学は、霊的実在の証拠を基盤として人類向上の為、そして又、肉体だけでなく神性を秘めた総体としての人間全体が存分に発達出来る環境を提供すべく活躍してくれることであろう。宗教はその科学の協力を得て、人間の全てがより優れた啓示とインスピレーションを受けられるよう、霊性の開発という本来の機能を果たすであろう。
かくして人間は、自分とは一体何なのか、何の為に地上にいるのか、どういう人間になればよいのかといったことを十分に理解することによって、自分で自分を救うことが出来るようになる。その救いは霊的新生にある。すなわち自分が霊的宿命を背負った霊的存在であることを認識することにある。これこそ今日絶望の淵に喘ぐ無数の人間にとっての大いなる希望である。戦争で疲弊し、心はひねくれ、疑い深く、そして迷い続ける人間は、そうした現代的疲弊に処方した哲学と宗教とを求めている。
現代人は古い信仰に完全に背を向けてしまった。既に打破されたと見做している。型にはまった教えや伝統的教義では最早大多数の人間にアピールすることは出来ない。
聖書では現代人の疑問に答え切れない。矛盾、危機、難問に絶え間なく悩まされるこの人生を導くのに、紋切り型の説教の繰り返しでは用をなさない。第一、聖職にある者自らが心密かに無力を感じている。明日は一体どうなるのかという恐怖におののきながら、現代人は当ても無く、あたかもコルクのように大海原を波に弄ばされながら、さ迷い続けている。しかも、その混沌たる視野の向こうには死の謎が待ち受けている。科学は自分達を裏切った、と彼らは言う。宗教にも裏切られた。哲学は思索はしてくれるが、解決は与えてくれない。
それをスピリチュアリズムが教えてくれる。神は常に神の証人を用意してくれていることをスピリチュアリズムは教えている。無知と迷信を追い払うべく、証拠付きの霊的知識を授けてくれる。生にも死にも、恐れるものは何一つないことを教えている。死ぬことのない人間がなぜ闇の中を生きる必要があろう。霊的真理の光が生きる道を照らしてくれる。死んでも何一つ後悔することはない。なぜなら地上生活が無駄でなかったことを知るからだ。
これこそが、かつてもそうだったのだが、〝しるしと奇跡〟を伴った現代の啓示である。卑しくも理性を具えた人間ならば、人から説教されずとも自分自ら判断し得心のいく真理である。
それがスピリチュアリズムなのである。
『これが心霊(スピリチュアリズム)の世界だ』 M・バーバネル著 近藤千雄訳
霊的真理というものは、それを受け入れる用意のある人間にはいつでも授けられるよう霊界で配慮されていると私は信じている。宗教成立の過程はいわば霊と物質との相互作用である。過去幾十世紀にも亘って霊力は絶え間なくこの世に働きかけ、受け入れる用意のある者、それを必要とする者には必要なだけ授けられて来た。バイブルは他の多くの聖典と同様、その霊の働きかけの一つの証しである。その中の登場人物を預言者と呼ぼうと霊覚者と呼ぼうと、或いは霊媒と呼ぼうと、それはどうでもよいことである。要するに彼らは高級な霊の力がこの世に働きかけた、その人間的通路だったわけで、彼らの回りに起きた不思議なことや驚異的な現象が奇跡だといって騒がれたわけである。
天の啓示は必ずその時代と土地に相応しいものが授けられた。が、いつの時代にも、時代の正統派をもって任ずる者達による反対に遭った。彼らは自分達の宗教の儀文、教義、ドグマ、信条、儀式、慣行を守ろうとし、それが高級界からの新しい啓示の障害となった。新しい啓示は偉大なる霊能者に授けられるのが常で、その霊能者は衆目の前で心霊現象を見せることによって、まず民衆の注目を引いた。それからその現象の意味するもの、世界の全ての宗教の基本たるべき論理的原理を説いた。
やがて、そのリーダーが死ぬ。そして運動の硬直化が始まる。啓示が忘れ去られ、埋没し、仰々しい宗教的建造物の下敷きとなっていく。「霊は活かす」がしばし「儀文は殺す」にとって代わられる。かくして再び別の人物を通じて啓示を授ける必要が生じ、この繰り返しが何度も何度も続けられた。霊的真理をもってする以外に人生の意味を理解することは出来ないからである。
事は至って簡単なのである。世界のどこで何が起きても、それは自然法則の働きの結果でしかない。その自然法則を変えようとしたり阻止しようとしたり、無きものにしようとすることは、取りも直さず、それを支配している霊的存在を無視することである。もしも自然法則がそんなことで簡単に操られるとしたら、神は全治でもなく全能でもないことになろう。
神の法則には過去も現在も未来もない。いつの時代も同じである。パレスチナを聖地などと呼ぶが、イギリスが聖地でないのと同様、そこだけが特別に聖なる土地であるわけではない。他の年に比べて特に神のお恵みを受けた年があるわけでもない。現在のパレスチナには二千年前の霊力の働きの証拠は見当たらない。聖地パレスチナのお蔭で霊現象が起きているのではない。今日のパレスチナを見るがよい。「霊的しるしと奇跡」(使徒行伝)の代わりに今や戦争の暗雲に被われている。ユダヤ人とアラブ人の間の紛争は主として宗教的イデオロギーの違いに起因している。
同じことがインドのヒンズー教徒とイスラム教徒の間の分裂にも言える。彼らは教義上の差異から分裂し、それが原因で〝聖戦〟が起きている。戦争に果たして聖なる戦いがあるのだろうか。
神学がインスピレーションに取って代わる時、そこに生まれるのは不毛と兄弟ゲンカでしかない。霊は人類共通の要素であるが故に全てを一体化させる。神学は一宗教の占有物であり、それ独自の律法に基づく信仰であるが故に、他の宗派との間の闘争の種となり、憎しみさえ生む。人間の気ままな考えから生み出された神学が、果たして霊的根源から湧き出るインスピレーションと同一次元で論じられるだろうか。
近代スピリチュアリズムの勃興を、私は全ての宗教、全ての民族を一体化しようとする霊界の大計画の一端の現れと観ている。その証拠に、スピリチュアリズム的に観ればユダヤ教の霊とかプロテスタントの霊、ローマカトリックの霊、バプテストの霊、或いはヒンズー教の霊などといったものは存在しないのである。
死んで肉体を捨てると同時に迷いから覚めて、自分が霊的にはどの民族にもどの国家にもどの宗教にも属さないことを悟る。そして死後にも生命があるとの自覚が芽生え、何もかも地上で考えていたことと違うことを知ると、本能的に、我が愛する者達、地上に残した者達、自分と同じように何も知らずに明け暮れている者達に、是非ともこの霊的真理を教えてやりたいと思い始める。
そうした霊からの通信がここ百年余りの間に各種の霊媒現象を通じて送られて来た。まず自分の身元を証明することから始める。誰からの通信であるかを確認させる為である。身元が証明されると、新しい霊界の状況と地上との繋がりについて述べる。こうした要領で、愛の繋がりが死の淵の架け橋となって、近代スピリチュアリズムは無数の人々に新たな啓示を与えて来た。
こうしたことが、暖炉を祭壇にしつらえた何の変哲もない家庭、それも何百万という家庭で起きている。別に仰々しい宗教的御殿などはいらない。大聖堂もいらない。ステンドグラスの窓もいらない。法衣もいらない。聖像や聖画を飾る必要もない。聖遺物なども置く必要はない。私は別にそういったものを軽蔑するつもりも貶めすつもりもない。そういったものを身に回りに置いたり飾ったりすることで美しさや心の平静、また多くの場合、信仰の証しを見出す美的ないし情緒的欲求が人間にあることは私も知っている。ただ、いかに敬意を払うとしても、それは真の宗教とは何の係わりもないことだと言っているのである。
神を賛美することも、礼拝することも、神に祈ることも、それなりにある程度心の欲求を満たしてくれるかも知れない。が、それによって少しでも神に近づけるわけでもないし、霊性の自覚が生まれるわけでもない。
私の観るところでは、霊界の意図は過去一世紀に亘ってごく平凡な男女に霊的真理の証しを授けることにあったし、今もなおそうであると考える。近代スピリチュアリズムの波が丁度科学が人間を虜にし始めた時期と一致したことを私は決して偶然ではないと観ている。ビクトリア女王時代は科学と宗教の絶え間ない闘争の時代であり、常に宗教が敗者であった。科学は物的証明の出来ないものは絶対に受け入れようとしなかった。宗教はただ信仰心と希望と信念に訴えようとするから勝ち目はない。勝ち誇った科学はますます唯物主義に傾いていった。五感で認識出来ないものは認めようとしなくなっていった。
ところが現在はどうであろう。皮肉にも現代科学はどうしても非物質的分野に足を踏み入れざるを得なくなり、物質の根源はいかなる器械も捉え得ない程の極微の世界にあると主張し始めている。それほど極微でありながら、原子には地球上に恐怖と破壊をもたらすほど強烈なエネルギーが秘められている。
科学を無視した宗教は軽信と迷信を助長し、聖職者には魔力があるかに信じ込ませ、また多くの国で、宗教的独裁主義を助長する無知を生んだ。信者は、疑うことは悪である、師が禁じた書物を読むと永遠の生命が授からなくなる、などと教え込まれた。
科学を知らない宗教は信者を〝聖なる〟戦争に駆り立て、異教徒は、ここで死ねば魂が救われるのだという口実のもとに、次々と異端審問所という名の拷問室へ送り込まれた。
また科学を無視した宗教は無限なる神が小さな一個の教会の占有物であるとか、一冊の本に無限の真理が盛り込まれているとか、或いは又、神が特別に寵愛する選ばれた民がいるなどという愚か極まる考えを生み、それが今なお続いている。更には信仰は実践に優先する-つまり神学的教義を受け入れさえすれば魂は救われるのだと説き続けてきた。
科学性のない宗教は又、選ばれし者だけが許される黄金色に輝く天国などという滑稽極まる世界を想像し、あまつさえ、裁かれし者達の為の火炎地獄まで想像した。
科学を知らない宗教はまた信仰に凝り固まった人間、他を認めることの出来ない人間、そして恐怖心をもてあそんで人を説き伏せようとする人間を生んだ。スピリチュアリズムの宗教的教訓がラジオやBBCテレビは勿論のこと、他のいかなる民間放送でも取り上げてくれる可能性はない。同じことがユニテリアン派にもクリスチャン・サイエンスにも言える。
反対に宗教性を欠いた科学は一体何を成就したであろうか。核分裂の研究はついに人類を運命の岐路に立たせるに至った。科学は確かに多くの恩恵をもたらしてくれた。その発見や発明が人間の心を豊かにし、肉体も何かと楽が出来るようになった。
通信がスピードアップされた。世界が小さくなった。余暇が増えた。もっともその余暇の使い方は下手だが・・・。どこへ行くにも時間が短縮された。もっとも短縮されただけの時間の使い方もこれまた下手だが・・・。平均年齢も伸びた。多くの病気を地球上から駆逐した。もっとも、新しい病気も出て来た。それは複雑な文明が原因であることは疑いない。食料も何倍にも増えた。が、止まることを知らない人口の増加の為相変わらず各地で飢饉が発生している。
論理的ないし道徳的配慮を欠いた、宗教を知らない科学は、原子爆弾というものをこしらえてくれた。自分達のこしらえたものをどう使うかは科学のあずかり知らぬことだ-科学者達はこれまでそう弁解して来た。が、もうそんな言い訳は通用しない。その影響があまりに大きく、あまりに恐ろしいからだ。唯物主義からスタートした科学も、今や物質の有形性についての考えを棄てざるを得なくなってきた。物質とは形のあるものという考えは一種の錯覚である。
ここで思い出すのは、二十五年前ある霊媒現象の重要証人として出席したオリバー・ロッジが、この世は幻影であり霊界こそ実在界であると断言したことである。当時その答弁は軽蔑をもって迎えられたものである。が、今や科学がその半分の真実性を証明してくれている。物が形あるものと思うことは錯覚であるということである。残り半分、つまり霊界こそ実在であるということも、やがて機が熟せば証明されるであろう。
こうしたことがスピリチュアリズムとどういう関係をもつのであろうか。私はスピリチュアリズムこそ科学と宗教が手を結び協力し合っていく架け橋であると信じる。言ってみれば宗教的科学であると同時に科学的宗教なのである。死後の存続は科学的に証明出来る。そして、その意味するところは極めて宗教的である。科学と宗教とが手を結べば-これまでそうあらねばならなかったのだが-人間の進化に驚異的な一歩を印すことになろう。
スピリチュアリズムは本質的にはいかなる神学とも無関係である。係わりがあるのは真実の宗教、すなわち、全ての人間同士の霊的繋がりと、人間に生命を賦与してくれた神との繋がりを如実に悟らしめる霊的事実を提供してくれる宗教である。科学は、霊的実在の証拠を基盤として人類向上の為、そして又、肉体だけでなく神性を秘めた総体としての人間全体が存分に発達出来る環境を提供すべく活躍してくれることであろう。宗教はその科学の協力を得て、人間の全てがより優れた啓示とインスピレーションを受けられるよう、霊性の開発という本来の機能を果たすであろう。
かくして人間は、自分とは一体何なのか、何の為に地上にいるのか、どういう人間になればよいのかといったことを十分に理解することによって、自分で自分を救うことが出来るようになる。その救いは霊的新生にある。すなわち自分が霊的宿命を背負った霊的存在であることを認識することにある。これこそ今日絶望の淵に喘ぐ無数の人間にとっての大いなる希望である。戦争で疲弊し、心はひねくれ、疑い深く、そして迷い続ける人間は、そうした現代的疲弊に処方した哲学と宗教とを求めている。
現代人は古い信仰に完全に背を向けてしまった。既に打破されたと見做している。型にはまった教えや伝統的教義では最早大多数の人間にアピールすることは出来ない。
聖書では現代人の疑問に答え切れない。矛盾、危機、難問に絶え間なく悩まされるこの人生を導くのに、紋切り型の説教の繰り返しでは用をなさない。第一、聖職にある者自らが心密かに無力を感じている。明日は一体どうなるのかという恐怖におののきながら、現代人は当ても無く、あたかもコルクのように大海原を波に弄ばされながら、さ迷い続けている。しかも、その混沌たる視野の向こうには死の謎が待ち受けている。科学は自分達を裏切った、と彼らは言う。宗教にも裏切られた。哲学は思索はしてくれるが、解決は与えてくれない。
それをスピリチュアリズムが教えてくれる。神は常に神の証人を用意してくれていることをスピリチュアリズムは教えている。無知と迷信を追い払うべく、証拠付きの霊的知識を授けてくれる。生にも死にも、恐れるものは何一つないことを教えている。死ぬことのない人間がなぜ闇の中を生きる必要があろう。霊的真理の光が生きる道を照らしてくれる。死んでも何一つ後悔することはない。なぜなら地上生活が無駄でなかったことを知るからだ。
これこそが、かつてもそうだったのだが、〝しるしと奇跡〟を伴った現代の啓示である。卑しくも理性を具えた人間ならば、人から説教されずとも自分自ら判断し得心のいく真理である。
それがスピリチュアリズムなのである。