自殺ダメ



 更にその先の一段とバイブレーションの低い階層には、地上時代に暴力、強盗、淫乱、酒乱、麻薬等で世の中に迷惑をかけ通しだった者達がたむろしています。
 その又先の最低界には拷問と虐殺の限りを尽くした、卑劣にして悪辣な魂が類をもって集まっています。そうした中から、時折、再び肉体に宿って地上界へ出現し、同じような行為を繰り返す者もいるようです。
 そうした残虐行為の最たるものが、中世のローマ・カトリック教会による異端審問と、第二次世界大戦によるユダヤ人虐殺でしょう。今日でさえ地上には同胞の生命や存在価値に無頓着な者がいます。皮肉なことに、その多くが宗教の名の下に組織をこしらえて、富と権威と名声を大きくすることに奔走している代表者なのです。
 元々宗教というのは、イエスのような秀でた霊覚者によって説かれた同胞への愛と共存精神のもとに自然発生的に出来たものでしたが、それが後継者達によって信者を人工の教義によって強制的に縛るようになっていきました。それは当然それを信じる者達の言動に影響し、幽体のバイブレーションを下げる結果となりました。
 やがてその信者達も死を迎えます。すると類は類をもって集まるの譬えで、同じバイブレーションをした低階層に集まります。そこでは〝気心の合った〟(精神的発達程度が同じ)者ばかりがいて、そこでまた地上時代と同じような生活を営みます。精神のレベルと幽体のバイブレーションとが環境と調和して居心地がいいわけです。
 見方を変えれば、彼らは〝光の存在〟との接触が出来ない階層までバイブレーションが下がったということは、それだけ霊的進化を犠牲にしたということです。そうなった場合にまずいのは、波動の原理で地上界の同じレベルの人間と無意識の内に一体となって、物的地上生活を体験することになることです。
 こうして自由意志を履き違えた人間によって自然発生的に出来上がった〝地獄〟が永続し、宇宙に不協和音を響かせます。人間は知性と欲望を併せ持った唯一の存在であることを考えると、これは当然のことです。地上の他の創造物は食べることと子孫を遺す本能を持つだけです。シルバーバーチは自由意志の問題をこう解説します-
 「その意味では堕落した人間、同胞に危害を与えて何とも思わない人間の存在は大霊の責任であると言えないことはありません。しかし霊の普遍的な特権として、〝自由意志〟というものが授けられています。これは霊的に進化するにつれて正しい使用方法を会得していきます。霊的進化の階段を登る程、その使用範囲が広まります」
 イエスも『マタイ伝』(10・28)で《肉体を殺しても魂を殺しえぬものを恐れてはならない。肉体と魂を共に地獄にて滅ぼしうるものを恐れよ》と述べ、パウロも精神の意識レベルの影響を《肉体的な思念は死なり。霊的な思念は生命なり、平安なり》と表現しています。
 こうした場合の〝殺す〟とか〝死〟といった表現は霊的進化が不可能となるという意味に取るべきでしょう。
 ヒンズー教の教典『バガバッド・ギータ』も霊的進歩を自らの意志で拒否した者の運命をこう述べています-
 《生と死の果てしなき循環(生まれ変わり)の中で、そのような最低の人間、残忍で邪悪で憎しみに満ちた魂は、私が容赦なく破滅へと葬り去るであろう。アルジュナよ、より低き階層の闇の中に生まれ変われる者は、もはや私のもとへは来ぬ。地獄への道を落ち延びていくであろう。その地獄への道と魂の死に至る門が三つある。情欲の門と激怒の門、そして貪欲の門である。この三つの門を人間に通らせるでないぞ》

 (訳者解説)
 バガバッド・ギータは古代インドの叙事詩で、ヴィシュナ神の化身クリシュナと英雄アルジュナとの哲学的な対話。ここで〝私〟と言っているのはクリシュナ。なお、最初に出ている〝生と死の果てしなき循環〟には、地上界だけでなく幽界の下層界への転落も含まれている。そういう魂と波動が一致した人間は、身は地上にあっても魂はその下層界に属していることになる。